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鱗の騎士  作者: 市田智樹
揺らぐ境界
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アウト・オブ・バウンズ

 月村遥とはじめて出会ったのは、彼女が小学校に上がる年の春、おれがまだ、幼稚園に通い始めてもいない頃の事だった。隣に住んでいた絵里さん夫婦の許に彼女がやってきて、わけあってこれから一緒に暮らすことになった、仲良くしてあげてほしい、と紹介されたのだ。

 そのやり取りの間ずっと、彼女は絵里さんの後ろに隠れて、俯いていた。その様子は、ただ内気で引っ込み思案、というのとは違って、近寄りがたい孤独の陰を纏っている、と子どもながらに感じたのを覚えている。

 兄と遥姉さんは小学校で同じクラスになったけれど、一学期をともに過ごしても、二人が楽しそうに語らう姿を見たことはほとんど――もしかしたら、全く――なかった。それは兄に限った話ではなく、出会った頃の月村遥は、誰に対しても心を開かない孤独な女の子だった。

 それが決定的に変わったのは、小学校が夏休みに入ってすぐの事だった。

 その日も、彼女は絵里さんに連れられて家にやってきて、絵里さんがおれたちを「お誕生会」に誘ったのだ。先に反応したのは兄の雅人で、二つ返事で引き受けた。昔から、兄はそういう時、物怖じしないタイプだった。「いつやるの?」と兄が訊いて、そこで、彼女がおれと同じ「八月十三日生まれ」だということを知った。


「けーくんも、八がつ十三日がおたんじょう日なの?」


 目を丸くさせて、彼女がそう訊いた。彼女が、そんな風に目を輝かせて弾んだ声を出したり、他人に興味を示したりしたのを見るのは、これがはじめてだったように思う。おれも驚いたように頷いて、その瞬間、互いの距離がぐっと縮まるのを感じた。


「でも、おんなじ日じゃないよ」


 確か、兄がそんな風に言った。先に期待に応えたのは自分なのに、二人だけではしゃぐのを見て、すこし拗ねたのだ。「おんなじ日だけど、三つもちがうもん。ちっともすごかないや」せっかくの感動に水を差すような事を言われ、おれもむっとして、口論になりかけたところで、彼女が言った。


「じゃあ、けーくんよりわたしのほうが、三つおねえさんだね」


 子どもらしい、屈託のない笑顔で彼女が笑って、おれも、ただそれだけの事に大はしゃぎしていた。幼いおれたちにとって、「同じ日に生まれた」事は、奇跡にも等しい、大事件に思えた。

 その日から、彼女はおれの「お姉ちゃん」になった。彼女もまた、おれがそう呼ぶのを嫌がらなかった。たとえ、血は繋がっていなくても……姉さんにとって、その関係が「家族ごっこ」にしか過ぎなかったとしても。

 月村遥は、おれにとって大切な姉さんだ。


「絵里さんはさ。どう思ってるわけ」


 うだるような暑さの中、病院の屋上のフェンスに垂れかかるようにして体を預け、隣にいる絵里さんに問いかける。


「目的語をいいなさいよ」


 問われた絵里さんが素っ気ない声で返す。おれはフェンス越しに街を見下ろしながら、しなびた声で続けた。


「こうやって、毎年、おれなんかと一緒に見舞いに来てさ。嫌じゃない?」


 遥姉さんが意識を失って以来、おれの八月十三日の過ごし方はいつも同じだ。絵里さんと連れだって、姉さんの許を訪れ、新しい年を祝い、「今年こそは目が覚めるといいね」と語りかける。その前後で、進展のなさにふさぎこむのも、毎年の事だ。


「何よ、急に」


 中でも今年は特別に憂鬱だ。体の不調が落ちこみ具合に輪をかけているのかもしれない――そう、ぼんやりと他人事のように考えながら、続く言葉を待ったが、絵里さんは鼻で笑って一蹴したきり何も言わなかった。


 これは、見透かされている?


