ビジター・フロム・マイドリーム
たった今、目の前の少女が告げた言葉を反芻する。
異界の国。
確かにそう言った。「異界の国レオル」と――彼女は、そう言ったのだ。
「きみは……きみは、異世界の住人だ、って言うのか」
「ええ。私はそこから来て、そしてあなたを連れ帰る」
「それは……どうして」
「あなたの助けが必要だから」
少女は簡潔に答えた。彼女の、澄んだ蒼色の瞳にじっと見つめられると、少し不安になると言うか、落ち着かなかった。心の奥底まで見透かされているような、そんな気分になるのだった。
少女の視線を受け止め続けることに耐え切れず、立ち上がり、忙しなく部屋の中を歩きまわる。異界、だって……? さすがに冗談が過ぎてる、信じられるわけない。……いや、しかし……。
もう一度、これまでのことを思い返してみる。――不可解な夢。それと呼応するかのような、現実の肉体への負荷。少女の出現、そして……彼女が使ってみせた、不思議な技の数々と、金色の「鍵」。どれもこれも、自分の中の常識では説明のつかないことばかりだ。少女が嘘を言っている? でも、どうして? こんな状況で、途方もない嘘をつく理由はなんだ?
しばらく考えてみても、ほかに都合のよい解釈など思い浮かばなかった。
――認めるしかない。
諦めたように目を伏せ、深く息をつく。
もう、おれは知ってしまったのだ。自分の知る「世界」の枠組みから外れた力の存在を。今さら、少女の言葉を、単なるたわごとと片づけてしまうことは、自分にはできない。
「――いいよ。君の話を信じよう。だけど、連れて行くっていうのは、ちょっと待ってくれ」
絶えず湧き上がる、疑念や不信の数々はひとまず振り払い、おれは彼女の言葉を受け入れる。その前提を認めないことには、話が先へ進まない。
「いきなり、助けが必要だとか、その……異世界に連れていくだとか……。おれにも事情がある、ここを離れるわけにいかないんだ。だから……悪いけど一緒には行けない」
おれは置き去りにされた人の気持ちを知ってる。……ばか兄がいなくなって、母さんはどうなった? おれまで「異世界」に消えてしまったら、あの人はどうなる?
「そうでしょうね。だけど、譲れない事情があるのは私も同じなの。どうしても、あなたには来てもらわなくちゃならない」
少女は淡々と話しているが、その言葉には有無を言わせない響きが含まれているようにも思えた。まっすぐな眼差しを、今度はそらさず、正面から受け止める。少女は続けた。
「あなたにとっても悪い話ではないと思う。私の話を聞けば、きっと考えが変わるわ」
「……なら、話を続けてくれ。助けが必要、ってだけじゃ、漠然としすぎてる。具体的に、何に困ってるんだ?」
「祖国が転覆の危機にある」
あっさりと言い切る。少女の声の調子からは、どんな感情も読み取ることができなかった。少女は続けて、色のない声で、言葉を紡いでいく。
「王宮が襲撃に遭った。……たぶん、もう敵の手に落ちていると思う。しかも、内部からも反乱分子が次々と出ていて、私たちの力では、もう止められない。困ってる」
「それは……」
困っている、なんて言い方では絶対に足りない。とんでもない非常事態だ。それくらい、おれにだって分かる。だけど、そんな状況で、おれなんかに何を期待すると言うのだろう?
