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鱗の騎士  作者: 市田智樹
揺らぐ境界
9/13

クロース・トゥ・マリス

 逃げろ。


 今すぐ、一刻も早く、この場から逃げろ。


 頭の中でガンガンと警鐘が鳴っている。本能が危険を訴えている。……うるさい。そんなこと分かってる。はやく逃げなきゃ……だけど、思いに反して体はいうことを聞かない。竦み上がってしまっているのだ。

 男から目が離せない。見ているだけで、体の芯から震えがこみ上げてくるのに……それでも、男の冷え切った紅い目に吸い寄せられてしまって、おれは逃げるどころか、立ち上がることさえできずにいた。


――こいつは、やばい。


 こんなやつにはじめて出会った。こんな種類の人間がいるのか。こいつはきっと……人の命を奪うことを、一切躊躇なんかしない。()()()()()をしている。

 男から視線を外すこともできないまま……手探りで、飛びこんできた少女の肩をかき抱く。……彼女もまた、おれと同じかそれ以上に、ひどく震えているのが伝わってきた。


――細かい事情なんか知らない。だけど、この子を、目の前の男に引き渡しちゃいけない、絶対に。


「おいおい、無視とはつれねえなあ。お姫さまー、お迎えに上がりましたよー」


 それまで黙っていた男が、不意に声を上げた。……ひどく不快な猫撫で声だ。その声に、一際背筋が粟立つ。

 おれのそんな反応など、まるで気にとめていないらしい。男は少女にしか関心がない様子で、彼女に語りかけながらゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


「いやあ、大変だったぜ、こんなところまで追ってくんのはよ。……でもま、お前のそんなカオが見られるんなら、苦労も報われるってもんだ。なあ」

「な、んだよ、おまえ……こっちに来るんじゃ、」

「なあ、おかしいと思ってんだろ? どうして俺が追ってこられたのか、不思議でならないんだろう。くく、あはは、気味わりぃよなあ、クレア? なあっ!」

「来るんじゃねえって、言ってんだろ……やめろよ!」


 おぞましさが限界に達した。

 男は、おれの言葉には本当にまるで耳を傾けていなかった。自分が話しかけられているわけでもないのに、その声や、醜く歪んだ表情に堪えかねて、おれはついに腰を浮かせた。


「っ……だめ、伏せて!」


 突然、少女が鋭い声を上げ、おれの胸倉を掴んだ。無理やりに引っ張ってまた床に引き倒し、伏せさせる。――直後、爆発。

 ほんの数十センチの頭上で、空間が急速に熱を帯びていくのを感じたかと思うと、その矢先、轟音とともに爆ぜた。……それは周囲に熱をまき散らして、あっという間におれたちを巻きこんで焼いた。


 全てが一瞬だった。目まぐるしく変化する状況に、おれは情けないほど何もできずにいた。ただ、襲ってきた激しい痛みに背中を焼き焦がされて、悶えることしかできなかった。……そのうち、爆発の衝撃で床が壊れ、崩落が始まる。


「おっと、やり過ぎた」


 暢気に言うそんな声が背後に聞こえて――ぞっとしたのもつかの間、今度は急に腕を掴まれる。


「うわ、わ……」

「落ち着いて、私よ!」


 少女の声。次いで、視界が暗転する。――「鍵」の孔を潜ったのだ。焼かれた背中で地面を強く打ち、激しく呻く。


「立って、走って!」


 張り詰めた声の少女が、掴んだおれの腕を引いて立ち上がらせる。そのまま、返事も待たずに彼女は走り出した。


「お、おい……」

「話は後、今は走って!」


 有無を言わせぬ調子だった。わけも分からないまま、少女に手を引かれて、ただ走る。


――なにが起こってる。

 おれは、いったい、何に巻きこまれてる? 

