表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鱗の騎士  作者: 市田智樹
揺らぐ境界
4/13

ヤーニング ー ①

「白鳥君は良い生徒でした。成績優秀というわけではなかったけれど。彼はいつも明るくて、クラスのムードメーカーでしたし、慕われていたと思います」


 前を歩く芦原先生の声は沈んでいた。――いや、もう「先生」ではないのか。この人が教壇に立っていたのは、六年も前の話だ。

 彼女はこちらを振り返ることもなく、放課後の廊下を重い足取りで進んでいく。

 辺りは暗かった。低く垂れこめた雲のせいで、日の光が届かないのだ。昨日の夜から降り続いている雨が、窓ガラスを強く打っていた。


「その兄は、周りの人間を巻きこんで厄介ごとに関わり、失踪しました」

「……随分、辛辣な言い方をするんですね。お兄さんも巻きこまれただけの被害者かもしれないのに」

「そうだとしても、何度も例の場所に足を運んでいたのは事実です。……おれは、兄が何をやったのか、何を知っていたのかを知りたいんです」

「そうですか」


 芦原さんは顔を俯け、ため息をついて言った。


「ですが、本当に何も知らないんですよ。力になれなくて申し訳ないけれど」

「本当に、まったく、何にも知らないんですか? あなたは、失踪する直前に兄たちと顔を合わせているんですよね? その時、何か気がついたこととか、普段と様子が違っていたりとか……」


 食い下がろうとして、瞬時に襟首を掴まれる。息を詰まらせ、咳きこむその後頭部を、軽い調子で叩かれる。


「すみません、つい……」

「いえ」


 前を向いたままの背中に声をかける。返答はごく短く、そっけないものだった。雨の音に混じって、すぐ隣の教室から、管楽器の練習音が途切れ途切れに聞こえる。

 気まずい沈黙の間を縫うように、絵里さんが口を開いた。


「本当に、無理を言ってすみません。つい先日お伺いしたばかりだというのに、また押しかけてしまって」

「ああ、いえ。それは構わないのですが」

 芦原さんはそこで、ようやく振り返って言った。「ですが、私が知っていることは、前回すべてお話ししたつもりです。今回は、どういったご用件で?」

「ええ、その前回のお話の中で、少し気になるというか、確認させていただきたいことがございまして」

「はあ。そうですか。私の話が参考になるかどうか……」


 絵里さんの言葉に対して、芦原さんが沈んだ声で応じる。二人のやり取りを、おれは少し後ろを歩きながら聞いていた。

 芦原美那子――六年前、兄たちのクラス担任をしていた時は、石川美那子という名前だった。昨日、絵里さんから担任教師の話を聞いた時には、どうして在学中に気づけなかったのかとひどく悔やんだ。けれど実際に会ってみて、なんとなく納得してしまった。

 写真で見た彼女は若く、はつらつとして表情豊かな人物だった。今は痩せて頬がこけ、髪にも白髪が混じっている。終始沈んだ顔をしていて、写真のような明るさは欠片も見られない。名前も、顔の印象も違っていて、六年前と今とでは、まったく別人と言っていいほどだった。もしかしたら在学中、すれ違ったこともあったのかもしれないが、写真で見ただけのおれでは気づけなかったろう。


「ここで間違いありませんか?」


 時折何やら言葉を交わしながら並んで歩いていた二人が、不意に足を止めた。絵里さんが確認し、芦原さんも頷く。


「えっと、ここがどうしたんですか?」

「この圭祐から、当時の生徒たちの間で広まっていた、ある噂について聞きました。なんでも、事件のあった例の私有地に関しての噂だとか。芦原さんはご存知でしたか?」


 状況を把握しかねていたおれの質問は無視して、絵里さんは芦原さんとの会話を続けた。


「はい。……噂自体は昔からありました。もう、ずっと昔から、あの場所には近づいてはいけないと、不文律のように語られてきましたから、樋笠の人間や近隣の住民なら皆知っている話だと思います」


