メランコリック・バースデイ
何度か瞬きを繰り返して、ようやく、目が覚めたのだ、と気づいた。思わず、安堵のため息がこぼれる。強張っていた体が緩み、ベッドに沈んでいく。
ゆめ、か……。
もう一度、深く安堵のため息をついて、自身に言い聞かせるように繰り返す。……あれは、夢だったんだ。
声には出さなかった。というより、出せなかった。口の中に粘りつくような気持ち悪さがあって、けれど一方で喉の奥はからからに渇いていた。喉の内側の肉がくっついて、締めつけられるような感じ……つばを呑みこむ動作ですら、ひどい痛みを伴った。うめき声の一つさえ上げられないまま、ただ、荒い呼吸を繰り返す。全力で疾走した直後のように、全身が汗に濡れていて、心臓が早鐘を打っていた。
いまのは……あの女の子は、いったい……。
考えを巡らせようとして――ズキリ、こめかみの刺すような痛みに遮られる。
頭痛と寒気がひどかった。側頭部から頭の芯にかけて、ズキズキと脈打つような痛みが広がっている。目をしっかりと開くことさえもできないほどだ。体が重い……全身に疲労感が重たくのしかかっていて、起き上がることはおろか、指一本動かすのもおっくうだった。やっとの思いで寝返りを打つと、再びベッドに沈みこむ。
いまのは、何だったんだろう。
ゆめ。……目が覚めて、咄嗟に、その単語を頭に浮かべた。だけど、どうにも確信が持てない。あれは、本当に夢だったろうか。あれではまるで……。
まるで、現実のようだった。
思わず、浮かんできた考えを慌てて打ち消す。あれは夢、ただの悪い夢だ。
背中の寒さに身震いする。汗でぬれた服が体に張りついて気持ち悪い。固唾を呑んで、今度は喉の激しい痛みに襲われた。思わず顔をしかめると、側頭部の痛みが一層ひどさを増した。
こうしてじっと横たわっていても、動悸は一向に収まらず、呼吸も整わないままだ。このままではいけない、動揺していてはだめだ……。鉛のような手を胸にあてがい、深呼吸を繰り返す。落ち着け。考えろ。冷静になれ……。
妙な夢だった。やけに生々しいというか、具体的というか……。ともかく頭を整理しようと、夢の記憶を手繰る。――そうして、夢とは、こんなにもはっきりと覚えているものだろうか、と疑問に思う。
目を閉じていると、まるで、まだ夢の中にいるかのように、そこで見た景色がまざまざと蘇ってくる。……いや、それだけでなく、遠くの爆発音や、大勢の叫び声、笑い声。鼻をつく嫌な臭い、肌寒い夜、足や脇腹の焼けつくような痛みまで――思い出していくほどに、違和感が強まっていく。
ぞっとするほどに鮮明な記憶。どうして、おれは覚えているんだ。夢……ゆめって、いったいなんだ?
閉じていた目をうっすらと開ける。そうすると脈打つような痛みが一層強まるのだが、目を閉じている方が怖かった。どんどんと景色が鮮明になっていく様は、思い出すというよりもむしろ、何か強い力で、夢の中の世界に無理やり引き戻されそうになる、といった方がよかった。
今のは、ただの夢。だから大丈夫。心配することなんか、なんにもない……自分自身を落ち着かせようと、何度も、心の中で言い聞かせてみる。けれどうまくいかない。得体の知れない不安がどうしても拭えなかった。……あれは、本当にただの夢だったろうか。ひょっとしたら――また、あの嫌な考えが浮かんでくる――ひょっとしたら、どこか遠い場所で、本当に起きた出来事なんじゃないか?