 答えに窮して口をつぐんだようには見えない。答える必要のない質問だ、と思われたから、答えてくれないのだろう。この人はたまにそういう事をする。……事実、本当に訊きたかったのは、まったく別の事だ。


 姉さんが意識を失ってから、六年もの時が経っても、おれは未だに彼女を「姉さん」と呼び続けている。その事を、絵里さんはどう思っているのだろうか。


 それについて、当時も今も、絵里さんはおれに何か問い質したり、たしなめたりしたことはない。ただ、一度――今にして思えば、かなり複雑な面持ちと声色で――「ずいぶん仲がいいのね」とこぼしたきりだった。

 心の機微に敏い絵里さんのことだ。それが虚しい「ごっこ遊び」であることなど、即座に見透かしていたかもしれない。だけど、彼女はそれ以上、何も言わなかった。


「おれはさあ。姉さんには、目覚めてほしいんだよ。心からそう思ってる」

「知ってる」

「だけど、分かんなくなるんだよ。たまに、すごく不安になる……これ以上、できる事ってあるのかな」

「私だってそうだよ。だけど、じゃあ、諦める? 諦められる?」

「……ううん」

「そういうもんよ」


 おれの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でて、絵里さんは屋内に戻っていった。


――本当に不安なのは、その事じゃない。


 おれにとって、遥姉さんはとても大切な存在だった。それは、今でも同じだ。だけど、彼女にとって、おれはどういう存在だったっけ?



 不審火だった、と聞いている。


 絵里さんの家に越してくる前、遥姉さんには両親と弟がいた、らしい。昔、本人からそう聞いた。その家族は、原因の分からない火事で、彼女一人を遺して死んだ。

 固く心を閉ざして、哀しみをひた隠していたところに、都合よく現れた「弟役」――つまるところ、遥姉さんにとってのおれの価値は、それだけだ。

 お互いが成長してからも、おれは彼女を姉さんと呼び続け、姉さんも、おれのことを本当の弟のように扱って、何かにつけて甘やかした。それは単純に心地よかったし、何より、「弟役」にしがみついていれば、兄の雅人に姉さんを取られずに済む。あの当時、おれは頑なにそう信じていた。

 ただ、おれが弟役に徹していた頃、姉さんと雅人は男女の役を演じていたようだった。「恋人同士」ではない。「男と女」だ。

 自分の方が姉と近しい存在である――その思いこみが、いかに虚しいものであったかを知ったのは、兄が消え、姉さんが倒れた、ずっと後のことだった。

 今、姉さんが目覚めても……そこに雅人はいない。

 それを知った時、姉さんは何を思うだろう。

 そうなった時……おれは、今度は何の「役」を演じるのだろう。何も知らなかった頃のように「弟」を続けられるか? それとも、いなくなった兄の代わりを努めるか? 彼女は、それを受け入れるだろうか。

 そんな事を考える時――彼女の目覚めを待つのが、怖くてたまらなくなる。


――絵里さん。おれは、あなたの隣で、姉さんに寄り添う資格なんてない。


 自分が、本当に、心から彼女の目覚めを望んでいるのか。


「……たまに、すごく不安になるんだ」


 誰もいない屋上は静かで、情けなくしなびた弱音は、雑音に紛れることもなく、いつまでもそこにへばりついて、ひどく虚しい後味の悪さを発していた。



 廃墟、だろうか。屋根はとうに落ちてなくなり、頭上には星明りが瞬いていた。周囲の壁もまた、ほとんど崩れ去っていた。見覚えのない部屋――すでに部屋とは呼べないかもしれないが、ともかく、かつてそうだった場所――の、崩れた壁の向こうに、遠く、街灯りが広がっていた。反対側の壁、唯一まだ壁と呼べるだけの面積を誇っている一面には、一人の少女が寄りかかっていた。気を失っているのか、それとも単に眠っているのか。少なくとも死んではいないようだった。傷だらけで、硬く冷たい壁に体を預け、浅い呼吸を繰り返している。風が瓦礫の向こうから吹きこんで、少女の、汗ばんでもつれた髪をとかしていった。

 少女はうなされていた。時折、苦悶の表情を浮かべ、なにごとか呟いていた。すすり泣くような声がこぼれる時もあった。頬には、幾筋も涙の痕が残っていた。


 重い瞼を開けると、すでに傾いた陽光が木漏れ日となって降り注いでいた。


「おはよう、少年。ちょうど着いたところだよ」


 開け放された窓の向こうで、絵里さんの声が聞こえる。ああ、そうか。ぐるりと周囲を見渡し、ぼんやりとした頭で考える。そうか、おれは、眠っていたんだな。


 また、あの少女……。


 朝に見たのとは別の夢だ。今度のは短かったけど、でもはっきりと覚えている。

 例の気だるさが、またまとわりついていた。今朝と違って頭痛や吐き気はしないが、体の重さは同じだった。何せ手足に力が入らない。それに、なぜだか体の芯が冷え切っていて、震えが止まらなかった。

