ヤーニング ー ②
沈黙を破ったのは、メールの着信音だった。差出人は、母。
――もうすぐ着きます。会えるのを楽しみにしています。
「……噂をすれば、だ。もう着きそうだって」
「予定よりちょっと早いな。……じゃあ、気を取り直して、行きますか」
ガバッと体を起こすと、絵里さんは瞬く間に座席を元に戻して、服のしわを伸ばした。目にもいつも通りの鋭い光が宿っている。それと比べて切り替えの遅いおれは、動き出した車に揺さぶられながら、ゆっくりとシートベルトを締める。
「はあ」
「何よ。そんなに気が重いの?」
「何度もそう言ってるだろ」
「両親と一緒にご飯食べるってだけでしょ、何をそんなに緊張することがあんのよ」
「わっかんないかなあ。三人だけの空間って、そりゃもう息が詰まるんだよ。ゼッタイ気を抜けないし」
「反抗期真っ盛りの子どもかよ。かわいいなあもう」
「からかわないでください、こちとら大まじめなんだから」
「まあ、三人だけなのが嫌すぎて私を巻きこむくらいには必死なんだろうね」
「う……」
おれが返しの言葉に詰まると、絵里さんはにやりと笑いながら煙草に口をつけた。
「……その煙草の火で、あの辺り全部燃やしたらさあ。どっかに入り口とか見つからないかな」
「あっはは、相変わらずむちゃくちゃ言う。とんでもない騒ぎになるね」
「それで、なんだこの場所は、って再注目されて、世間が事件のことを思い出せばいいんだ。そうしたら、もう一回ちゃんと捜索ができる」
「へえ、いい案だね。試しにやってみようか」
「責任は吸い殻を捨てた人が持ってね」
「あら優しい。罪を被ってくれるわけ」
「って、実行犯おれかよ」
「言い出しっぺの法則って知ってる?」
言葉を交わすに連れて、互いに少しずつ、普段のリズムを取り戻していった。そうする間に、目的の店が近づいてきた。市街を縦断して、山を登ったところにある郊外のレストラン。昔、一度だけ家族四人で行ったことがある。
この店を選んだのは母だ。だけど、おれには、同じ場所を三人だけで訪れる勇気が持てなかった。それで、兄の分の空席を絵里さんで埋めようというわけだ。
最後の角を曲がると、目の前に長い坂が現れる。それを延々と登っていく。次第に視界が開け、市街を一望できる高さまで来たら、ちょうど到着だ。
この辺りはどこもそうだが、市街を少し外れるとすぐに坂道となり、やがて山道に変わる。地形がすり鉢状になっていて、中心部の街を山が取り囲んだようなこの土地では、こういう景観の良さを売りにした店がいくつもある。
まあ、この天気じゃあ、景観も何もないけど。
どんよりと暗い街の様子を眺める。視線を泳がせていると、街を挟んで反対側に、例の山の剥げた岩肌が見えた。一度注目してみると、その部分が目印となって、遠くからでも容易に他の山々と識別できる。意識しないようにすると、かえって目についてしまうから厄介だ。
――腐っているみたいだ。
周囲の緑から、一部分だけがきれいにくりぬかれて彩を失っていた。柵の境界線の内側でも、特にあそこだけ、空気が淀んでいるような――そんな感じかする。
「さっきの……芦原さんはさ。ほんとに、全部忘れてしまいたかったのかな」
「……今は、そっちのことは考えなくてもいいんじゃない。目の前のご両親に集中しなよ」
「あの人、ほんとに、ほとんど何も知らなかった」
絵里さんの言葉に逆らって話を続ける。「そうだね」絵里さんも仕方がない、といった調子で会話に応じた。
「あんな風に思い悩むくらいなら、もっと、ほかにできることがあったはずだろ。あんな、自分を責めたりなんかする前にさ」
「私らみたいに、過去のあれやこれやをかぎ回るのが正しいことだって?」
「だって、あの人、わざわざ樋笠に戻ってきたんでしょ。自分を知っている生徒が卒業したっていうタイミングで、事務員として戻ってきたんだ。忘れたいんなら、わざわざどうして、そんなこと」
「そりゃ……後悔とか、心残りはたくさんあったんだと思うよ。でも、自分の気持ちに折り合いをつけることと、真実を暴くこととは必ずしもイコールじゃない」