いや……いや。あれは夢だ。あんなのが現実だなんてばかげてる。……だけど、そう思ってしまうくらい、生々しい夢だったのだ。あの痛みは錯覚なんかじゃなかった。
だけど……夢でなければ、なんだと言うのだ? 目が覚めて、おれは、ここにいるじゃないか。自室のベッドで横になって、こうして、朝を迎えた。あれは、現実なんかじゃない。ただ恐ろしいだけの、夢……。
考えに沈みかけた時、目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴り始めた。舌打ちをして、枕許にあるはずのそれを手探りで止めようとするが、見つからない。どうやら寝ている間に落としてしまったらしく、どこか見当違いな場所から鳴り続けている。甲高い電子音はひどく頭に響いて、無視することもできない。
大きくため息をついて、のそのそとベッドから這い出る。……うまく行かず、ベッドから転げ落ちた。床に胸を打ちつけて、うっ、と、喉を詰まらせたような音がこぼれ、次いで咳きこむ。
落ちた拍子に頭もぶつけてしまい、身もだえる瞼の裏に、ちかちかと光が舞っていた。
しばらく身悶え、頭を押さえて、目を何度も瞬かせる。その間も、アラームは耳障りな音を立て続けている。ぶつけたせいか、視界は靄がかかったようにぼやけて見えて、どこで鳴っているのか、見当もつかない。
辺りを闇雲に探すが、近くにはないようだった。仕方なく、立ち上がろうとして、足に力をこめ――そのとたん、左の腿に、一際激しい痛みが走った。
声にならない悲鳴を上げて、また崩れ落ちる。
――くそ。なんなんだ、いったい……。
心の裡で、誰にともなく悪態をつく。……痛みが走ったのはほんの一瞬で、今はもう、何も感じない。恐る恐る、手を触れてみても、先ほどの焼けるような痛みが嘘のようだった。
わけが分からない。
ベッドに体を預けて、天井を見上げ、長く重いため息をつく。
間違いなく、これまでの人生で最悪の目覚めだ。……よりによって、どうして今日なんだ。
ようやく見つけた目覚まし時計――ベッドの真下に潜りこんでいたそれを、忌々しげに叩きつけて黙らせる。耳につく音が止むと、部屋は奇妙なほどにしんと静まりかえった。
……こうして、だらしなく床に崩れていたって、仕方ない。
夢の残像はまだ脳裏にこびりついている。音声つきの映像が次々と頭の中を駆け抜けていくし、加えて、ものの焼ける臭いや、血の味なんかが鼻と口に残っていて、それらがまた気持ち悪い。さっさとシャワーでも浴びて、頭をすっきりさせるべきなんだ……。
そう分かってはいても、もう立ち上がる気力さえ沸いてこなかった。
ふと、正面の、重い緑色のカーテンがはためいて、部屋に陽の光が溢れた。生ぬるい夏の風が、汗に濡れた肌を撫でて、産毛を揺らしていく。夏の朝だ。
夢の中では、風は冷たかったけれど……あちらでも季節は夏だったような気がする。どうしてそう思うのか、「風が冷たかった」なんて、どうしておれは覚えているのか……。
首だけをおっくうに巡らせて、部屋の様子を伺う。どこにも、おかしなことのない、平凡な夜明け。やっぱり、あれは。
考えながら、ゆっくりと目線を動かせる。それが不意に誰かとぶつかり、悲鳴を上げそうになる。――その視線が、鏡に映った自分自身のものだと気づいて、胸をなで下ろすと同時に、口の中に苦いものが広がる。
何を、そんなに怯えているんだ。あんなの、ただの夢じゃないか。
頭を振って、息をつきながら、改めて姿見を覗きこむ。もう何年も変わらない背丈に、年のわりに幼く見える顔。やせ細った貧相な身体。……ベッドにもたれかかり、床の上にだらしなく坐りこんでいる自分の顔は、ひどくやつれて見えた。
自分の容姿は、あまり好きではない。仲のいい友人にも、世話を焼いてもらっている絵里さんにも、しょっちゅうからかいの種にされるし、年相応の振る舞いや服装をしてみても、子どものまね事にしか見られない。小さくて不便なことは山ほどあるが、いいことなんて、一つもない。
いつまでも代わり映えのしない自分の容姿は、だから、嫌いだった。けれど、今はその変化のなさに安堵さえ覚える。
――いつも通りだ。この部屋も、おれも。
平凡な、いつもと同じ朝。そのはずだ。けれど、それならどうして、こんなに不安になるのだろう? なぜ、あの夢のことが、いつまでも胸の底にまとわりついて、拭えないのだろう?