 暑い夏の日の午後だというのに、手がかじかんで、思うように動かせない。ずっと寒いところにいたせいだ……自分でそう考えて、すぐにおかしさに気づく。

 いや、違う。おれは確かにここにいた。病院を出た後……寂れた田園風景の中を、絵里さんの運転する車の助手席に座って揺られていた。そうするうちに、いつしか眠りこけてしまっていたのだ。そして……眠っているその間に、夢を見た。あの不思議な少女の夢を……。

 どこか、山の上だった。少女は廃墟の中で眠っていた。おれはそれを見ていた。


 そうだ。ただ、見ていただけだ。その場にいたわけじゃない。なのに、どうして……どうして、おれまで凍えてしまっているのだ?


 わけの分からないことばかりだ。軽く頭を振る。外へ出て、少し歩こう……車のドアに手をかけたところで、ようやく我に返る。


「あ……ごめん、絵里さん。待たせちゃって、」


 眠っていたばかりか、絵里さんのことも忘れて、ひとり呑気に考えこんでいるなんて。慌てて、首を垂れつつ、ドアを開ける――力がうまく入らないことも忘れていた。意識に体の動きが追いつかない。思うように足が踏み出せず、前のめりになって、危うく地面に転げ落ちそうになる。


「ちょっと、ちょっと……お前、本当に大丈夫なの?」


 慌ててドアを掴んで事なきを得たが、絵里さんには呆れられてしまった。恥ずかしさをごまかすように咳払いを挟んで、そろそろと車から降りる。よし。今度こそちゃんと立ち上がれた。


「別に、大丈夫だよ。……変な体勢で眠ったから、ちょっと体が痺れてるだけ」


 適当に言い繕う。絵里さんはやれやれ、という風に肩をすくめただけだった。

 おれを待つ間、絵里さんは一服していたようで、喫い終わった煙草を携帯灰皿へとねじこむ。と思う間に、すぐさま次の一本を取り出して咥えた。


「一本どう? 疲れた体にはよくしみるよ」


 そう言って、冗談めかして箱を差し出す。


「そっちから勧めてくるなんて、珍しいね。いつもはいい顔しないのに」

「そりゃ、もう止める理由がないからね」


 返しの言葉に、一瞬きょとんとしてしまう。ともかくも、目の前に飛び出た一本を受け取り、ポケットのライターで火を灯す……何度かふかしてから、やっと理解する。


「ああ……なに、二十歳になったから、ってこと?」

「それ以外になんかある?」


 なんだ、そんなことか。本気で理由が思い当たらず、ぐるぐると考えこんでしまった。思わず笑ってしまうが、絵里さんの方では大まじめだ。


「そんなこと、ってお前ね。規則は守らなきゃだめでしょ。知ってて黙認なんかしません」

「禁止されてるのは、身体に害があるから、でしょ。おれには関係ないもん」

「またそういうことを言う。……ねえ、お前がそうなったのって、もしかして」

「ひねくれてるのは昔からだよ」

「そういう意味じゃなくて。()()()()になったのは、ってことよ。……それって、さっき言ってた記憶喪失の時からなんじゃないの」

「……さあ。どうだったかな」


 ごまかそうとして、少し言葉に詰まる。隣から、やや不満げなため息。けれどそれだけで、やっぱり絵里さんは無理に聞き出そうとはしてこない。

 二人並んで、静かに煙を(くゆ)らせる。……絵里さんの言った通り、よくしみる。体の内側にじんわりと広がって、芯がほぐれていく心地がした。

 兄が失踪する少し前……兄の跡をつけた、あの日。跡をつけようとして、記憶をなくした日。その時に「何か」があったのだろうか……たぶん、そうなんだろう。だけどそれは、おれ自身もよく分からない。

 ただ一つ言えるのは、絵里さんの推測した通り、そのころからおれの体はおかしなことになった、ということだ。

 ため息とともに煙を吐き出す。……分からないことを考えても仕方ない。なにか、ほかのことを考えよう。例えば……そうだ。あの妙な夢、あれは結局のところ何なのだ?