最初の夢で見た、荒れた建物の様子を思い返す。建物もぼろぼろになっていたが――至る所に転がる死体の山が、嫌でも視界に入ってくる。……あの場所では、少女以外のすべての人間が死に絶えていた。城の外では、兵士たちが激しい戦いを繰り広げているのが、遠巻きに見えていた。
「……それで。おれに、どうしろって言うんだ。まさか戦え、とでも」
「まあ、場合によっては」
「冗談じゃない。無理だ、できるわけないよ」
ばかげてる。普通の喧嘩ならいざしらず……あんな戦いの中に身を投じるなんて、考えただけで怖気が走る。あの場所で、いったいおれに何ができる? 為す術もなく殺されてしまうのに決まっている。
「そういう話なら、悪いが他をあたってくれ。おれには、」
「それはできない。忘れたの? 私は、あなたを探していたの」
少女が言った直後――はっとして顔を上げる。「……っ」――言葉を発する間も惜しみ、全力で身をよじった。
その場に倒れこんで、肩で息をしながら、振り返る。……たった今まで、おれの頭があった辺りに、白く細い腕が突き出されて伸びていた。
「避けるのが得意なのね」
少女が言い、手を引き抜く。――所在なさげに宙に浮かんでいた腕が、少女の動きに合わせて、ゆっくりと暗い孔に消えていく。
「い、いきなり、何のつもりだ!」
「そこまで焦らなくてもいいじゃない、刃物で斬りつけようってわけでもないんだし」
「そういう問題じゃねえよ。予告もなしに、そんな、わけ分かんない術使って攻撃してくるな、って言ってんだ! おれじゃなかったら、」
「そう。あなたじゃなければ、殴られておわりね。だけどあなたは、予告もしていないのに、背後の死角からの攻撃を躱すことができた」
倒れた姿勢のまま、言葉を失う。少女が腰を上げ、おれを見下ろして言った。
「私には、あなたの力が必要なの。その力で、私を助けてほしい」
しばらく言葉が出てこなかった。やがて、脱力感とともに、おかしさがこみ上げてくる。
「ったく、なんなんだよ、もう……」
あくまで少女は真剣なのだろうが……いきなり危害を加えてきたかと思ったら、その直後に「助けてほしい」だなんて。つくづく常識の通じない相手だ。
「色々と知ってるみたいだけどさ。……おれは、たぶん、君が思ってるほど、たいした人間じゃないよ」
「ここに着いてから、調べたの。この場所のことも、あなたのことも。その上で言っているのよ」
「ああ、そう……」
おれは立ち上がり、腰かけなおして話す体制を整える。
「それで。今のところ、おれに得があるようには思えないんだけど」
「それは、これからお話しするわ」
少女は視線をそらし、一言だけ言った。こちらに背を向け、崩れた床のふちまで歩くと、くるりと身をひるがえし、再び向き直る。
「本題に入りましょうか」
声色や挙動、言葉の選択まで、全てがどこか、芝居がかったような調子だった。抑揚というものがほとんどなく、感情を読み取ることはできないのに、それでいて、どこか妖しげな魅力を宿してもいた。見るものを惹きつけずにはおかないような……一連の演出の後、こちらの返事は待たずに少女は続けた。
「あなたが知りたいことの一部を教えるわ。六年前、ここで何が起きていたのかをね」
その言葉に、どきりとする。六年前に起こったことを、お話しする――。
話すと言ったのに、少女は中中切り出さなかった。彼女の次の言葉を、固唾を呑んで待つ……鼓動が高鳴っているのが自分でも分かった。彼女は黙ったまま、首に提げた金色の鎖を手繰り寄せ、真鍮の鍵を掲げた。
「これ」
少女は鍵を、よく見えるよう、視線の高さに持ち上げて揺らした。
「あなたも何度か見たように、この鍵は、離れた場所と場所とを繋ぐ」
「ああ……それは、見た、けど……」
少女の言葉に、戸惑いながらも頷く。
この鍵の力で、おれは絵里さんといたアパートの軒先から、今いる「柵の内側」へと連れてこられたのだ。……原理は理解できなくても、それが実際におれの身に起きたことなんだ、きっと。
だけど、そのことと、六年前の兄たちの話と、いったい何の関係があるっていうんだ? どうして、彼女は今、鍵をかざして見せたんだろう。……話の筋が見えないでいると、少女は抑揚の乏しい、静かな声で続けた。
「じゃあ、これと同じことが、六年前にもこの場所で起きていたとしたら?」
「……は?」
「遠く離れた世界を繋ぐ『渡り』の魔法――それが六年前、この場所で使われた」
「え……ちょっと……なんの、何の話」
「彼らは消えたわけじゃない。魔法の力に導かれて、私たちの世界へと渡ったの」
六年前、兄たちが失踪し、遥姉さんが意識不明に陥った、あの冬の日。
あの日、この場所で「魔法」が使われた。――夢の中で見たように、施錠された扉を開いたり、手を触れることもなく、ろうそくに明かりを灯したり、そういった不思議な現象を起こす技。あるいは、もっと暴力的な……先ほど少女が絵里さんに向けたような、夢の中で赤髪の男がそうしたような、人を傷つけ殺めるための力。
その「魔法」の力で、ここはわずか一夜にして瓦礫の山と化した。そして、その時の「魔法」の残り香は、今でもこの場所に色濃く漂っている……。
「その六年前の残滓が、私をこの場所へと導いた。――その力が、あなたをここまで連れてきたんだよ」
よどみなく話し続けた少女が、ようやく言葉を切る。おれの方では、すぐには言葉を発することができなかった。
「ここまでは大丈夫?」
「……いや。さすがに、すぐには理解できそうもないな」
口もとからは、ただ乾いた笑い声がこぼれるのみだった。
――異世界の次は、魔法か。ふざけてるな。
少女が明かした「真実」の数々に対し、整理するよりも先に、どうしようもなく、苛立ちがこみ上げてくる。次から次へと、突拍子もない話ばかり……じゃあ、なんだ。おれや、絵里さんがやってきたことは、全部無駄だったと言うのか。おれたちが、必死になって掴もうとしていたものは、では何だったのだ?