 なんなんだ、あいつ。どうしておれまでこんな目に。どうしておれが殺されなきゃならない? おれが何をしたっていうんだ、どうして。


 動揺のあまり、思考もまとまらなければ、呼吸も安定しない。……わけが分からない。もうずっと、理解できないこと続きだ……だけど、少女の言う通り、説明を求めている場合ではないのだろう。


 早くあの男から逃げなければ。

 追いつかれたら、きっと、殺される。


 警告を繰り返す頭の中の声に追い立てられながら、ただ少女について走った。


 今どこを走っているのかも分からない。少女の力で男のそばから離れることには成功したようだが、彼女の様子を見る限り、安全とはほど遠い。

 周囲の様子を伺う。……まだ廃墟の中だった。遠くに瓦礫の崩れる音が聞こえる。まだ、同じ建物の中にいるんだ……そう思うだけで、内蔵がぎゅうっと締めつけられるように感じた。

 恐怖と混乱、緊張で思うように足が動かず、何度も足をもつれさせては、転んでしまわないよう、必死に次の一歩を踏み出す。それがせいいっぱいだった。……少女の方はといえば、小さい体のどこからそんな力が湧いてくるのか、荒い呼吸を繰り返しながらも、一向に速度を緩めない。振り返ることもなく、暗い廃墟の中をしっかりとした足取りで駆けていく。


 くそ、情けねえ……っ。


「おい、クレア! あいつはなんなんだ、なんで襲ってくるんだよ?」


 前を行く少女に、半ば叫ぶようにして問いかける。その声が震えているのが自分でも分かった。


「分からない、名前も知らない! でも、命を狙われてる!」


 問われた少女も同じように怒鳴り返す。彼女は前を向いたままで、表情は見えなかったが、背中越しにも緊張が伝わってくるようだった。


「だけど、なんで……」


 困惑した声で、少女がこぼした。おれに向けられた言葉というより、それは独り言のようだった。


「何! なんか、気になること、あんの?」

「……ううん、何でもない。それより、今は早く、この場を離れないと」


 訊くと、迷いを振り払うように少女が答えた。……少し気にはなるけど、彼女の言う通り、今は身の安全が先だ。


 壁のぼろぼろになった通路の角に差しかかり、曲がる――と、次の瞬間、体がふわりと浮かび上がり、闇を潜った。少女がまた「鍵」を使ったのだ。うわ、と思わず声を上げたが、今度はどうにか着地に成功する。

 廃墟と周囲の焼野との境に来ていた。少女はすぐさま、開けた焼野に駆け出そうとする。

――少女が一歩を踏み出したちょうどその時、えも言われぬ悪寒が全身を駆けた。


 ほとんど咄嗟の判断で、少女の腕を掴み、力任せに引き寄せる。崩れた柱の陰に二人して倒れこんだ、その直後だった。甲高い風切り音をあげて、鉄の槍が振ってきた。それは石床を易々と砕いて、その下の地面に深々と突き刺さった。遅れて、何本もの炎の矢が、ちょうど少女が飛び出したあたりを焼き焦がす。腕の中の少女が、小さく、声にならない悲鳴を上げる。おれも肌が粟立つのを感じながら、慌てて、少女の口を押さえる。


「へえ。いいカンしてんなあ」


 男の、あざ笑うような声が聞こえる。恐る恐る、柱の陰から周囲の様子を伺う。赤い髪の大男が、焦げた床の上にいつの間にか立っていた。


 おいおい、冗談だろ。


 思わず頬が引きつる。必死に逃げ回っていたのがばかみたいだ。おれたちは「鍵」の魔法を使った直後で、つまり、それまでまったく別の場所を走っていたのだ。それなのに、精確に狙い撃たれるなんて……。


「なあ、隠れてないで出てこいよ。おしゃべりしようぜ」


 やはり、でたらめに仕掛けたわけではなさそうだ。ここに隠れていることを見抜かれている……。男は、地面に食いこんだ槍をこともなげに引き抜くと、片手でくるくると弄んだ。と、次の瞬間、槍を持った腕を後方へと引き絞り、力いっぱい振り抜く。おれは慌てて、少女を抱えたまま柱の陰から転がり出る。


「やるね。なかなか頑張るじゃねえの、こう何度も躱されるとは思ってなかったぜ。面白い駒を持っているな、お姫さま?」


 槍は石造りの柱を簡単に貫通した。あのまま隠れていたら……いやな想像をかき立てられ、苦い顔になる。

 男はにやりと底意地の悪い笑みを浮かべながら、壊れた柱の破片を被って咳きこむおれたちを見下ろしていた。あくまで、おれのことは無視するつもりらしい。

 くそったれ。絵里さんのときのクレアといい、()()()じゃこういう態度が普通なのか? ……心の中で毒づきながら、けれど、男と真っ向から睨み合う度胸は持てなかった。情けないくらい、体は恐怖に震えている。