 ただの妙な夢。


 その一言で片づけてしまおうと、何度も思った。けれど……夢は続いていた。

 つい、今しがた見た二回目の夢。――足に傷があったから、きっと、あれは男から逃げ出した後の光景だろう。

 よかった、あの子は無事に逃げられたのだ。ほっと胸をなで下ろして、いや、そうではないと自分を叱咤する。何度も言わせるな。あれは、ただの夢なんだ。あの女は現実じゃない。お前が続きを気にしたから、夢が続きを見せただけだ。だから、もう気にするな、夢に囚われてはいけない!


……だけど、本当にそうだろうか? 続きがあったことも確かに妙だ。だけど、他にも気になることはあったのだ。


 石床の硬さや夜風の冷たさが、まるで自分のことのように感じられたのはどうしてだろう。自分があの場所にいたかのように錯覚してしまったのは、ただ寝ぼけていたから、本当にそれだけだったろうか?

 なんだか、怖さを通り越して、気味が悪いな……。また、悪寒がじわじわと背中を這い上がってくる。

 今朝、はじめて夢を見た時もそうだった。あの時も、おれは寒さや臭いまで感じていたし、左足の焼けつくような痛みだって……。

 どうして分かるのだろう。少女の足に()()()()()()()()()()()()――そんなことを、どうしておれは知っているんだろうか。


「……わからない」


――感覚が、リンクしている? そんな、ばかな。


 重くなりすぎた灰が自重で落ちる。じりり。地面の草の焦げる音が微かに聞こえた。

 ろくに喫わないまま、うんと短くなってしまった煙草を、最後に惜しむように味わう。煙を口に含んで少し転がし、喉の奥までいっぱいに広がったら鼻から出す。仄かに甘い香りが鼻孔をくすぐる、この感じが好きだ。

 足元に転がる石の一つに煙草を押しつけて、鎮火。隣で絵里さんも煙草の火を揉み消す。


「分からないって、何が?」


 吸い殻を受け取りながら、絵里さんが訊く。咄嗟に何のことか分からず、「いったい、今朝からずっと何を悩んでるわけ?」続く言葉でようやく、声に出していたのか、と気づいた。慌てて、取り繕うように言葉を探す。


「いや……ほんとはさ。よく分からないんだ」

「だから、何がよ」

「その……確かに、体が変になったのも、成長が止まったのも、あの頃なんだけど……何しろ覚えてないから」

「そっか。……悪かった、変なこと聞いて」

「ううん。時間もないし、そろそろ行かないと」

「ん、そうだね」


 狭い駐車場は背の高い木々に囲まれていた。脇にある細い砂利道は急こう配になっていて、上の方に視線を移すと、うっそうとした木々の合間に開けた台地が見える。そこは墓地だった。

 先に立って歩く絵里さんの後ろを、重い足取りで追う。ただ歩くだけでも、気候のせいだけではない、いやな汗がじんわりとにじんでくる。夢の後に、またも、普通ではない倦怠感。やはり何か、関係があるのだろうか。本当に夢のせいだとして……治し方も、防ぎ方も分からないだなんて、困ったな。

 苦労して長い坂を上り、やっとの思いで、自分の苗字が刻まれた墓石の前まで辿り着く。


 白鳥家之墓。


 墓の前に並んで立ち、しばらくの間、二人で黙祷を捧げる。――毎年のことだが、何度やっても慣れない。

 今日ここに来たのは、兄を悼むためだった。そうは言っても、遺体や遺骨があるわけではない。兄は行方不明なのだ。……生存の可能性を信じて必死に過去の情報を集めながら、一方では、こうして墓参りなんてやっている。おれは本当に、兄のことを信じられているんだろうか。……絵里さんは、どう思っているんだろう。

 一際大きなため息がこぼれる。本当に、今日はどうかしている。こんなに後ろ暗いことばかり考えてしまうのも、全部、あの妙な夢のせいだ。

 夢のことや、兄や姉さんのこと。色々なことが頭に浮かんでは消え、終始上の空だった。どこか気の抜けたまま墓石を磨き、雑草を抜いて体裁を整える。ついでに――なんて言ってしまっては、ばちが当たるだろうか――ご先祖様にも線香をあげて、ようやく霊園を後にする頃には、かなり陽も長くなっていた。