――周囲の崩れた壁や、その下に覗く焼野を見やる。こんなものを見るために、おれたちはあがいていたのか。厳重な警戒網の内側には、きっと何か、驚くべき真実が隠されているものと、そう思っていた。兄の手がかりに繋がるような、姉さんを目覚めさせるきっかけになるような、そんな「なにか」が――単に、そう信じたかっただけだ。実際には、この場所に残っていたのはただの残骸、なれの果て、過去の惨劇の爪痕だけだった。残り香だなんて、そんなこと、どうだっていい。目に見えるかたちで存在しないのだから。
おれたちが探していたものは、この場所にはなかった。
「ひどい話だな。ばかみたいだ」
長い沈黙の後、ようやく口をついて出たのは、そんな言葉だった。少女と出会った直後、自分の中にあった一種高揚感めいた感情は、とうに失せてしまっていた。――消えた人々が向かった先は、異世界。ともかく、彼らの行方は分かった。けど異世界だ。突然、そんなわけの分からない場所に放り出されて、六年……生きていると思うか? 生きていたとして、見つけ出せるのか?
新たな手掛かりに喜べばいいのか、それとも憤慨するべきなのか……。疲労と感傷がない交ぜになって、今はひどく混乱していた。
「……くそ兄貴め。何やってんだ」
魔法とか、異世界とか。どう考えたって異常だ。そんなものに首を突っこんで……無事に済むわけ、ないだろうが。
「どうすりゃいいんだよ、くそ」
「来て。私と一緒に」
独り言のつもりでこぼした悪態を、少女が拾い上げる。……なるほど、そういうことか。少女の狙いにようやく気がつき、思わず舌打ちする。
「私と一緒に来てほしい。あなたの力が必要なのよ。……力を貸してもらえるのなら、国を取り戻す見返りとして、私もお兄さんを探すのに協力するわ。私の鍵の魔法は、きっとあなたの役に立つでしょう?」
こちらの気を知ってか知らずか、少女は淡々と取引を示した。
「……どうせ、拒否権なんか与えないつもりだろ」
つい先ほど、絵里さんを盾にして、言うことを聞かせようとしたような相手だ。彼女は自分の目的のためなら、ある程度の犠牲は厭わないつもりらしい。
「だけどお断りだ。おれにとっては、お前の事情なんか、どうでもいいからな」
苛立ちに任せて、おれは彼女の提案を一蹴した。強硬手段をとるなら、そうすればいい。ただし覚悟はしろよ。
「……そう。まあ、簡単にいくとは思ってないわ」
「また絵里さんや周りの誰かを傷つけたりしてみろ。絶対に協力してやらないからな」
先回りして釘を刺す。彼女ならやりかねないが、だからといって大人しく従ってなどやるものか。そうなったら、困るのは向こうだ。
おれの反抗的な態度が面白くない、というように、少女の顔が翳りを帯びる。一転して黙りこんだ少女の様子を見て、ざまあみろ、と内心でほくそ笑む。
「そう……そうよね。自分の都合ばかり押しつけて、見返りが少なすぎたわ」
少女は頷きを一つ挟むと、目線を上げて、おれに言った。
「もっと、あなたにとって明確な利得が必要よね。ごめんなさい」
「ああ、その通りだ。そうじゃなけりゃ、」
「あなたのお姉さん、看てあげようか」
予想もしない反撃だった。
害されることばかりを警戒していたおれにとって、彼女の新しい提案はまったくの不意打ちだった。これ以上、絶対につけいる隙を与えるものか――そう思ったのもつかの間、驚くほど簡単に、心を強く揺さぶられる。
思わず言葉に詰まってしまった後で、しまった、と歯噛みする。これじゃ、あなたの攻撃が有効です、と宣言しているようなもんじゃないか。
案の定、少女はここぞとばかりに饒舌に語り始めた。
「あの女性は、かなり深く傷ついてる。よほど無理に魔法を使ったのね。あなたたちのやり方では、残念だけど、もとには戻せないと思う」
「……自分にならできる、って言ってるみたいに聞こえるぜ」
「そう言ったのよ」
自信に満ちた声で少女が言い、おれは舌打ちする。たった一言で、また主導権を奪い返されてしまった。しかも……この提案は、おれの心を誘惑するのに、かなり有効だ。