「だけど、完全に部外者のおれたちでも、あの人よりはたくさんのことを知ってる。芦原さんだって、その気になれば、もっと調べられたはずなのに」
「それは、私たちが部外者だからだ。実際に彼女の立場だったら、むしろ、そんな危険なことはできないんじゃない?」
「だけどさあ」
「圭祐、そう熱くなるな。何度も言うけど、私やお前のやってることが、みんなにとっての正解じゃないんだよ? それを望まない人たちもいる」
「なっ……なんで、絵里さんは、じゃあ、おれたちの方が間違ってるっていうの?」
「そうじゃない。けど、大事なのは今なんだよ、今、どうやって前を向いていくかだ」
「でも、じゃあなんで、そんな言い方」
「事件によって、いろんなことを狂わされても、芦原先生は自分の居場所で懸命に生きてる。一方、私たちはこうやって過去を調べて回ってる。それは、そうしなけりゃ私たちの収まりがつかないからだ。……だけど、答えが出るかも分からない調べ物に時間と労力を費やすより、大事なのは、その先にある現実の生活なの。それがおざなりになったり、過程と結果がひっくり返ったりしちゃだめなの! まして、私たちのやり方を、ほかの誰かに押しつけたりしちゃいけない」
絵里さんの語気に圧されて、おれは何も言えなくなる。
目的の店まではあと数分だ。たぶん両親は先に着いているだろう。その数分が、今はとても長く感じる。
絵里さんの記者という職業を知って、芦原さんは当初、強い拒否反応を示したという。月村遥の叔母という素性を明かして、ようやく、彼女は近づくことを許してくれた。それでも話を聞くのにはひと月近くかかっているし……絵里さんを介して会ったおれのことも、終始心を閉ざした様子だった。
過去に拘っていてほしいと思うのはおれの勝手な願望で……彼女はもう、あの事件に関して、誰かと関わることを望んでいないのだろうか。
「今日、私たちがやったことはね。そうやって、がんばって掴み取ったものを壊すような、とんでもないことなんだ」
最後に、絵里さんが小さくつけ加えた。廊下に崩れ落ち、頭を抱えて震える芦原さんの姿が思い浮かぶ。じんわりと、嫌な重さが胸に沈んでいくのを感じた。
「はい、到着。暗い話ばっかりしてても仕方ないから、切り替えていくよ」
絵里さんの声に顔を上げる。長い坂道をようやく越えて、おれたちは小高い丘のような開けた空間に出た。
「着いちゃったな。……はあ」
さっき、絵里さんに強く諭された時には、早く着いてほしいと思っていたのに。いざ到着すると、とたんに気が重い。
「ほんとにもう。嬉しくないの、久しぶりの再会なんでしょ」
「や、嬉しくなくは、ない、けど……」
両親と顔を合わせるのは、本当に、とても気が進まない。俯くおれの背中を叩いて、絵里さんはさっさと車を降りていってしまった。
「それじゃあ、圭祐と遥ちゃんの誕生日を祝って、乾杯!」
「かんぱーい」
かけ声とともに、グラスのぶつかる小気味よい音が鳴る。
祝ってくれるのはありがたいのだが、これでもう三度目だ。さすがに辟易しながら、おれもグラスを持ち上げて、両親のそれに雑にぶつける。
「本当に久しぶりだなあ。いつ以来だ、元気にしてたか?」
上機嫌な父の声に、苦笑して頷く。これも二回聞いた。もうかなり出来上がっていて、面倒くさいこと、この上ない。
「この間の連休も、結局、帰ってこなかったしなあ。どうだ、ちゃんと食ってるのか?」
「……うん。まあ、それなりには」
「そうか、ならいいが。いや、しかし、お前も二十歳か。見ない間に立派になって……」
そう言って、赤みの差した頬の上で、おぼつかない目を細め、こちらを見ている。何かしら、反応を求めている様子だったが、面倒なので気づかぬふりをする。と、
「ああ、すまん。全然、変わってなかったな……」
「喧嘩売ってんのか、こら」