「やれやれ、これで一段落だね」


 隣の助手席で、絵里さんが伸びをする。帰りは運転を交代することにしたのだった。「けど、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だって。さっきはおれだけ休んじゃったからね。絵里さんだって、徹夜明けで疲れてるんだろ。これくらいならお安い御用だよ」


 本当は大丈夫じゃない。まだまだ体は重いし、ちょっと動くのも一苦労だ。全然お安くない――思いながらも口には出さず、斜陽の中を走らせる。


 今は、眠るのが少し怖い。


 実のところ、運転を代わるように申し出たのはそのためだった。眠れば、また夢を見るのではないか。そうしたら、また、あの異常な疲れや、少女との「リンク」が起きてしまうのではないだろうか……それを思うと怖かった。

 あの錯覚がいったい何だったのか、本当に分からない。夢は二回とも、まるで少女のすぐ傍で見ているような具合だった。それくらいはっきりと覚えているし……暑さや寒さまで感じたのだ。傷の痛みさえも。

 夢の中で、おれは、あの少女を外から見ていたはずだった。例えるなら……そう、映画でも見ているような感じ。次々と視点が切り替わって、時には前や横から、時には上から、少女と男の駆け引きを見ているような……。けれど、時々、おれは少女の焦りや恐怖、痛みや疲労といったものを感じていた。

 それは単に、映画の主人公に感情移入する、なんていうのとはわけが違う。感情移入で傷のない足や脇腹が痛むか? 夢で感じたにおいや温度は、「画面から想起する」という範疇はゆうに超えていた。うまく言えないが……そのぐらい()()()だったのだ。

 では、結局のところあの現象は何だ? ――それは分からない。あれはいったい……ほら、堂々巡りだ。思わず深いため息がこぼれる。やっぱり、悩むだけ無駄なのか……。


「……おい、こら。聞いてんの?」


 不意に、絵里さんに耳元で叫ばれながら小突かれ、はっと我に返る。見れば絵里さんは訝しげな視線をこちらに向けていた。


「え……? あ、ごめん、聞いてなかった。なんだっけ」

「ったく……お前、ほんとに大丈夫かよ」


 絵里さんが呆れ顔に変わる。「考えごとはいいけど、事故だけは勘弁してよ、ほんと」

「ごめんってば。で、なんの話だっけ」

「あれだけでよかったのか、って」


 絵里さんが後方に身をよじらせて言った。


「よかった、って、何が?」

「お兄さんの方は、随分とあっけなかったじゃない。もう少し、長居してもよかったと思うけど」


 ルームミラーで後ろの様子を確認する。霊園のある山はもう随分と小さくなってしまっていた。うだうだと、とりとめもなく考えている間に、結構な距離を走っていたらしい。


「ああ……十分だろ。別に、あそこにいるわけじゃないんだから」


 ま、それもそうか。素っ気ないおれの返答に、絵里さんの方も、存外あっさりと返す。と、


「お兄さんは絶対帰ってくるんだもんね、少年?」


 ニヤリとしながら、茶化すように言う。


「う、うるさいな。それはもう昔の話だろ」

「何を言ってんだか。ビービー泣いてたくせに」

「だから、それは……はあ。もういい」


 気恥ずかしさを紛らせるように少し語気を強めると、絵里さんは声を上げて笑った。


「悪い、悪い。でも、その通りだと思うよ、私も」

「何がだよ。まったく……」

「雅人くんは、必ず帰ってくる。私の姪も、きっと目を覚ます。……そう信じていれば、きっと何とかなるよ」


 やけに明るい絵里さんの声に、かえって言葉を失う。明るいが、少し硬さのある声に。


――そんなのは、ただの強がりだ。実際は逆で、信じていないとやっていられない、というだけだろう。


 自分たちの「足掻き」が、実はまったくの無駄なんじゃないか。その不安は日に日に強まっていく。――もう散々調べ尽くした、それでも何も分からなかった。ようやく探し出した当時の担任だって、ほとんど何も知らなかったという。まだ他に、関係のありそうな人間はいただろうか? 次は、何を調べればいい、誰を探せばいい?

