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鱗の騎士  作者: 市田智樹
揺らぐ境界
7/13

フー・アー・ユー?

「それじゃ、気をつけるんだよ」

「うん。……二日間、ほんとにお世話になりました。ありがとう」


 アパートの前で車を降りて、送ってもらった絵里さんに改めて感謝を述べる。「もう、ほんとに。大変だったんだからね」絵里さんは苦笑交じりに言うと、窓から手を伸ばしておれの肩を小突いた。


「大変だろうけどさ、うまくやんな。無理はするんじゃないよ」

「分かった。ありがと」


 窓から出した右手をひらひらと振って、絵里さんが走り去る。その車の背が、細い路地から見えなくなるまで見送ってから、おれもようやく踵を返して部屋に戻ろうとする。

 雨が上がった後の夜は冷えていた。


 大事なのは、今。


 絵里さんの言った言葉が強く頭にこびりついていた。大切なのは、過去それ自体ではなくて、その先の今をどうやって生きるのか。……兄の失踪という過去、いっこうに目覚めない遥姉さんの現状を受け入れられずに、六年も前の「真相」にしがみついている。それに縋ることで自分を保っているおれは、果たして、芦原さんや母と何か違うだろうか。

 その思いは簡単には飲み下せなかった。棘のように、内側に引っかかって、ちくちくと刺しては平静を乱すのだ。


 兄のことから逃げ出して、母のことからも目を背けて。おれは……。


「見つけた」




――物思いにふけっていたせいだろうか。それとも、彼女があまりに自然だったからなのかもしれない。ともかく、彼女に話しかけられるまで、おれは相手の存在に気づいてもいなかった。

 その言葉が、自分に向かって投げられたものだと気がつくのに、少しかかった。それの指す意味がどういうものかもまだ判然としないまま、声のした方向を振り向く。声は突然背後から聞こえてきた。さっき、絵里さんを見送ったときには路地に人影はなかったはずだ。誰かの近づいてくる足音もしなかった……そんなことを考えながら、おれは振り返った。

 そこで、目の前の彼女にようやく気がついて、しばらく言葉を失った。


「やっと、見つけた」


 とても透き通った声だった。彼女は噛みしめるように繰り返した。

 夢の中の少女が、目の前に立っていた。




「くれあ……」


 衝撃のただ中で、おれは彼女の名前を呼んだ。赤髪の男が最後に叫んだ名前を。目の前の少女は名を呼ばれて、意外そうに、そして少し訝しげに眉を動かした。その反応を見て取り、おれは確信する。たしかに、あの少女だ……あの子は、やっぱり実在したんだ。夢の中の、空想の存在ではなかった!

 顕れた少女を、まじまじと見つめる。――少女は夢で見たままの姿をしていた。呼吸はすでに整い、全身の出血も治まっていたが、痛々しい傷跡はそのままだ。ぼろぼろになった衣服の下にそれらの傷が覗いている。

 少女の肌は白く、瞳は澄んだ蒼色だった。背も思ったよりも高い。年は十五、六といったところだろうか。顔つきにはまだ少し幼さが残っている。一方で、まとう雰囲気は大人びていて、近寄りがたい空気を放っている。


 美しい少女だった。


 夢の中では、正面からはっきりと顔を見ることはなかった。こうして対峙してみると、とても整った顔立ちをしている。すらりと伸びた鼻梁。澄んだ蒼い瞳と、その上で美しく弧を描く眉。艶やかな銀色の髪。精巧に造りこまれた人形のような、完成された美しさだ。

 可憐という印象を抱かないのは、きっと、そこに表情がないからだ。彼女は、何を考えているのか読み取れない眼差しで、おれのことをまっすぐに見つめている。

――どこか人ごとのように、そんなことをぼんやりと考えながら、おれはただ呆然とその場に立ち尽くしていた。


 本当に、夢ではなかった。


 実際に目にするまでは信じられなかった。いや、今でも確信しかねている。しかし……彼女は現に、こうして目の前に立っている。ほんの数歩の距離、手を伸ばせば触れられるほど近くに。