「……この人は、駒ではないです。それに、私は誰であろうと、駒だなんて思ったことはないわ」

「おっと、これは失礼。――さすが、高貴な御方は言うことも気高くていらっしゃる」


 声の震えを抑えて、屹然と答えた少女に対し、人を小ばかにした態度で返す。相変わらず、せせら笑うような調子。

 少女の表情は硬かった。それに、男が身じろぐたびに、全身がこわばるのが肩越しに伝わる。それでも、彼女は、男の視線をまっすぐに受け止めていた。


――本当に、情けない。何をやってるんだ、おれは。


 怖いのは、逃げ出したいのはこの子だって同じだ。だいたい、命を狙われているのは彼女の方なのだ。それなのに……その彼女が懸命に立ち向かおうとしている隣で、おれは無様にも這いつくばっている。


「あなたは……あなたたちは、何が目的なの」


 硬い声で少女が問う。男は鼻で笑って切り捨てた。


「はっ。さあて、連中の考えなんざ、俺にも分かんねえさ。ただよ、そんなことはお前が気にすることじゃないんだぜ」


 不服そうな少女を見下して、こちらへ向けて大きく一歩を踏み出すと、


「今から俺に殺されるお前には、なあ?」


 殺気のこもった声で言う。


――ぞわり、一際ひどい悪寒に苛まれ、全身が粟立つ。


 これまでのような、せせら笑うような声色ではなかった。本気の殺意だ。いや、これまでだって殺すつもりには違いなかっただろうが、ああもう、どうでもいい!


「クレア、危ない!」


 ほとんどタックルと言っていいような勢いで、彼女を横方向に突き飛ばす。炎が、おれたちの()()から襲い来るのを、間一髪、躱した。


「……へえ。献身的だね。で、お前は何なのよ」


 はじめて、男がおれに向けて言葉を発する。一瞬、男の目は驚きに見開かれたが、今は面白くなさそうに細められている。


「……お前こそ、何なんだよ。この子がいったい何したってんだ、事情は知らないけど、こんな風に追いかけ回して、」


 言葉の途中で、腹部にもの凄い衝撃を受け、体が浮き上がる。そのまま、勢いで後ろへと吹き飛ばされた。石の柱にぶつかり、背と腹に激痛。


「知らねえなら黙ってろよ」


 苛立った声がする。……ちくしょう。相変わらず、でたらめだ。


 何をされたのか分からない。けれど、とても痛い……激しく咳きこみながら、涙のにじんだ目で、前方の様子を伺う。クレアが、こちらに向かって駆け寄ってくるところだった。


「だ、大丈夫⁉」

「ばか、やろう! 後ろから来てるっ!」


 声を張り上げて警告する。――今度は間に合わない。少女がはっと気づいて振り返ろうとした時には、彼女もおれと同じように不可視の攻撃を受けていた。男の手の動きに合わせて、少女の体はいったん前のめりになったかと思うと、宙に浮き上がり、さらには横なぎに投げ飛ばされた。


 急いで、助けに行かなければ……立ち上がろうとしたが、腹部が強烈に痛んだ。痛む箇所へと視線を向ける。……切り裂かれたように四本の鋭利な傷口が走っていて、大量に血が流れている。