 不安と焦りとで、ハンドルを握る手に力がこもる。……本当に、どこに行ったんだ、あのばか兄は。

 兄は自分勝手だ。残された側の気も知らないで……どんな事情があったにせよ、誰にも、何にも言わずに姿を消すだなんて。自分の帰りを待っている人間がどれだけたくさんいるか、どれほど心配をかけているのか、あいつは知るべきだ。

 心の中で何を言ったところで、誰も答えてはくれない。やり場のない怒りや苛立ちが、しだいにやるせなさへと変わる。はあ。重いため息とともに、肩を落とす。

 だめだ。落ちこんでたって仕方ない。それよりも、今は運転中で、隣には絵里さんがいる。無理を言って代わってもらって、もし何かあったら洒落にならないんだから。集中、集中……。何度か深呼吸を繰り返し、気分を落ち着かせる。

 しばらく黙って様子を見ていたらしい絵里さんが、小さく笑って、また口を開いた。


「古巣が見えるね」


 彼女は右手方向に顎をしゃくって見せた。ちらと視線を移すと、かつて通った母校の校舎が見えた。


「ああ、うん。……懐かしいな」


 私立樋笠高校。おれの母校でもあるし、兄や姉さんの母校でもある。抱く心情は少し複雑だ。在学中は、事件や兄たちに関する噂がないか、そんなことばかり嗅ぎまわっていたし、自分の楽しかった思い出より、事件のことが嫌でもちらつくからだ。

 そんなわけで、用もないのに訪れたい場所ではない。前にこの辺りを通ったのは確か去年の冬だったから、もう半年以上も経つことになる。冬の寒空の下と違い、うっすらと群青色を帯びた夏の空の下では、古びた校舎も若干の温かみを携えて見えた。


「絵里さんは、三日前にもこっちに来たんだっけ」

「そうだよ。どうせなら、お前も一緒に来られればよかったんだけど」


 絵里さんの話では、件の担任教師は現在もこの高校に在籍しているらしい。事件の後で一度は退任したものの、二年ほど前から戻ってきていたのだとか。……二年前というと、まだおれが通っていた頃の話だ。今ではもう教壇に立つことはなく、事務員として勤めている、ということだったが……そんなにも近くにいたのに、それに気づけなかったことが、今さらのように悔やまれる。


「仕方ないよ、急だったみたいだし。……それに、おれがいたんじゃ仕事の邪魔でしょ」


 実際、その場に居合わせていたら、迷惑をかけたかもしれない。話を聞く限り、冷静でいられる自信などなかった。ことの真相に近づけるかもしれないと期待して、しかも、それが空振りに終わった、となると……我を忘れて詰め寄るか、下手をすれば、掴みかかっていた可能性だってある。

 そのように告げると、絵里さんはおかしそうに笑った。「あはは、ほんとにもう、物騒だなあ。いや、そういうのが心配だったから呼ばなかったんだけどさ」

「……思ってたんなら、言わないでくださいよ」


 相変わらずの子ども扱い。まあ実際、すぐに感情的になってしまうあたり、子どもと言われても仕方がないか……。


「実はね。明日、先生ともう一度会う予定を取り付けてるんだ」

「えっ」

「私の話だけじゃ、お前は納得しないだろうと思って。どうせ、明日の夜も一緒にいるんだし、どう、その前に少しだけ話してみる?」

「うん、ぜひお願い」


 迷うことなく即答する。食いつくような反応に、絵里さんは苦笑した。その後、若干声を低めておれに念を押す。


「ただし、あんまり期待はしないこと。さっきも言った通り、彼女、たいしたことは知らないからね。妙に刺激するのも、興奮して問い詰めるのもなし。オーケー?」

「……はい」

「さっきより返事に覇気がないなあ」

「だ、大丈夫だよ! ……ちゃんと、うまくやる」

「頼むよ。これっきり、話を聞けないなんてのは勘弁したいからね」

「分かったってば」


 再三の確認。……予想だけど、おれと会わせる前に一人で話を聞いてきたのも、おれに余計な期待を抱かせないようにするためなんだと思う。なにも、そこまで心配しなくたっていいのに……。

 兄や遥姉さんの担任教師と会えるのはいいけど、少しフクザツだ。

 母校へと至る国道をしばらく走り、やがて、分岐点から山道へと進む。ますます殺風景になる周囲に、人影や他の車はほとんど見られず、あたりはひたすらに静かだった。虫の声さえもない。中腹あたりまで登ったところで車を道路脇に停めると、静寂が一帯を支配した。