 それとも、おれはまだ、夢を見ているのだろうか? 昨日から色々なことが起きたので、疲れ果てて倒れ、夢の続きを見ているのかも……。


「私の名前を知っているのね。どうして?」


 この期に及んで現実逃避しようとするおれの思考を、少女の言葉が遮る。彼女は見定めるように、蒼い眼を鋭く細めている。

 名を呼んでしまったことを後悔するが、遅かった。咄嗟にうまい言いわけなど思いつかない。それに、彼女の視線に晒されていると、ありのままに真実を話さなければいけない、という気分になった。この少女の前では、嘘を吐いてやり過ごすことはできない――そんな風に思わせる()()が彼女にはあった。


「夢で、君を見たんだ。……それと、君を追っていた男のことも」


 結局、おれは正直に打ち明けることを決めた。おれの言葉を受けて、少女の顔がわずかに翳る。視線を外し、つかの間、目を伏せて思案を始める――。


「――その子から、離れなさいっ!」


 その時だった。鋭い声が飛んできたと思うと、ものすごい力で腕を掴まれ、後ろに引っ張られる。「うわ……っ」情けない声を上げて尻餅をつくおれの前に、絵里さんが立ちはだかった。おれと、少女との間に割って入ったのだ。肩で息をしながら、少女をものすごい形相で睨みつけている。


「え、絵里さん? どうして……」

「角を曲がる直前に、お前と、その子が見えたんだ。……血まみれの女が、大事な子の真後ろにいるのを見かけたら、そりゃあぎょっとするでしょ」


 一目で異常を察知して、大急ぎで車を回して戻ってきてくれたらしい。その判断力には素直に感服する。頼りにもなる、けれど……そのおかげで、今の状況はどう転ぶか分からない危うさを孕んでいる。絵里さんと、顕れた少女とは、交わる視線だけで分かるくらい、とても険悪な雰囲気だ。


「……あなた、何なの。うちの圭祐と、どういう関係?」


 絵里さんが少女に問いかける。……その答えはおれも気になっている。彼女がいったい、何者なのか。どうしておれは彼女を夢に見たのか……おれは絵里さんの体越しに少女の様子を伺ってみたが、質問に応じる様子はなさそうだった。


「……あなたは、誰? 私が用があるのは、あなたじゃなくて、後ろの彼なんだけど」


 代わりに、同じような問いを返す。後は互いに睨みあったまま、場に険悪な雰囲気が漂う。絵里さんが苦々しい表情で舌打ちをして、振り向かずにおれに声をかける。


「圭祐、お前、何か知っているの? 私、もう何がなんだか……。この子は誰? いったい……いったい、何を話してるの」


 表情は険しかったが、絵里さんの声は困惑に揺れていた。だけど答えようにも、おれだって、まだ混乱している。

 絵里さんはおれに一瞥をくれたが、何も答えられないでいるのを見ると、また少女の方に目を向けた。きっと睨みつけ、また厳しい口調で問い詰める。


「あんた、何者なの。いきなり現れて……この子に何の用、圭祐をどうするつもり?」


 やはり答えない。冷ややかな眼差しで絵里さんをちらりと見つめ、ついで背後のおれに視線を向ける。刺すようなその視線と正面からぶつかって、思わずどきりとする。

 どういうわけか、この少女の意識は絶えずおれに注がれていて、絵里さんのことは眼中にないようだった。視線をそらすこともできず――へたりこんだ体勢のまま、固唾を呑んで待つ。

 しばらく誰も言葉を発さなかった。あたりの緊張感が刻々と高まっていくのを感じる。相変わらず、少女は何を考えているのか分からないし……。


「圭祐。お前、何か隠してるでしょう」


 唐突に、絵里さんがおれに厳しい口調で言う。


「昨日から、様子がおかしいとは思っていたけど……答えなさい。お前、何を知ってる?」


 こちらを振り返らず、少女のことを睨みつけたまま。絵里さんは畳みかけた。


「あっちは、どうやら聞いても教えてくれないみたいだから、お前に聞くわ。あの子は誰。お前とあの子は、どういう関係なの?」

「……どういう関係も何も。おれだって、初対面だよ」

「へえ、そう。それで、お前はどうしてあの子のことを知ってる?」

「それは、その……」


 先ほど、会話していたのを聞かれていたらしい。絵里さんはおれの言葉をぴしゃりと遮った。

 言い訳やごまかしの利くような空気ではなかった。かといって……今、この場であの荒唐無稽な夢の話をするのか? ちょうど今、夢に出てきた女の子が、目の前に顕れたところなんです――逆の立場なら、そんな話を信じられるか?