見返りの提案、なんて言っちゃいるが……要するに、よりたちの悪い脅迫なのだ。「自分になら治せる」ではなく、「自分にしか治せない」が正しい。
――協力してくれないのなら、お姉さんのことは諦めてね。
そう言外に告げている。
ああ、くそ。頭に手をあてがい、盛大なため息。……一度揺らいでしまうと、もうだめだった。
――姉さんの快復は絶望的だ。
運びこまれた当初はもちろん重体だったが、生命自体が危ぶまれたのは、そこからせいぜい半年くらいまでの話だった。もう何年も前に体の傷は癒えている。ただ目覚めないだけだ。だからこそ状況は悪い。
どこにも異常がないはずなのに、意識だけが戻らない。
脳に何らかの損傷を受けたことが原因かもしれない、と医者は言う。それ以外に思いつかないからだ。あるいは本人の意思の問題か。――突然目の前に顕れたこの少女は、そのどちらでもなく「魔法」のせいだと言った。
「魔法で傷ついた心は、魔法によってしか治せない。今のまま治療を続けても、快復は見こめないと思う」
「魔法……」
その言葉はまだ耳慣れない。全部、でたらめだと言って否定してしまえたら、どんなにか楽だったろう。けれど目の前にいる彼女の存在がそれを許さなかった。これまでに、もう何度も、常識を越えた力を散々見せつけられた。自分の知る、あらゆる法則から逸脱した、説明のしようもない現象。この世のものならざる「魔」の法則――あれこそは、まさしく「魔法」と呼ぶに足る業だった。
「魔法と言っても万能じゃない。死んだ人間を生き返らせたりはできないし。だけど、深い眠りについた心を目覚めさせることは、可能だよ」
たぶん細かいことは理解できていないと思う。ただ一つ、その「魔法」の力なら、姉さんの心を取り戻すことができると言う。――もちろん、少女の話をすべて信じれば、という仮定の上でだが。
「心は決まった?」
少女に問われても、まだすぐには答えられなかった。彼女は続ける。
「悪いけど、あまり時間がないの。……私なら、あの女性を助けてあげられる。そうしたら、今度は、あなたが私のことを助けてくれる?」
「おれは……」
おれは、どうすればいい? この子と行くのか、だけど……。
――兄が、生きているかもしれない。
今までそう信じ、あるいは信じようとしてきたが、心のどこかでは諦めてもいた。失踪の直後、大規模な捜索活動が行われたにもかかわらず、何の手掛かりも得られなかった時点で、兄は永久に失われて二度と戻らないのだと、そんな諦観を抱いてしまっていた。それが、六年越しの今になって、新しい可能性が浮上してきた……。
――姉さんを助けられるかもしれない。
今まで、何をやってもだめで、希望を抱き続けることさえ諦めてしまいそうになるほど、それほどに六年の月日は長かった。そんなにも長い間止まったままの姉さんの時間を、この少女ならもう一度動かせるかもしれないと言う。
少女の「鍵」の魔法があれば、兄の消息を辿ることができる。
彼女の力を借りれば、姉さんのことを救える。
ただし……その代償は大きい。おれは「異世界」とやらに消えて、帰ってこられる保証はない。兄は帰ってこなかった。兄に続いて、おれまで何も言わずに行方を眩ませたら……遺していく人たちのことを思うと、心が重くなる。
それでも、心は激しく揺らいでいた。抑えよう、留まるべきだ――そう思うほどに、希望の糸にしがみつきたいという思いが強くなっていく。
少女の思惑に乗せられることには、少なからぬ不満がある。けれどそれは、湧き上がる衝動を押さえつけるのには不十分だった。少女の言葉を全部突っぱねて、そのあと、おれはどうするんだ? これまでと同じように、資料の山に埋もれながら、あるかも分からない手がかりを求めて、過去の新聞記事やらを漁り続けるのか? ……どうせ、そんなやり方では、何も解き明かすことなどできないのだろう。過ぎ去った六年間を思い返してみろ。
知らず俯いていた顔を上げる。――この少女のいう「異世界」でなら、何か、変わるだろうか。前に進めるのだろうか。