 空には月が昇り、辺りには宵の気配が漂い始めていた。山は黒々とした影となって頭上にそびえていた。車を降りると、日中とは打って変わって、ひんやりとした空気が感じられた。少し肌寒いほどで、軽く身震いする。またにおいも独特だった。清々しい空気、山林の醸し出す、木々と土の香りの中に、錆びついた鉄の異臭が紛れこんでいた。

 ここから先は車では進めない。おれたちはコンクリートの道路を脇へと逸れ、細い獣道に分け入っていく。その異臭のする方へ、懐中電灯の灯りを頼りに木の根を踏み越えながら歩いていくと、すぐにそれは現れた。


「……ひどい場所だな、相変わらず」


 眼前の威容に顔をしかめる。道は途中で遮られていた。山を取り囲むようにして、幾重にも張り巡らされた有刺鉄線や電気柵が、見渡す限り、視界の端まで続いているのだ。その鉄条網に一定の間隔を置いてかけられた看板には、毒々しい赤色のペンキで示された「私有地」の文字。闇に半ば溶けこむようにして、宙に浮かび上がるくすんだ赤色は、ひどく不気味に見えた。


「そう言うな。眠っている人たちに失礼だよ」


 おれの態度を絵里さんがたしなめる。しかし、どうしても、この場所は好きになれない。おれがしかめ面を浮かべ、看板を睨みつけている間に、絵里さんは手に持っていた三つめの花束を、鉄柵の足元にそっと手向けた。

 この場所は、六年前に遥姉さんが倒れていた場所。兄や、その他の大勢が()()()()()()()()場所だ。それら「行方不明者」たちのため、絵里さんは、ここにも毎年必ず立ち寄る。

 眉間にしわを寄せたままではあったが、おれもそんな彼女を見習って、目を伏せることにする。


「こんなところで……何をしてたんだろうな」


 錆びついた鉄の茨の向こう、深い闇を凝視しながら、吐き捨てるように言う。草木も柵も、ろくに手入れがなされていないくせに、警戒態勢はやたらと万全で、隙間や綻びは一つとして見当たらなかった。入り口らしきものも存在しない。まるで要塞だ。


「どう考えたって、普通じゃないよ、こんなの。高校生なんかが来る場所じゃない。何のために……」

「本当にね。こんな、あからさまに怪しい場所で、何か面倒なことに首を突っこんで……」


 ばかだよ、あの子は。やるせない声で、絵里さんはこぼした。

 その夜、帰ってこない姪が見つかったという報せを受けて、駆けつけた絵里さんが目にしたのは――出入り口のない柵の向こう側で、血まみれになって倒れている遥姉さんの姿だった。


「大丈夫、絵里さん?」

「あんまり。ちょっと気分悪くなってきた」


 顔色が優れないので訊ねてみると、珍しく弱気な答えが返ってきた。当時の様子を思い出しているのかもしれない。


「……柵や、周りの木や雪の上にもべっとりと血がこびりついていてね。本人のけがもひどかったけど……絶対にあの子一人分の量じゃない、複数人の血だった」

「だけど、遥姉さん以外には、誰も見つからなかったんだよね」

「ああ。どころか、遺体の一つさえ転がってはいなかった。それで、殺人じゃなく失踪事件ってわけだ。……私有地の奥にでも埋めて、隠したのかね」

「さあ。どうなんだろ。()()()()じゃ、確かめにも行けないし」


 棘だらけの柵を忌々しく睨みつける。……棘だけなら、まだ何とか乗り越えることだって可能かもしれないが、電流の方はそうはいかない。

 この場所では木々が邪魔をして、昼間でも暗い。まだ事件から間もない頃、電線に気がつかずに柵を登ろうとして、しばらく掴んだ手を放すこともできずに痙攣し続ける羽目になったことがある。あの時はひどい目に遭った。