 傷を意識したとたん、より痛みが増した。「っ、ぐ、ああ……っ」痛すぎて、声にもならない。呻き声をあげて、その場に這いつくばる。


 くそ……さっきから、こんなのばっかりだ。


 せめて意識が飛ばないようにと、懸命に堪える。……ああ、あの男が、クレアの方に向かってる。どうにかしなくちゃ、今、この場にはおれたち三人以外、誰もいないんだ。

 瞬間、体がふわりと浮き上がる。――クレアの隣に転移させられた。地面に降り立つわずかな衝撃だけで、ばかみたいな痛みが全身を貫く。

 少女は即座に鍵を構えなおし、逃走を試みるが、今度は阻まれた。少女の魔法よりも早く、炎の矢が降り注ぐ。痛みに怯んでいる場合ではない。少女の後ろ襟を掴んで、回避。


「今の、自分一人なら逃げれたろ。なんで……」

「そうしたら、あいつはあなたを殺すわ」


 男が迫ってくるまでの間、態勢を整えながら素早く言葉を交わす。それ以上の時間はなかった。


「反吐が出るほど美しい助け合いだなあ。忘れるなよ、お姫様、その下らねえ慈悲がお前を殺すんだ」


 突き出した手のひらの傍で、炎が渦巻いている。もはや男の顔面には薄ら笑いすら張りついていない。

 あいつが近づいてくる。逃げなければ。でも、この状況を、どう切り抜ければいい? どうすれば……。

 痛みやら焦りやらで、思考が停止する。もうだめだ、そう思ったとき、少女の声で我に返る。


「私は死なない、あなたになんか、殺されない! レオルだって、あなたたちの思い通りにはならないわ」


 芯の通った、凜とした声だった。……すごいな、この子は。おれなんか、さっきから、何もできずに振り回されているだけなのに。

 歯噛みするおれの耳元で、少女は囁いた。


「――ほんの一瞬でいい、あの男の意識をそらして」


 そらせるかどうか? なんて問いかけではなかった。そんな無茶な。そう思っても、迷っている猶予などはなかった。


「へーえ。じゃあ、まずは、この危機的状況を乗り切ってみせてくれよ」


 男が一層苛立った様子で吐き捨てる。……無茶な要求だろうと、成し遂げなければ、どのみち先はなさそうだ。くそったれ、こうなったらやけだ。

 腹を括って、立ち上がる。それだけで、もう、死にそうなほど痛い。


「ったく、どいつもこいつも……。諦めろよ、なあ。お前が、今さらでしゃばって、何になるんだよ、あ?」

「……うるせえな。やってみなくちゃ、分かんねえだろ」


 最後まで言い終わらぬうちに、男が炎を放つ。反射的に飛び退こうとして――直感が「留まれ」と告げる。浮きかけた体に急制動をかけて、その場で固く目をつぶって耐える。大丈夫、大丈夫……っ!

 直感は正しかった。炎はおれの頬や脇腹をわずかに焦がしただけで通り抜け、後ろにいる少女を傷つけることもなく、周囲の床を焼いた。固く閉じた目を開けると、男が苦々しい表情で舌打ちするところだった。


「ああ、そう。あくまで邪魔するわけだな」


 男は盛大にため息をついて、赤い髪をかきむしった。


「じゃ死ねよ」


 左から()()来る――。今度は度胸試しではない、直撃する。だけど後ろには少女がいるから避けられない。……それ以上考える時間はなかった。その場で手を振り上げ、防御の姿勢をとる。その直後、左腕に凄まじい衝撃。

――あまりの痛みに、声も出なかった。

 硬い地面に強く胸を打ちつけ、息が詰まる。そのまま、何度か地面を転がって、ようやく体が止まった。


――くそ……折れてる……っ。


 何も見えなかったけど……たぶん、あの鉄の槍で殴られたんだ。もう、こっちの手はしばらく使い物にならない。ちくしょう、やっぱり無謀だった、一瞬でも何とかなると思ったおれがばかだった。ああ、痛い。腹だけでも死にそうだってのに……。何より、クレアから離れてしまった。これじゃ逃げられない、失敗した――。

 俯くおれの頭上を、轟音とともに突風が吹き抜ける。男が新たな攻撃を放ったのかと思い、顔を上げるが、そうではなかった。風に煽られて宙を舞っていたのは、男の方だった。


「こっちへ!」


 少女が一瞬の隙を突いて反撃したのだ。彼女はおれの方を向いて叫んでいた。すでに少女は駆けだしていたが、その向こうでは、飛ばされた男もまた受け身をとり、素早く身を起こすところだった。


 猶予は本当に一瞬だけだ。


 もう体はぼろぼろで、動くのもやっと、走ることなんてできなかった。よろめきながら、何とか気力だけで前へと進む。少女との距離があと数歩のところまで来た時、男の放った火炎は少女のすぐ真後ろに迫っていた。


 間に合わない、と思った。


 けれど、危険を告げるより速く、走っていた少女が不意に跳躍した。彼女だって、足をけがしていて痛むだろうに、力強く地面を蹴って舞い上がる。飛びこんできた少女を受け止めようとしたが、今の体では叶わず、激痛に堪えかねて後ろに倒れた。次の瞬間、視界が暗転――浮遊感の後、おれたちは重なり合うようにして、木々の間に倒れこんだ。