あとは、目の前の人物が、本当に信用に足る人物なのかどうか。
「……君が、姉さんを治せるという確証がない。協力するなら、まずは治療が先だ。信じるかどうかはそれから決める」
「あなたが約束を破らないという確証がないわ」
小手先の駆け引きはにべもなく切り捨てられた。くそ。心の裡で毒づく。おれなんかより、この子は慣れてる。
少女は首を横に振って、言った。
「そういうやり取りは時間の無駄だよ。私たちはまだ出会って間もないし、お互いのことをちゃんと知らない。信頼なんて皆無でしょ」
彼女ははっきりと言い切った。確かにその通りだ。その通りだが、それならどうするつもりなんだろう?
「……じゃ、こんな時はどうするんだ? 信頼関係がなくて、互いに思惑があるときは?」
抱いた疑問を素直にぶつける。彼女の返答はとても簡潔だった。
「契約を交わす」
「契約を、交わす?」
その言葉の意味が分からず、おれはオウム返しにそのまま繰り返した。
「そう、魔法による契約。お互いの条件を、魔法で縛るの。約束を違えないように」
「もしも破ったら?」
「その仮定がまず成立しない。誓いを立ててしまったら、それから逃げるということはできなくなるんだよ」
「ええと……ごめん。もう少し、かみ砕いて説明してくれ」
「例えば、この場で二人が誓うとするでしょう。私はお姉さんの意識を戻して、あなたは見返りに私への協力を約束する。その後で、あなたが逃げ出したとする。だけど、結局、あなたは私たちの世界へと渡ることになる」
そういう約束をしたからね。
少女はそう言った。これだけ言えば伝わるだろう、とでも言いたげな表情だった。おれがまだぽかんとしているのを見て、ようやく少女は補足した。
「目の前のできごとからうまく逃げられても、必ず、運命はあなたの背中を捕まえて、別の場面であなたに選択を迫るわ。約束の不履行は許されない」
彼女の言葉に、固唾を呑む。つまり、ここで頷いたら、もう後戻りはできないということだ。姉さんの快復の結果を見てから、改めて結論を出す――そんな甘えた考えではだめなのだ。
そんな厄介な決まりごとなど、律儀に説明せず、おれに誓わせることだってできたはずだ。でもこの子はそうしなかった。先に行動に伴う代償を示した上で、それでも覚悟を持って臨めるのかと、おれに心の有りようを問うている。
その問いに、おれは答えられない。
つい先ほど、母の笑顔を見たばかりだ。かろうじて保たれた、不安定な均衡をまた崩していいのか。雅人のことを心から消し去ってまで、ようやく手に入れたあの笑顔すら母から奪うのか。……だけど、うまくいけば、兄を連れ帰れるかもしれない。……皮算用だ。「そうなればいい」という、ただの希望的観測だ。冒す危険には到底見合わない。
「覚悟ができたなら、私の手をとって」
「……なんなんだ。時間がないって言ってたわりに、随分待ってくれるんだな」
「半端な覚悟じゃどうにもならない現実がある。それだけだよ」
いきなり現れて巻きこんでおいて、とても偉そうだ。思わず乾いた笑いがこぼれる。けれど、この少女の言うことは事実なのだと思う。
国を取り戻す。
ことが大きすぎて、かかる労力や越えなければならない障害は想像もつかない。大変だ、というのは間違いないが、どれだけの困難が待ち受けているか。それは兄の捜索についても同じだ。
姉さんのことや両親のことに悩み、置いてきたものに心を砕きながら、解決できるような問題ではないのだろう。
だから、それらの迷いを自力で振り切って、おれ自身の意志で選ぶことを、少女は望んでいる。……どうやらそういうわけらしい。
そう思えば、これまでの行動にも納得がいく気がする。この子は、あんな「魔法」なんていう力を持っていて、その力で、おれを強引に絵里さんから引き離した。そうまでして、彼女は話し合いの場を整えただけだ。その気になれば、そのまま異世界に連れて行くことだって可能だろうに、そうしなかった。
おれが、自分で選ぶ。
それを待っているのは、信頼や期待? 「絶対に説得する」という自信か? それとも、単に高を括っているだけ?