 どう説明したものか、おれが言葉に詰まっていると……今度は少女の側から動きがあった。


「面倒だね。場所、変えようか」


 あくまでおれに語りかける。絵里さんのことはフル無視。さすがに、絵里さんもカチンときた様子で、一層空気が緊張の度合いを増す。

 気にするそぶりも見せず、こちらに歩み寄ろうとする少女に絵里さんが待ったをかけた。


「小娘が、いい度胸してんじゃないの。あんまり大人を舐めるんじゃ、」

「退いて」


 少女が短く言った、その直後だった。――絵里さんの体が、突然、何かもの凄い力で殴りつけられたかのように、横に吹き飛んだ。


「……っ、は……っ」


 大きく投げ出され、固いコンクリートの地面に叩きつけられて、絵里さんが息を詰まらせる。


「え、絵里さんっ! 大丈夫⁉」


 うずくまって、苦しそうにもがく絵里さんに駆け寄ろうと、慌てて立ち上がる。少女はそれを許さなかった。


「待って」


 その一言で十分だった。一言で、おれの足はぴくりとも動かなくなってしまった。駆け出そうとした勢いだけが先走って、バランスを崩し、また倒れてしまう。


 なんだ、これ。


 こいつは何をしたんだ? 何かされたのは間違いない、けど……声をかけられただけで、こんな、魔法みたいな。


「みたい、じゃなくて、そのものだよ」


 這いつくばるおれを見下ろしながら、少女はこちらに歩み寄ってくる。……声に出したつもりはない。心を読んだのか? そんなことが……。


「別に、あなたを殺したり、傷つけたりしたいわけじゃない。そんなに警戒しなくてもいいよ」

「……じゃあ、何が目的なんだ」

「あなたの力を貸してほしいの。あなたが必要よ、一緒に来て」

「ふざけんな。おれは傷つけなくても、絵里さんは傷つけるんだろ。そんなやつに、だれが協力するか」

「そ。じゃあ……人質作戦っていうのはどう?」


 そう言って、少女は、絵里さんに向けて手をかざす。……知らない言葉で、少女が何ごとか呟いている。見る間に、彼女の指の先で、風が渦巻いて、うねりをあげ始めた。


「本当は、こんな手荒な真似はしたくなかったけど。あなたが言うことを聞いてくれないなら、仕方ないよ。ね?」

「っ、お前、いいかげんに――」

「舐めんなって、言ってんだろ!」


 激昂しかけた時、鋭い声が上がった。同時に、一発の銃声が響く。――絵里さんが撃ったのだ。


「絵里さん⁉」


 あまりに想定外の事態に目を剥く。……撃たれた少女も、撃った絵里さんも、それぞれ別の理由で驚きに目を見開いていた。

 絵里さんが少女を目掛けて放った弾丸は、直撃する寸前、何かに阻まれたように不自然な軌道を描いて逸れ、近くの地面を抉った。立て続いた怪奇現象に絵里さんは戸惑い、少女もまた、思わぬ反撃に面食らった様子だった。


「え、絵里さん? なんで、そんなもの……っていうか、どうやって手に入れ……」

「今はどうでもいいでしょ、そんなこと。ただの護身用よ」

「護身用って……」

「お前ね。遥や雅人君たちが危険なことに巻きこまれたかもしれなくて、私らはそれを嗅ぎ回ってるんだよ? 身を守る術の一つくらい、必要でしょ」

「……それにしたって、拳銃はやりすぎだ」

「効かなかったけどね」


 絵里さんは舌打ちをして、苦い表情を浮かべる。


「そんな……むしろ、効いてたらどうするつもりだったの? 人殺しになるところだったんだぞ」

「心配しなくても、そのつもりで撃ったんだ」


 とりつく島もない。絵里さんの、迷いのない口調を前に、おれはそれ以上何も言えなくなってしまった。

 それから、絵里さんは再び銃口を少女へと向けた。慌てて少女の方を見ると、こちらも動揺から立ち直ったらしく、険しい表情を浮かべて腕を構えている。――まさに一触即発といった雰囲気だ。