思わず、絵里さん相手にやるのと同じ調子で答えてしまってから、舌打ちをする。すまんすまん、と片手を上げながらも、とても満足そうだ。……酒酔いのうわごとに噛みついても仕方がないが、やたらと楽しそうなだけに勘に障る。見かねた母が、少し呆れた声で割って入った。
「お父さん。そういうこと言ってると、嫌われますよ」
「がはは、冗談だ、冗談。ま、改めて、成人おめでとう、息子よ!」
「……はいはい、ありがと」
四回目。もうグラスはぶつけないけれど、父は気に留めず、自分のワインをビールさながらに喉へと流しこむ。
ぷは、と典型的な声を上げて、父は悦に入った様子で向き直った。
「本当は昨日に来てやりたかったんだが、仕事の都合でどうしてもな」
「いいよ。おかげで、ゆっくり見舞いできたし」
「そうか。それで、その後は、墓の方にも……」
「いやあ、それにしても、彼、太らないですよね。何か秘訣でもあるんですかね」
父が口を滑らせかけたところで、すかさず、絵里さんが話題を変える。わざとらしいくらいの大声だったが、幸いにして、母が何かを気にする素振りは見えなかった。
それを見届けながら、おれはテーブルの下で、父の足を踏みつけ、加えて目顔でも父を批難する。
酔いすぎだ。この会を台無しにしたいのか。
父も、さすがに失態だと思ったのか、ばつが悪そうに咳払いをしている。
「さあ。単に、そういう体質なんだと思うけど、変わらないんだよね」
「あなたじゃなく私に似たんでしょ、よかったね圭祐、お父さんに似なくって」
「母さんヒドイ! 圭祐、助けてくれ、最近母さんが辛辣なんだ。……なあ、俺、そんなに太って見えるかな?」
「そりゃ、誰が見ても太ってますよ。ねえ、圭祐?」
「何を今さら」
適当に相槌を打つ。父は少々大げさなくらいにショックを受けて見せ、母と、絵里さんが声を上げて笑った。
四人で囲む食卓。笑顔の溢れる、和やかなひととき――それを素直に受け入れられないのは、おれの方に問題があるからなのか。
両親に気づかれないように、小さくため息をこぼすおれに、父は相変わらず酒酔いの浮ついた声で語りかけてきた。
「いや、もう、変わりがなさ過ぎて逆に心配なくらいだ。前に帰ってきたのが、確か……」
「お正月ですよ。まあ確かに、心配ではあるわねえ。この子ったら、電話の一本も寄こさないし、メールだって滅多に返さないし……奥山さん、ご迷惑をおかけしてませんか?」
「いえいえ。圭祐くん、大学生活がよっぽど楽しいみたいで。何なら私のところにもほとんど連絡なんか寄こしませんよ」
「それはそれで心配だなあ。圭祐、面倒を見てもらってるんだから、ちゃんと毎日連絡は取りなさい」
「お父さん、それはさすがにうっとうしいんじゃないかしら。せめて三日に一回くらいじゃないと」
「いえ、美紀さん。それでも多いかと」
「あら、そうかしら」
そう言って、両親と絵里さんは笑った。もちろんおれは笑う気になどなれない。冗談なのかどうかも、よく分からないし。
三人は互いの近況報告や他愛ない世間話などを交わしながら、時折、おれに会話を投げて寄こした。最近の授業はどうだ、とか、ちゃんと自炊できてるのか、とか。その都度、曖昧な返事をしながら、後は黙って、料理をもそもそと口に運ぶ。近隣では美味しいと評判のお店で、山菜と地鶏やらをふんだんに使った皿が次々と出てくる。けれど味はよく分からなかった。
こうして、両親とともに食事をするのは本当に久しぶりだ。そもそも、会うこと自体が久しぶりだが……大学進学を口実に家を出て以来、二人とは数えるほどしか顔を合わせていない。ゴールデンウィークや長期休暇中も、何かと理由をつけて帰るのを避けた。正月には半ば強制的に呼び戻されたが、それだって高校の友人らと会う約束なんかを取りつけて、ほとんど家では過ごさずにやり過ごしたのだ。
だから、面と向かって会話をしたり、こんな風に食卓を囲んだりすることに、妙な緊張を覚えてしまう。
これじゃ、呼びつけた絵里さんの方がよっぽどうまくやってるぞ。情けない……。その絵里さんの様子を窺いたくて、顔をうつむけたまま、会話に耳を傾ける。