はあ。ため息をつく。彼女のように、心が読めるわけでもないし、どういうつもりか、なんて分からない。
「おれは……」
おれはどうするべきか。
だけど、それをしっかりと悩み、結論づけるだけの時間は、与えられなかった。
まったく不意のことだった。
悠長に悩んでいる、そのさなか――突然、全身を舌なめずりされているかのような、激しい不快感に襲われる。
なんだろう……嫌な予感がする。
寒気と気持ち悪さに鳥肌が立つ。体を震わせながら、落ち着かなくて、周囲をきょろきょろと見回す。
「なに、どうしたの?」
おれの不審な様子に気づいて、少女が首をかしげる。
「いや、その……」
うまく説明できず、言い淀む。……少女が怪訝な表情を浮かべ続けるので、率直に告げる。
「……すごく、嫌な予感がするんだ」
他人に説明できる類いのものではない。だけど、こういう時のおれの「予感」は、大抵の場合的中する。普通の人よりも、危険なものごとに対する感度が著しく高いのだ。
こういうときは、何か起こる。
おれの言葉を受けて、少女もまた、深刻な表情に変わる。――つまるところ、彼女がおれに求めている「力」というのは、この危機察知能力のことなのだろう。どういうわけか、この子はおれの秘密を知っている。だから、今が差し迫った状況であることを即座に理解して、だから余裕のない顔色になったのだ、きっと。
危険が迫っているかもしれない。
そんなことを考えながら、辺りを警戒する。……それを見つけたのは、ほとんど二人同時だった。
僅かに早く、一点に釘付けになったおれの視線を辿って、少女が振り返り、同じように凍りつく。
「うそ……なんで、」
少女の声は震えていた。言葉にならないうめき声をあげて、よろよろと後ずさる。その背がおれの体に当たると、少女はおびえて、びくりと小さく飛び跳ねた。
先ほどまでの毅然とした態度が嘘のようだった。……無理もない。
――何もない空中に、ぽっかりと、暗い孔が開いていたのだから。
少女が開いたのではない。彼女はずっとおれの目の前にいたし、先ほどおれの前にかざして見せたあと、あの鍵は懐に仕舞いこまれたままだった。だから彼女ではなく、これは、別の誰かの仕業なのだ。
少女とは別の誰かがそれを開いた。じゃあ、それは誰? ――思う間にも、孔は広がっていき、ついには人の背丈ほどにもなった。暗闇の向こうに、ちらちらと、何か、明滅するものが見える。
「――伏せてっ!」
突然、鋭い声がしたかと思うと、腹部に重い衝撃が走る。少女が強く押したのだ。目の前の「孔」に気を取られていたおれは、バランスを崩し、よろけて後ろに倒れこんでしまう。
「よう、随分楽しそうじゃねえか。おれも一つ、混ぜてくれよ」
愚かだった。
おれたちには、迷っている時間などなかったのに。
少女は、追われているのだ。彼女はすぐにでもおれを連れ去るべきだった。おれの決心を待ってなんかいないで、強引にことをなすべきだった。――そんな思考が、今さらのように頭の中を流れていく。
数秒前まで、おれたちが立っていたその場所に、今はごうごうと燃え上がる炎が渦を巻いていた。炎はまるで、生き物のように、とぐろを巻いて宙に留まっていた。揺らめく炎を透かして、その奥――ちょうど、少女が腰かけていたあたりに、悪意の塊みたいにいやらしい表情をした男が立っていた。
会ったことはない。けど、おれはこの男を知っている。姿を知ってはいるが、男の名前さえ、知らない。
あちこち擦り切れたズボンに、袖の無くなった襤褸をまとい――赤い髪の向こうから、紅に染まった瞳をぎらつかせて。手に鉄の槍と、傍らに炎を携えた男は、口もとを大きく歪ませて、
「会いたかったぜえ。クレアアア」
嗤った。