 芦原さんの返答を受けて、絵里さんは無言でこちらを見た。問いかけるような視線。おれは首を横に振る。


「おれのいた時は、そんな感じじゃなかったな。教訓めいた話ってよりは、単なる怪談話みたいな」

「生徒たちにとっては、昔も今も、怪談の域を出ない話なのでしょう。我々大人にとっては違います、大勢の犠牲者が出ていますから」


 芦原さんが静かな声で訂正した。その声に、どこか批難めいた響きが含まれているような気がして、おれは彼女を見た。けれど芦原さんは絵里さんの方に体ごと向き直っていて、視線が交わることはなかった。


「改めて、噂の内容を確認させていただいても?」


 絵里さんが再度促すと、芦原さんは少しの間を置いて、深く息をついてから話しはじめた。


「昔――ちょうど、この三年校舎のあたりからです。あの山の中腹に、木々の間に浮かび上がるようにして、場違いに建つ城が、見えていたんです」


 芦原さんは窓の外の、ある一点を指で示した。……今、その指の先には、山の緑の中にぽつんと剥げた岩肌が覗いているだけだ。


「何かの衝撃で崩れてしまったのか、今では木々に隠れて、見ることはできません。……圭祐さんがここに通っていたころには、もう、今と同じような状態になっていたはずです」


 絵里さんがまた視線を寄こす。その目に、今度ははっきりと頷く。


「上級生から話を聞いたことはあるけど、城なんて、おれ自身は見たことがない」

 そうか、ここが噂の出所なのか……。示された方角を睨みつけるおれを尻目に、絵里さんが続ける。


「見えなくなったのは、いつからですか」

「六年前。……生徒たちがいなくなってしまった、その翌日からです」



――不気味な「私有地」の奥にかつて建っていたという、場違いな森の城。気になって訪ねてみれば、一目で異常と分かる鉄柵の境界線。ぐるりと周囲を歩いてみても出入り口はなく、これでは私有地の所有者さえ通れそうにない。なるほど、これだけ条件がそろえば、怪談の種にはもってこいだ。

 奇妙なのは、おれが在学中に聞いた話と、芦原さんの話とで、ものごとの「順番」がまるきり違っていることだった。おれの知っている「怪談話」では、六年前の失踪事件のことが話の中心で、例の私有地はその舞台として語られるのが常だった。「消えた城」は、話全体の気味悪さを助長するための()()にすぎない。「城なんて見えないって? そりゃあそうさ、城は、生徒たちの失踪した夜、彼らと一緒に忽然と消えてしまったんだから」――という具合に。

 芦原さんの語る「噂」では、まず城のことが前提としてあって、そこで何が起きているのかが話の争点だったという。やれ幽霊が出るだとか、夜な夜な恐ろしい人体実験が行われているだとか。肝心の内容が噂ごとにまちまちで、統一性がないのは、おそらく、実際に入った人間がいなかったからだろうと思う。……正確には、入って、出てきて、その後も無事に逃げ延びた人間が。


「……あの場所には近づいてはいけない。それが、我々にとっての絶対のルールでした。その理由は明確です。実際に近づいた人間が、無事には済まなかったからです」

「それは、六年前の事件が起きるよりも前から、そういう事例があったということですね?」


 絵里さんが確認のため念を押すと、芦原さんは暗い表情で頷いた。


「ここに通う子どもたちも、その事は噂で聞いて知っていたはずです。……けれど、禁止すればするほど、好奇心は刺激されるものなのでしょうか。あの場所を訪れる子は後を絶たず……その度に、関わった人間が消えていきました」


 芦原さんは一度言葉を切った。視線は窓の外、剥げた岩肌に注がれている。


「お二人は知っていますか? 白鳥君や、月村さんがいなくなる数ヶ月前……ほかにも、失踪した生徒がいたんです」

「いえ……恥ずかしながら、そのお話は知りませんでした」

「そう。……きっと、集団失踪事件に埋もれて、彼のことも、混同して記憶されてしまったのね。……その男子生徒も、私のクラスの子だったんです、白鳥君たちとは友人同士でした」