――あの夢は、なんだったんだろう。
どうして、あんな夢を見たのだろう。あの子は……何者なんだろう。
まだ十代の半ばくらいに見えた。たったひとり残されて、命を狙われて……過酷な運命だ。赤い髪の男は、どうして彼女をつけ狙うのだろうか。
「くれあ……誰なんだ、いったい」
相変わらず考えはまとまらない。靄がかかったようにはっきりとしない頭で、あの少女が無事に逃げ延びていればいい、と思った。
まとわりついた汗を洗い落として、身支度を整える。ようやく一息ついた頃、インターホンの電子音が来客を告げた。
「よっ、少年。久しぶり」
扉を開けるや、陽気な声が耳に届く。おれの目線よりも少し高いところから、切れ長の涼しげな目がこちらを見下ろしていた。
「おはよう、絵里さん。久しぶり」
「二か月ぶりくらいかな。元気にしてた、少年?」
「うん。特に変わりない」
「そうだね、変わってなくて安心した」
「誰が外見の話をしたよ」
安心した、と言いながら、視線や身振りでこれ見よがしに背丈をからかいにかかる。まったくこの人は、出会い頭にこれだ。悪びれもせず、絵里さんはからからと屈託なく笑った。
「あはは、ごめん、ごめん。まあ元気そうで安心したよ」
「そっちこそ相変わらずみたいで、安心しましたよ。休みって聞いてましたけど、今日も仕事だったんですか」
外は炎天下だというのに、絵里さんはスーツ姿だった。見ているこっちが暑くなるほどだ。訊くと絵里さんは肩をすくめて頷いた。
「うん。というか、昨日からずっと缶詰め。で、ついさっき原稿放りこんできたところよ」
「もう若くないのによくやるよ。……別に、今日くらい休んだって、誰も責めやしないでしょう」
「今日くらい休むために頑張ったの。締め切りは待ってくれないからね。だからまあ、そういうわけでちょっと遅れたけど、許せ、少年」
絵里さんはそう言っておれの頭を叩いた。小さい子どもにするような仕草だ。「痛い、痛いって。……勘弁してよ」おれは抗議の声を上げて、その手を払いのける。
「あのね、絵里さん。その呼び方、いいかげんどうにかなりませんか。少年と言ったって、もういい年なんだから」
「いい年ねえ。そういえば、お前、もう二十歳になったんだっけ? 誕生日おめでとう、少年」
「どうもありがとう。……で、結局、少年呼ばわりは変わらないわけだ」
「要するに私の半分くらいでしょ。まだまだ子どもだよ」
それとも、そろそろ青年の方がいいかしら。からかうような彼女の口調に、はあ、大きくため息をつく。面白くはないけれど、ぼやいても仕方ない。この人の子ども扱いはいつものことだ。「いいですよ、どっちでも。たいして変わってないし」
外はうんざりするほど暑かった。降り注ぐ強い日差しの中を、そそくさと走り抜け、アパートの正面につけられた車に滑りこむ。空調の効いた車内は快適だった。外の灼熱地獄とは、まるで別世界のよう――一息つくおれに続いて、絵里さんが悠々と乗りこみ、車を発進させる。時刻はすでに昼過ぎだった。
――随分と眠っていたんだな。……それとも、ばかみたいに悩み過ぎたのか。
次々と流れていく車窓の景色を、眺めるともなく眺める。そうしながら、脳裏に描いていたのは、あの夢の景色だった。
あれは、いったいどこなのだろう。日本ではなさそうだが……外国だとして、具体的にはどの辺りだろうか。建物の様式はどうだった? 人々の肌の色は、顔の特徴は?