「っ……ごめん、痛かった、かな。だけど、その、咄嗟だったから……」

「いや……ありがとう、おかげで助かった」


 息も絶え絶えに、言葉を交わす。痛かった、なんてもんじゃないが、それでも、少女の判断は正しかった。あのまま、男の攻撃を受けてしまっていたら。最後のチャンスも失って、二人まとめて殺されてしまっていただろう。


「まあ、ともかく、けががなくてよかっ……」


――言いかけて、はたと気づく。少女の背中が、じっとりと濡れている。いやに生温く、どくどくと、脈打って、次々に流れ出して……()()()()()()()()()

 慌てて、少女の背中へと視線を移して――再び言葉を失う。


 肩口から腰のあたりまで……背の全域が、赤く焼けただれている。絹のような肌が見る影もなく、ぶくぶくと腫れ上がり、さらには火矢の刺さったらしい痕がいくつも穿たれている。


「だ、大丈夫か!? そんな……」


 露骨に動揺してしまうおれを、彼女は制する。「静かに。たいしたこと、ないから……それより、気づかれるかもしれない」

 その言葉に、おれは再び凍りつく。「ごめんなさい……あまり、遠くへは行けなかった。体力が、もたなくて……今、どのあたりにいるのかも、ちょっとよくわからないの」

 苦しそうに、彼女は一言ずつ、絞り出すように話した。その間も血は止めどなく溢れ続けていて、はやくも暗い地面に血だまりが形成されているのが分かるほどだった。


 頭が、まわらない。


 どうしよう……あいつは、あの男はどこだ? まだ、近くにいるのか? いるとしたら、今度は、どうやって逃げれば……。


 さっきの場所から、どのくらい離れられているのかも不明だった。周囲を見渡す。今は夜更け、こんな高い木々に囲まれた場所では光などないに等しかった。よほど顔を近づけなければ何も見えない。しかし木々が生い茂る以上、下手に動けば、音で悟られるかもしれない。といって、このまま、じっとしているわけにもいかない。おれもいいかげん重傷だが、少女の傷はそんな程度じゃない。「たいしたことない」なんてぜったい嘘だ。はやく……はやく、手当てをしないと。


 不意に、深い闇の向こうにあかりが見えた。木々の隙間で、遠く、赤い光が揺らめいている。――それが炎で、森全体に広がっているのだと気づくころには、光は前方の視界いっぱいに広がっていた。


――思ったよりも近い。


 気づいてぞっとした。まだ、あの男はすぐ近くにいるのだ。おれたちがここに潜んでいることを分かって、こんな無茶をしでかしているのか。それとも、またしても逃げられたことに怒って、闇雲に火を放ったのだろうか。……みるみるうちにも、炎はこちらに近づいてくる。空気が熱を帯び始めるのが感じられた。もう時間がない。焼け死ぬか、身を隠す木がなくなって男に捕まるか、このままではふたつにひとつだ。


「ねえ。お願いが、あるんだけど……」


 少女が弱々しく言う。ほとんど囁くような声だった。


「な、なんだ……⁉ お、おれにできることなら、何でも言ってくれ。おれは、どうすればいい?」

「鍵が見当たらない。どこか、その辺に落ちていると思うから……」


 慌てて地面の暗がりを探す。幸いにも鍵はすぐに見つかった。けれど、拾い上げる手が震える。少女の血に濡れた鍵は滑って、何度も取り落としてしまう。


「大丈夫。落ち着いて……そう……あとは、少しの間、私を支えておいて」


 鍵を受け取った少女が、目をつぶり、まじないかけを始める。おれは背中の火傷に触れないよう、彼女の肩を慎重に抱いて、上体を起こしてやる。それだけでも、痛みのあまり、彼女は激しく呻いた。


 いよいよ、自分の無力さを呪う。……こんなにも、この子が懸命に闘っているというのに、おれは、なんて不甲斐ない。


 少女は最後の気力を振り絞るように、鍵を強く握りしめ、それを宙にかざした。

 目の前に、周囲の闇よりも更に黒い、楕円の孔が生じる。おれは少女をしっかりと抱きかかえ――痛みで失神するかと思った――その闇へと足を踏み入れる。


 次に目を開いたとき、正面には、見覚えのある戸口が、月の光に照らされてそこに在った。


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