「……関係ないんだから、邪魔しないでほしいな」

「圭祐、お前は下がってなさい。何を言われたか知らないけど、こんな危ないやつに手なんか貸すんじゃないよ」


 絵里さんはそう言ったが、素直に任せるわけにはいかない。――少女の周りの空気が渦巻く。攻撃の気配を感じて、おれは慌てて声を張り上げた。


「待って……頼む、待ってくれ! 絵里さんも! ……クレア、おれに話があるんだろ。少し、話し合おう。な?」


 足を固定されて這いつくばったまま、必死に呼びかける。少女はしばらくの間、絵里さんと睨み合いを続けていたが、やがて、おれにちらと視線を向けると、ぴりぴりと全身の毛を逆立てたような臨戦態勢を解いた。


「……ありがとう。それで、君はいったい、」


 ともかくも修羅場を回避できたことに、胸をなで下ろす。ようやく、少しだが歩み寄ることができた。いつの間にか足の自由も戻っている。

 立ち上がり、声をかけたところで――彼女は急におれの手を取り、そのまま引き寄せると、自身も一歩踏みこむ。自然、抱き合うような体勢になった。


「え、ちょ……」


 予期せぬ行動に色々な意味で動揺してしまう。視界の端で、絵里さんもまた息を呑むのが分かった。肌の温もりを感じ、にわかに耳のあたりが熱くなるのを感じたが、それどころではない。少女の行動はそれで終わりではなかったからだ。

 気づけば、彼女はその手に金色の鍵を握っていた。もう片方の手は、おれの腕を掴んだまま、少女は鍵の手をおれの背後にまわし、さらにもう一歩、力強く踏みこむ。

 前後に揺さぶられて、おれは踏ん張ることもできず、後方へとよろめく。


 これは、まずい。


 夢の中の記憶が立ち現れてくる。「あのとき」の鍵だ――。


「圭祐……っ!」


 悪い予感は的中した。絵里さんが鋭く叫ぶ声を聞き、その直後、不思議な浮遊感とともに視界が暗転する。抵抗する間もなく、おれは闇の中へと引きずりこまれた。



 ドサリ。背中に衝撃が走る。自身と少女、二人分の重みを抱えて、おれは固い地面に投げ出された。


「っ、くそ……」


 息を詰まらせ、目を瞬かせる。少女はすでに起き上がり、洗練された動作で服の汚れを払っていた。


 くそ。やられた……っ!


 悔しさに表情が歪む。自分の迂闊さに腹が立った。どうして、簡単に気を許したりしたんだ!


「いつまでそうしているつもり?」

「……今すぐ、さっきの場所まで戻せ」

「それは無理。話し合いをするんでしょう? それには、さっきの人は余計だわ」

「お前にとってどうかは知らないけどな。絵里さんだって無関係じゃない、話をするなら同席するべきだ」

「あのねえ」


 反駁すると、少女はうんざりした様子でため息を吐き、いきなりおれの胸倉を掴んだ。


「勘違いしないで。()()()()()、あなたたちの事情はどうでもいいことなの。あなたと、私が、話をするのに、彼女は無関係でしょ」


 鼻と鼻がくっつくくらいの至近距離で――どきどきするような心持ちではなかったし、少女の表情もそんな甘美なものではなかった。刺すような視線と、低い声。おれは口にしかかった抗議の言葉を、黙って呑みこむしかなかった。