これ以上は考えない――つい先ほど、そうけりをつけたはずだった。なのに、気づけばまた思考に埋もれてしまっている。どうして、こんなに気にかかるのだろうか。これほどまでに夢が心を捕らえるわけはなんだ。あの少女は、いったい何者なのだ? ……結局のところ、夢は夢でしかなく、そこで見た以上のことは分からない。だから、考えたって仕方がないのだと、そう思いながらも、考えるのを止められなかった。
「どうかしたの」
「……どうかして見えますか?」
「ひどく疲れて見える。ぼんやりとしているし。何かあったの」
「別に。……ここんとこ忙しかったから。少し、疲れがたまっているだけだと思う」
気だるさを隠そうともせずに答える。「ふうん。まあ、いいよ」あからさまなごまかしに、絵里さんはかなり不満げに応じたものの、話す気のないことは伝わったようだった。
「まあいいよ、話したくないなら無理には聞かない。ただ……」
「分かってる。事件に関わることなら、隠し事はしないよ。……その、本当に、話すような事じゃないんだ」
少しばかり遠慮がちにそう言うと、絵里さんも語調を弱めて答えた。「いや、別に責めようってわけじゃないんだよ。ただ、お前の場合は特に、体調の変化には気をつけた方がいいと思って」
そう言って、絵里さんはおれの左胸の辺りに一瞥をよこす。「まさか」おれは笑って、彼女の心配をはねのけようとしたが、絵里さんは固い表情を崩さなかった。
「思い過ごしだよ。絵里さんは心配症なんだ」
「だといいけど。いつもとは、ちょっと様子が違って見えたから」
なおも探るような目顔で、絵里さんが言う。……すごいな、この人は。記者という職業柄なのかもしれないけど、こういう洞察力というか、目ざとさはさすがだ。毎日顔を合わせる間柄でもなければ、今日会ってから、たいして言葉を交わしたわけでもないのに。
「お前に元気がないのは、毎年のことだけど、今年は特にひどい顔してる。ほんとに、ただの体調不良なの?」
「……だから、体調不良でもないってば。絵里さんと同じだよ、課題のレポートを仕上げるのに遅くまでかかったから、それで疲れてるだけ」
嘘だ。疲れの原因は寝不足ではなく、眠って、夢を見たからだ。
どうやら、調子が悪いこと自体は、ごまかしようもない。仕方なく、適当に言い繕いながら、この嘘も見透かされているんだろうな、とおぼろげに思った。
――絵里さんの言う通り、今まで、こんなことはなかった。妙に現実味のある夢も、普通ではない体の重さも……だけど、これが何かの前兆だなんて、そんなことがあるだろうか? もう何年も、不調の兆し一つ顕れなかったのに。
「……だいいち、絵里さんだって、よく知ってるでしょ。おれは丈夫なんだ。だから」
「今まではそうだった。それだけでしょう?」
考えこみながら、表面上、努めて楽観的な言葉を並べようとする。その言葉を絵里さんがぴしゃりと遮った。
「圭祐。いつも言ってるけど、お前のそれは、決して、そんな風に軽んじていいものじゃないんだよ。今まで問題なかったからって、明日も無事でいられる保証なんかない。変化が起きてからじゃ遅いんだ」
「それは、分かってるよ」
「原因が分からない以上、油断も、安心もしちゃいけない。絶対に注意を怠ってはだめ。お兄さんに続いて、もし、お前にまで何かあったら」
「分かった、分かったから。……一応、気にかけておきます」
絵里さんの静かな、けれど畳みかけるような口調に気圧されて、渋々頷く。……おれの身を案じての言葉だとは分かっているけれど、どうしても、絵里さんの抱いているような切迫した危機感は沸いてこない。
だって、ただの夢なんだよ、これは。
いや……ただの夢ではない。確かに、妙な夢ではあった。だけど、所詮は夢でしかないはずだ。この夢をきっかけに、何か取り返しのつかない異変が起こるだって? いくらなんでも、それは飛躍している。心配のし過ぎだ。
――考えながら、にわかに、背中が寒くなってくるように感じた。
本当に、考えすぎだろうか。
拭いきれない違和感、胸の底に巣くう気持ち悪さ――今朝から、ずっとだ。打ち消そうとしても、何か、引っかかるものがあって、それが無性に不安を駆り立てる。
はあ。小さくため息をついて、軽く頭を振る。ばからしい。