「……ええ。昨日は、顔色も良さそうでしたよ。最近では容態も安定しています」
「それは良かった。娘さん、おいくつになられたの?」
「……昨日で二十三になりました」
「そう、大きくなったのねえ」
いつの間にか、三人の会話は遥姉さんの話題へと移っていた。絵里さんの声が落ち着いた調子であるのとは対照的に、母の声はやけに弾んでいる。
「もう、そんなに大きくなったの。私たちも年をとるわけだわ」
「母さん、母さん。年寄りは我々だけ。奥山さんはまだお若いんだから」
「あら、そうでした。失礼」
「いやいや、私もいいかげん、無理のきかない体になってきましたよ。つい一昨日も、仕事で明け方まで詰めていたんですが、そのせいでもう体じゅう、軋みまくりです」
「昨日、寝坊して遅刻したしね」
すかさず口を挟むと、絵里さんは苦笑しながら肘でおれを小突いた。場の空気が少しだけ弛緩する。
一呼吸を置いて、母がまた口を開いた。
「遥ちゃん、昔も可愛い子でしたけど、随分大人っぽくなったでしょう」
「ありがとうございます。……子どもというのは、不思議ですね。いつの間にか、大きくなってしまって。毎週のように顔を合わせていても、ある日突然大人びて見えたりすること、よくあります」
「お仕事が忙しいのに、毎週のお見舞い、欠かしたことないんでしょう? 凄いですよね、ご立派です。娘さんも、きっと喜んでいらっしゃるんじゃないかしら」
「……いえ、そんなことは」
「そんなことありますよ。うちなんかほったらかしですから。私も見習って、今度押しかけようかしら」
「勘弁してくれ。いや、ほんと頼むからやめて」
「いーえ。私決めたわ。これを機に、もっと家族の絆を深めることにするわ。奥山さんと遥ちゃんの親子関係を参考にして……」
「親子じゃないよ」
「え?」
「母さん、さっきから間違えてるけど、遥姉さんは絵里さんの姪だから。娘じゃない。苗字だって違うだろ」
「あらやだ、私ったら……奥山さん、お気に障ったなら謝ります。すみませんでした」
「……顔を上げてください、美紀さん。まったく気にしてませんので……むしろ、本当の親子のように見えていたとしたら、嬉しい限りですよ」
会話が途切れる。なるべく、批難めいた口調にならないように言ったつもりだが、場の空気は少し重たくなった。
分かってる。悪気があっての言葉じゃない。これは仕方ないんだ、気にしていてはいけないんだ……。
母の「娘」発言を聞き流すことができずに訂正したが、結局、それによっておれ自身の気分も重くなっただけだった。
「お二人こそ、とてもいいご両親だと思いますよ? 一人暮らしの息子のために、わざわざ二人して出向いてきて、成人のお祝いをしようっていうんだから」
「それ、ちゃんと褒めてます?」
「ええ、そりゃもちろん」
絵里さんはわざと茶化すように言った。母もたまらずといった様子で吹き出し、そこからまた、三人の会話が再開する。
愉しげに話す三人を残して、そっと会話の輪から外れ、息をつく。……やっぱり、向いてない。一家団欒の安らぎよりも、気疲れの方が勝ってしまう。
その後はまたぼうっとしていて、あまり聞いていなかったのだけど、そんな時に突然、母の悪意のない言葉がおれの頭を殴りつけてきた。
絵里さんが席を立ったタイミングで、母は大きく伸びをしながら言った。
「ああ、でも、やっぱりいいなあ」
「何が?」
「今、普段はお父さんと二人でしょう? やっぱり、静かすぎて寂しいもの。家族が揃ってると、賑やかでいいね。奥山さんとも久しぶりにお会いできたし、今日はいい日だわ」
ねえ、二人もそう思うでしょう? 父と、おれとを交互に見て、母は同意を求めた。
笑顔と明るい声で平静を装い、何とかそれに答える。
「ああ、うん。……うん、おれも、そう思うよ」
――家族が、揃う。
相槌を打ちながら、大丈夫……まだ、大丈夫と、自分に言い聞かせるのに必死だった。
そうだ。これが、今の白鳥家の形。
母の世界に兄はいない。母が脳裏に描く「家族」の食卓に、用意された席は三つだけ。