 芦原さんは、消え入りそうな声でそう言って目を伏せた。下唇を噛みしめながら、声を震わせて続ける。


「その時も、止められなかった……そして、今度は白鳥君や月村さんがあの場所に関わったと耳にして……当然、私は止めました。でも聞かなかった」

「あの子たちは忠告に耳を傾けず、噂の通りに姿を消してしまった。そういうことですか」


 絵里さんの声も、いつしか、芦原さんと同じように沈み切っていた。おれはといえば、何か言うべき言葉を選ぶことさえできない。


 あの、ばかやろう。やっぱりそうだ。やっぱり、危ないのを承知で関わっていたんだ。

 ふざけやがって。


 兄に対する怒りがふつふつとわき上がってきて、抑えられそうになかった。今口を開いたら、非のない芦原さんにまで余計な言葉をぶつけてしまいそうで、だから黙ったままでいた。


「あの夜、私は仕事で遅くまで残っていて……帰りの支度をしていた時に、たまたま、いつもと様子が違っていることに気がつきました」


 兄たちの消えた夜――この場所を通りかかり、何気なく城の方を見た彼女は、異変に気がついたのだという。夜にもかかわらず、やけに明るい……加えて、せいぜい建物の上部が僅かに覗く程度だったはずの城が、この夜ばかりは大きく見える。

 気になってよく見てみると――青白く光る「塔」が、暗い空に向かって伸びていた、というのだ。


「また、その話か……」


 少々辟易して、ぼそりと呟く。おれの言葉を芦原さんは聞き逃さなかった。


「また?」

「ああ、いや……その、似たような話を、今までにも何人かから聞いたことがあったので」

「信じられませんか? 私や、他の人たちの見間違い、あるいは作り話だと?」

「……はい。何かの間違いだとしか、おれには思えません」


 少しためらいつつ、正直な気持ちを打ち明ける。

 そりゃそうだ。当たり前だ。だって、見たこともない塔が夜にそびえていて、それを見た夜に、何人もの人間が姿を消した? そんなの――そんなの、いくらなんでも出来すぎてる。ばかげた空想話だと、誰だって思うはずだ。


「私の記憶違い、ですか。……私は他の人を知りませんけど、あなた方は、今の証言を別の誰かからも聞いたと仰いましたね。それでも、互いに面識のない複数の人間の記憶の方が狂っている、と?」

「さあ。少なくとも、人間の記憶があてにならないことをおれは知っています」


 剣呑な雰囲気に、咳払いが割って入る。「すみません。……お話を続けてください」絵里さんは取りなしつつ、おれのことを視線で刺した。

 芦原さんが話し出すのを渋っている様子だと見て、絵里さんは続けて口を開いた。


「……近隣の住民からは、あの夜に山の方から妙な音を聞いたとか、山火事のような光を見た、という声が上がっています。見慣れない人間が大勢出入りするのを見た、という人もいました。あの夜、あの場所でことが起きたのは間違いないと思います」

「ええ。それは私も同意見です、何しろ見たんですから」

「ただ、芦原さん、念のために断っておきますが――今まで聞いた話のうちで、すべての証言が一致した例が、まだ一つもないんです。誰も彼も、どこかが他の証言とは食い違っている」

「それは……」

「理由は分かりません。単に、混乱して頭の整理がつかないだけかも知れませんし……ともかくそういう事情もあって、我々としては、話のすべてを聞き入れるわけにはいかないのです。少々、懐疑的になっているといいますか」