もう一度、自分に言い聞かせる。――考えても、どうせ分かりやしないんだ。いつまでもうだうだ悩みすぎるのは、悪い癖だ。
「絵里さんの方は、この二か月、どう過ごしてたの。何か進展あった?」
くだらない考えは頭の隅に押しやって、話題を変えようと言葉を探す。車内の沈黙に、どことなく居心地の悪さを覚えたこともあった。「んー、そうねえ」絵里さんは打って変わって暢気な声を上げたかと思うと、他愛ない世間話でもするかのようにさらりと切り出した。
「あの子たちの担任だったという女性に会ってきたよ」
まるで何でもない事とばかり。あまりに素っ気ないその調子に、おれも少し、反応が遅れてしまう。
「そ、それでっ……どうだっ、た……」
言いかけた言葉が途中で萎む。平静を装っているが、絵里さんの表情は暗かった。先の言葉を言ったきり、何かを続ける様子もない。その静寂、落とした視線で、「調査」の結果が芳しくなかったことを知る。「そっか」一言、自分の喉からこぼれた声も、同じように沈み切っていることに気づく。
「まあ、お察しの通りだよ。こう言っちゃなんだけど、無駄足だったかもね」
「具体的には、何を話したの」
「たいしたことは何も。忙しいとかで、最初は全く取り合ってくれなくてね。あの子の事を話したら、ようやく会うことを承諾してくれた。だけど忙しいのは本当らしくて、なかなか捕まらなかったんだ。……六年ぶりに居場所を突き止めて、連絡を取ったのがひと月前。会えたのはつい三日前だよ。まあ、結局、ろくに話しちゃあくれなかったけど」
というか、ほとんど何も知らなかった。――慣れた手つきでハンドルを捌きながら、ため息交じりに呟く。絵里さんの声は静かで、調子も穏やかだったが、言葉の端に隠し切れない失意の念がにじんでいた。
絵里さんはなおも、淡々と言葉を紡いでいく。
「いなくなった子どもたちはね。多くが、先生のクラスの生徒だった。彼女が知っていたのは、その子たちが、事件のしばらく前から無断欠席や外泊を繰り返していた事。そして、学外の人間と一緒に、事件のあった場所に出入りしていたらしい、という事くらいだよ」
「……原因については?」
「相変わらず不明のまま、だとさ。まったく嫌になるね」
ひとしきり言い終えると、絵里さんは黙ってしまった。再び、重苦しい気配が空間を満たす。
絵里さんの悔しさは痛いほどによく分かる。やっと……やっと新しい手がかりを掴んだと思ったのに。また、何も分からなかった。またふりだしに戻ってしまった。もうこれ以上、おれたちにできる事なんてないんじゃないか……。
互いにかける言葉を見失ったまま、しばらくの間、黙って車を走らせる。無言の車内にエンジンの駆動音だけがこだましていた。
「姉さんも」
今回も、沈黙を破ったのはおれの方だった。いいかげん、その重苦しさに耐えられなくなって、過去に何度も繰り返した問いを重ねる。
「姉さんも、その、妙な連中と付き合ってたの?」
「そう聞いてる。お前の所も同じだったのよね、確か」
「うん」
今度はおれの方が、ため息交じりに言う番だった。
「同じだよ。おれの兄も、同じように妙な行動が増えて――」
「そして、消えた。私の姪が倒れたのと同じ日に、同じ場所で」
十二月の、寒い雪の夜だった。「集団失踪事件」――兄さんや姉さん、その他多くの人間が、その日、突如として姿を消した。事件のあった夜、彼らが何をしていて、いったい何に巻きこまれたのか……六年もの時間が経った今でも、事件の事はほとんど何も分かっていない。
「くそ……っ」
吐き捨てるように、ただ一言。何かに当たり散らしたい気分だが、狭い車内ではどうしようもない。苛立たしさをぶつける当てもなく、力ない所作で髪をかきむしる。その始終を横目に見ていたらしく、絵里さんが口を挟む。
「本当に、今日は随分と虫の居所が悪いんだね。何があったの?」
不機嫌な理由。訊かれて、また、例の夢のことが脳裏をよぎる。……違う。あれはただの夢だ。おかしな夢のせいでよく眠れず、体調が優れない。それだけだ。だいたい、説明と言ったって、なんと言えばいいのだ? あんなの、おれだって他人事なら信じやしない。
「……一度、跡をつけてみたことがあるんだ」
結局、夢のことには触れず、おれは別の話題を口にした。脈絡のない切り出し方に絵里さんは少し戸惑った様子を見せたが、今度も追及はせず、先を促した。