 途方もなく長い数秒の後、少女は黙って手を放した。


「着いてきて」


 そう言って身を翻すと、少女はすたすたと歩いて行ってしまった。


「あ、おい……!」


 振り返りもせず、彼女は先へと進んでいく。おれの呼びかけなど、まるで聞く耳を持たない。立ち尽くしたまま、その行く先を目で追う。

 今いるのは、森の中の空き地のようだった。密生した木々に取り囲まれた中に、この場所だけが、草もなく、ぽっかりとひらけている。前方には、半ば崩れかかった廃墟があり、少女はそちらへと向かっていた。


 ここは。この場所は。


 考えようとしたところで――またも、暗転。少女の足下に無様にも倒れこむ。


「面倒だから、次からは自分で歩いてね」


 冷ややかな眼差しでおれのことを見下ろしながら言う。悪態を吐きたい気持ちを、ぐっと堪えて深呼吸。落ち着け、落ち着け……。感情的になってもいいことがない。


「ここは……何なんだ。いったい、どこに連れてきたんだ?」

「あの柵の内側。あなたは、ここを探していたんでしょ?」


 戸惑うおれに少女が告げた。しかし、その言葉で、おれはさらに動揺してしまう。


「柵の……ここは、私有地の中、なのか?」


 おれや絵里さんは、六年間も、柵を越えられずにもどかしい思いをしたのに。この少女の手にかかった途端、こんなにも容易く辿り着いてしまった。……ようやく道が拓けたという喜びよりも、悔しさや、やるせなさの方が強かった。

 状況も状況だし、とてもじゃないが素直に喜ぶような気分にはなれない。


 目の前の廃墟は壁の大部分が崩落しており、それらの残骸が周辺に散乱していた。残った部分も焼け焦げたように黒ずんでいて、ひどい荒れ果てようだった。

 つい数時間前に、芦原さんから聞いた「消えた城の怪談」を思い出す。……ここが、あの私有地の中だというなら、きっとこの廃墟が「城」で間違いない。兄たちは、この場所で何か厄介ごとに関わっていて……この騒動にも巻きこまれたのかもしれない。

 けれど、なぜ少女はおれを連れてここに? おれがこの場所のことを探っていると、知っていた? それを知って、彼女もおれを探していたのか……?


「なあ、君は……何か知っているのか?」

「随分と曖昧な質問ね。何か、というのは、六年前の失踪事件のこと? それとも、あなたの体のこと?」


 要するに、どちらも知っているということだ。いよいよもって分からない。おれが黙っていると、今度は少女から口を開いた。


「私のことが怖い?」

「……そうだな。けど、それ以上に、聞きたいことが山ほどある」

「私もよ」


 そうする間にも、少女は迷いのない歩調で、迷路のような、暗い廃墟の中を進んでいった。やむなく後を追って、ところどころ崩れかかった階段を上り、やがて屋根のない最上階に躍り出る。壁さえもほとんど崩れて、この場所からは周囲の様子がよく見渡せた。

 内部を練り歩いた感じから察するに、もとはかなり立派な建物だったのだろう。しかし、ここまで崩壊してしまっていては見る影もない。

 しげしげと辺りを眺める。「私有地」に立ち入るのは、これがはじめて。その、はずなのだが……どことなく、見覚えがあるような気がする。

 既視感を抱くのはなぜだろう。少し考えて、はっと思い当たる。昨日の昼に見た、二度目の夢だ。

 あのとき、少女が眠っていた屋根のない部屋は、ここだったんだ――。


「さあ。まずは、あなたの話を聞かせて」


 そう言って、少女はようやくおれに向き直ると、瓦礫の一つに腰を下ろす。少女はおれにもそうするよう促した。


「おれの話、って……」


 岩の表面を慎重に確かめる。長い時間をかけ、雨風に削られたためか、思ったより表面はなめらかで、座り心地も悪くない。「君は……何者なんだ。何の目的で、こんなことをする」改めて、深く腰かけ直して、おれは少女に問いを投げかける。


「あなたは私を知っているのだと思っていたけど」

「知らないよ。君の正体も、目的だって」

「でも名前は知っていた。そうでしょう?」


 少女はまた、あの不思議な眼差しで、おれのことをしかと見据えていた。……知りたいことや聞きたいことは山ほどある。しかし、先におれの知っていることをすべて話さない限り、少女もそれらを教えるつもりはないらしい。