「そうですか。……いえ、私も、少し熱くなりすぎました。非礼を詫びます」

「……おれの方こそ、すみませんでした」


 絵里さんの突き刺すような視線を感じて、おれも頭を下げる。絵里さんは短く鼻を鳴らすと、もう一度、芦原さんを促した。

 彼女は迷うように視線を下方向に泳がせて、自信のない様子で話し始めた。


「私自身……あの時は、信じられない思いでしたよ。けれど、とても、いやな予感がしました。何かにせき立てられるように、私は山へと向かいました……彼らとは、山道に入ってすぐの麓で出会いました」

「っ、兄は、姉さ……月村遥と、一緒にいたんですか!?」

「ええ。二人で一緒に。……圭祐さん、あなたの言った通り、私は彼らと会っているんですよ、失踪の直前に」


 芦原さんの声が、ふいに陰を帯びた。その自嘲的な声色と表情で、咄嗟に、しまった、と思った。けれど遅かった。


「……心中お察しします。ですが、芦原さん、あなたは何も悪くない。悪いのは」

「いいえ、私が止めるべきでした、私の果たすべき責務でした。もちろん、すぐに呼び止めました。何度も引き返すように説得しました! でも……でも、あの子たちは、行ってしまいました!」

「芦原さん」

「ええ、今でもずっと後悔しています。無理やりにでも、二人を車に押しこんでその場を離れるべきだった。……なのに、私は、彼らに声をかけた後、自分一人で車に乗りこんで、そのまま帰途についたんです! どうしてなのか、私にも、わ、わからないんです」


――途中から、彼女にはおれたちのことなど見えていないかのようだった。絵里さんの言葉も、たぶん聞こえてはいなかった。……はっきりと取り乱して、頭を抱えながら、廊下に崩れ落ちてしまった。

 絵里さんが彼女の肩に手を回して、優しくかき抱いた。そうしてやると、少しずつ体の震えは収まっていったが、その目は焦点が合わずぼんやりとしていて、どこを見つめているのかもよく分からなかった。


「……すみませんでした。芦原さん、少し休みましょう。保健室まで、ご一緒します……立てますか?」


 絵里さんが言葉をかける。けれど、芦原さんは首を横に振ると、肩の手を払いのけてしまった。


「結構です。もう、なんともありませんから、帰っていただけますか」


 一段と重く沈んだ声でそう言い残して、彼女は、返事を待たずに廊下の奥へと消えていってしまった。

 その背中に向かって、絵里さんは深々と頭を下げていた。角を曲がって姿が見えなくなっても、ずっと頭を下げ続けていた。


「サイアクだよね」


 長い、重苦しいため息を吐き出しながら、絵里さんが言った。


「話を聞きに行って傷つけるなんて、記者失格……いや、人としてだめだ」

「……別に絵里さんに落ち度はなかったでしょ。おれのせいだ」

「そーいう、監督不行き届きも含めて私の落ち度だっつってんの」


 はあ。もう一度ため息と、毒と煙草の煙とを絵里さんはいっぺんに吐き出した。


「……ごめん」


 後ろにめいっぱい倒したシートに体を預けて、ハンドルの上にだらしなく足を投げ出して。普段なら絶対にないような姿勢で、宙に向かって紫煙を燻らせている。とてもひどいやけ具合だ。


「私の考えが甘かったんだ。……前回、話を聞いた時には、ここまでじゃなかった。彼女が、事件のことを思い出したくないんだろう、というのは分かっていたつもりだったけど……まさか()()()()とは思っちゃいなかった」


 半分独り言のような調子だった。おれも答えられない。


「あの人ね」

「なに」

「当時と、苗字が変わってただろ。事件があった後で離婚したらしい」

「……絵里さんと同じだ」

「そう。過去のできごとをきっかけに、いろんな人の人生が狂ってる。……お前のお母さんも」

「……うん」

「あの夜、私たちはみぃんな、魔法にかけられたんだよ。……で、今もずーっと、悪い夢を見せられてるんだ、きっと」


 またも独り言のように呟く。その言葉を最後に、しばらくの間、どちらも何も言わなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