「えっと、つけた……って、お兄さんのことを? それは初耳だけど、どうして今まで、」
「覚えてないから」
黙っていたの? 絵里さんが言い終わる前に、おれは続けた。隠していたわけじゃない、話しても仕方がないから黙っていたのだ、と。
「兄貴のことを追いかけようと思って、家を出たところまでは覚えてるんだ。でも、道を一本も渡らないうちに記憶が途切れて……次に気がついた時には、家のベッドに寝かされてた」
目が覚めた時の、兄の顔をよく覚えている。心配そうにおれの顔を覗きこんでいた。しきりに具合を確認し、なんともないと答えると、少しだけ安堵の表情を浮かべる。そうして数時間後には、ひょっこりと顔を出して、また調子はどうかと尋ねるのだ。
そういえば、それが続いた数日の間だけは、勝手な行動もなりを潜めていたな――。ふと、過ぎ去った日々が蘇り、つかの間、懐かしさに満たされる。結局、兄たちは再びこそこそと動き回るようになり、挙げ句、最後にはどこかに姿を消してしまったわけだが。
「その時、何があったのかは分からない。けど……もし、おれがその時の事を覚えてさえいれば……」
「……今とは、何か違っていたのかもしれない?」
やるせない気持ちでいっぱいになって、尻切れになってしまったおれの言葉を、絵里さんが引き継ぐ。おれは黙って頷いた。自然と重いため息がこぼれる。
「過ぎたことをとやかく言っても仕方ない。……さ、着いたよ」
車窓から見える空は、相変わらずの晴天だった。夏の日差しが容赦なく降り注ぐ。最後に大きく旋回すると、車は広い建物の敷地へと滑りこんだ。
車を降りたとたん、殺人的な暑さが襲いかかってくる。にわかに額ににじむ汗を甲で拭い、光に眩む目を瞬かせる。視界の正面に大きく映る建物は、街はずれにある総合病院――六年前のあの日から、姉さんは今も、この場所で眠り続けている。
正面のホールで受付を手早く済ませ、薄暗い廊下をいくつも抜けて――街を見下ろせる最上階の一室におれたちは向かった。病院に到着した時には、思わず歩みが速くなっていたのに、目的の部屋に近づくにつれて足取りは重くなっていった。
「ほら、男ならシャキッとせんかい。あの子に笑われるよ」
そんなおれの背中を、絵里さんが勢いよく叩く。「……分かってるよ」叩かれたおれの方はというと、丸くなった背中を少しだけ伸ばしてみるものの、相変わらず次の一歩がなかなか出ない。
分かっている。自分でも情けないと思ってはいるが、やはり心に重くのしかかる暗い思いは、自分ではどうにもできなかった。
六年前、あの場で「唯一の生き残り」だった姉さんは、瀕死の重傷を負った上、無神経な人々の好奇の眼差しに晒され続けた。……あの頃は病院にも学校にも、果ては姉さんの自宅にまで、連日のように大勢の人間が押しかけてきていた。しかし姉さんは昏睡状態で、他に事件現場から帰った人もいない。警察による捜査や捜索もはかどらず、真相は分からずじまい、いつしか事件は世間から忘れ去られていった。
そうして事態が鎮静化した後も、姉さんは目を覚まさなかった。自身をとりまく一切を拒むかのように……彼女はもう六年もずっと、自分だけの世界に閉じこもったままでいる。
姉さんの代わりに、少しでも真実を。そう願いながら、肝心なことは何も分からないまま、ただ時間だけが過ぎ去っていった。自分の無力さに腹が立ち、同時に、何の報告もできず姉さんに会うのが惨めにさえ思え、いつしかこの場所からも足が遠のいていった。今では姉さんと顔を合わせるのも年に数回程度、それも絵里さんと一緒の時だけだ。目をそらすように「調査」に没頭し、その成果に独り、ふさぎこむ――そんな事を繰り返しては、余計に自分を嫌悪する日々。まったく、我ながら呆れてしまう。
「入るよ」
うつうつとした思考を続ける間に、ようやく部屋まで辿り着く。絵里さんが軽くノックをするが、返事はない。彼女は気にせず扉を開く。窓際に置かれた、たった一つのベッドには、静かに眠り続ける女性の姿があった。
おれはそっと、その傍に歩み寄る。せっかく用意した花束は、知らず、強く握りしめたせいで少し萎れてしまっていた。絵里さんがそれを受け取り、そっと窓際に手向けた。
「誕生日おめでとう、遥姉さん」
八月十三日。強い夏の日差しが降り注ぐ、灼熱、快晴、炎天下。
主役不在のまま迎える、六度目の誕生日。