「あなたは夢と言ったよね。そのことについて、詳しく教えてくれるかしら」

「……分かったよ。とは言っても、たいした話じゃないんだけど」


 観念して口を割る。

 夢の登場人物は少女と赤髪の男の二人だけで、その動向を本人に伝え聞かせるというのも、考えてみればおかしな話のように思えたが――ともかく、内容はまだしっかりと覚えていたから、思い出すのは容易だった。当人である少女は、特に質問などで話の腰を折ることはしなかったが、とにかく細部まで聞きたがった。


「ふうん……なるほど、ね」


 聞き終えて、少女はぽつりと呟いた。片方の手を顎にあてがい、目を伏せてしばらく思考を巡らせる。


「今まで……こんな風に、夢で誰かのことを見たことはなかったのよね?」


 やがて彼女は訊ねた。おれは頷く。


「ああ。こんなこと、はじめてだ。……付け加えるなら、異常な疲れもはじめてだ」


 今だって体の調子は良くない。昨夜は少女の夢こそ見なかったが、「また見るのではないか」という考えが頭から離れなくて、結局よく眠れなかった。おまけに、先ほど激しく嘔吐したばかりだし、体はぼろぼろだ。


「そう……何の因果かしらね」


 少女の言葉の意味は分からなかった。何か、彼女なりに納得のいく結論は出せたらしいが、それ以上は語らなかった。それよりも、続く彼女の言葉の方におれは気をとられてしまった。


「とにかく、話してくれてありがとう。じゃあ次は私の番ね」


 少女から切り出したのは意外だった。てっきり、話し合いに応じる気などまるきりないのだと思っていたからだ。けれど、彼女は先ほどまでと同じように、おれの言葉に耳を傾けている。「聞きたいことがあるんでしょ。質問をどうぞ」促されるまま、おれは疑問を口にした。


「あ、ああ。……君はさっき、見つけた、って言ったよな。どうしておれを探してたんだ?」


 少女の目的が分からない。


 おれの力が必要だ、と彼女は言った。けれど具体的なことは聞いていない。この少女が、おれの何を必要としているのか。おれに何を求めている? おれは、何に巻きこまれようっていうんだ?

 昨日、はじめて少女のことを夢に見てからというもの――嫌な考えが浮かんでくるたびに、「所詮ただの夢にすぎない」と自分に言い聞かせてきた。だけど彼女は実在した。それだけでなく、彼女は、六年前の失踪のことや、おれがそれを嗅ぎ回っていることまで知っている様子だし……。


 ただの偶然だろうか。

 もしかしたら、少女と、六年前の事件とは、何か関係があるのではないのか。


 そんな疑念が、先ほどから次々と浮かんできて止まらなかった。


 彼女は何者なのだろう。髪は銀色だし、肌の色、目の色、身体的な特徴のどれをとっても……いや、それはたいした問題じゃない。問題なのは、先ほど、身をもって体験したあの不可思議な現象だ。まさに「瞬間移動」――この子は、過去を知るこの少女は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 話を聞いて、疑問を解消したい気持ちと、今すぐ逃げ出して、今後一切関わらない方がいいのではないかという警戒心とで、心がせめぎ合っていた。


 今、目の前にいる彼女はおとなしく座っていて、危害を加えようという様子はない。とはいえ、彼女が絵里さんに対して行った仕打ちは忘れていないし……あんな、妙な力を持つ相手だ。簡単に心を許してはいけないことは、さっき、身をもって知らされたばかりだ。


 そうした、おれの心の揺らぎが落ち着くのを待っていたかのように。


 私の番、と言いながら、少女は黙っておれを見つめていた。また、あの見定めるような視線。

……もう、これだけ色々なことが起こってるんだ。今さら、何を言われたところで、取り乱すものか。おれは覚悟を決めた。少女は言った。


「私はクレア。異界の国レオルより、父、第四十七代国王アレウスの命で参りました。古の予言に従い――あなたを、お連れ致します」



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