「……やっぱりさ。偶然巻きこまれた、ってわけじゃないんだよな?」

「真冬の深夜に、しかも悪天候の中、高校生が偶然こんな場所には来ないでしょ。それに、あの子たちがここに来るのはあの日が初めてじゃなかった」

「じゃあ、どんな目的なら来るんだよ」

「さあね。それが分かれば、ちょっとは楽にもなるんだけどね」


 絵里さんが諦めたように肩をすくめる。

 本当に、絵里さんの言う通りだ。何もかも分からないから、苦しい。生死も分からない。失踪の原因も分からない。すべてが曖昧なせいで、未だに心の整理がつかないでいる。

 忌々しい柵を見上げる。

 おれたちには、このふざけた境界線を越える手段がない。

 おれと絵里さんの「調査」は、だから、いつもこの場所で行き止まりだ。


「はーあ。ほんと、わけ分かんないよな」


 やるせなさに、大きなため息。


「……ちょっと。危ないからよしな」


 電線の部分を避けて、ごく軽く、柵に触れる。制する絵里さんの声を無視して、その指を、ゆっくりと手繰りこんでいく。……指に、手のひらに、鉄の棘が食いこんで血をにじませる。

 不気味な柵だ。

 厄介で、得体が知れず、底意地の悪い柵だ。

 姉さんを救助して、他の失踪者を捜索する際、この柵は一度取り払われたはずだった。その後も、真相を探る人間が現れる度、この柵は何度も壊された。それなのに、しばらく経って訪れてみると、いつだって柵は行く手を遮っている。

 誰かの強い意志が働いている。

 それが誰なのか――「私有地」の主は調べても分からなかった。そのことが、なお一層事態を不気味に演出している。

 おれたちが柵を越えたことはない。だけど、たとえ運よく道が拓けていても、実際に中へ踏みこむのは勇気が要る。「立ち入るのはよした方がいい。ただでは済まない」――頭の中で、しきりに警告する声が聞こえるのだ。そうした本能の叫びには逆らわない方がいいと、おれはよく知っている。

 だけど一方で、そうした態度を心がなじるのだ。雅人や遥のために危険を冒すことをためらうのか? 二人を案じる態度は口先だけで、本心では自分がかわいいんだろう? お前は、ひどい嘘つきなんだ……。

 違う。おれは、おろかな兄と同じになりたくないだけだ! いたずらに周囲を心配させるようなやり方が好みでないだけだ!


「……おれは、あんたみたいにはならない。絶対に」


 暗闇に向かって吐き捨てると、後は柵から目を背けるようにして、来た道を引き返す。改めて思うが、この場所は嫌いだ。この暗くて、じめじめと淀んだ空気にも、どうしようもなく沸き上がってくる感傷にもうんざりしていた。

 車のところまで戻ると、開けた視界の向こうに、夕闇に浮かび上がる無数の街灯が見えた。ぽつぽつと、暗がりの中に散らばるものもあれば、文字通り群をなして遠くにきらめいているものもあった。視線のすぐ先には母校の影もある。周囲から少しせり上がった丘の上に、校庭のあかりがあかあかと燃えている。こうして見ると、すごく近い。

 実際のところ、樋笠高校からこの場所に来るには、一度山を下って、国道との分岐点から今来た山道を登ってこなければならない。車でも十分以上はかかる距離だ。……わざわざ、短くない道のりを渡って、こんな得体の知れない場所に通って。意味が分からない。


「何をしてたのか知らないけど……自分がいなくなってたんじゃ、意味ないじゃんか。絵里さんだってそう思うだろ?」

「そうだね。圭祐、私がお前に、注意深くいなさいと散々言うのは、そういう良くない例が身近にあるからだよ」

「はいはい。コトが起こってからじゃ遅いんでしょ。分かってますって」


 周囲はいよいよ暗くなってきた。背後の獣道はもちろん、左右に伸びる山道にも電灯などなく、光源は遠くの街あかりと月の光だけだ。まるで、人が出入りすることを前提としていない、とでもいうような具合だ。完全に陽が落ちきってしまったら、戻るのも一苦労だろう。


「運転、やっぱり私がするよ。お前は明日も頑張んないといけないだろ」

「あー……絵里さん、余計なこと言わないでよ。せっかく、考えないようにしてたのにさあ」

「おっと、そりゃ失礼しました。もっとも、そんなに緊張するほどのことじゃないと思うけどね」

「絵里さんにとってはそうかもしれないけど、おれにとっては一大事なんだよ」

「あっそ」


 素っ気ない相づちとともに、絵里さんが車を転回させる。走り出してすぐに、不気味な獣道の入り口は、闇に紛れて見えなくなった。

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