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鱗の騎士  作者: 市田智樹
揺らぐ境界
2/13

メランコリック・バースデイ

 何度か瞬きを繰り返して、ようやく、目が覚めたのだ、と気づいた。思わず、安堵のため息がこぼれる。強張っていた体が緩み、ベッドに沈んでいく。


ゆめ、か……。


 もう一度、深く安堵のため息をついて、自身に言い聞かせるように繰り返す。……あれは、夢だったんだ。

 声には出さなかった。というより、出せなかった。口の中に粘りつくような気持ち悪さがあって、けれど一方で喉の奥はからからに渇いていた。喉の内側の肉がくっついて、締めつけられるような感じ……つばを呑みこむ動作ですら、ひどい痛みを伴った。うめき声の一つさえ上げられないまま、ただ、荒い呼吸を繰り返す。全力で疾走した直後のように、全身が汗に濡れていて、心臓が早鐘を打っていた。


いまのは……あの女の子は、いったい……。


 考えを巡らせようとして――ズキリ、こめかみの刺すような痛みに遮られる。

 頭痛と寒気がひどかった。側頭部から頭の芯にかけて、ズキズキと脈打つような痛みが広がっている。目をしっかりと開くことさえもできないほどだ。体が重い……全身に疲労感が重たくのしかかっていて、起き上がることはおろか、指一本動かすのもおっくうだった。やっとの思いで寝返りを打つと、再びベッドに沈みこむ。


いまのは、何だったんだろう。


 ゆめ。……目が覚めて、咄嗟に、その単語を頭に浮かべた。だけど、どうにも確信が持てない。あれは、本当に夢だったろうか。あれではまるで……。


 まるで、現実のようだった。


 思わず、浮かんできた考えを慌てて打ち消す。あれは夢、ただの悪い夢だ。

背中の寒さに身震いする。汗でぬれた服が体に張りついて気持ち悪い。固唾を呑んで、今度は喉の激しい痛みに襲われた。思わず顔をしかめると、側頭部の痛みが一層ひどさを増した。

こうしてじっと横たわっていても、動悸は一向に収まらず、呼吸も整わないままだ。このままではいけない、動揺していてはだめだ……。鉛のような手を胸にあてがい、深呼吸を繰り返す。落ち着け。考えろ。冷静になれ……。

 妙な夢だった。やけに生々しいというか、具体的というか……。ともかく頭を整理しようと、夢の記憶を手繰る。――そうして、夢とは、こんなにもはっきりと覚えているものだろうか、と疑問に思う。

 目を閉じていると、まるで、まだ夢の中にいるかのように、そこで見た景色がまざまざと蘇ってくる。……いや、それだけでなく、遠くの爆発音や、大勢の叫び声、笑い声。鼻をつく嫌な臭い、肌寒い夜、足や脇腹の焼けつくような痛みまで――思い出していくほどに、違和感が強まっていく。

 ぞっとするほどに鮮明な記憶。どうして、おれは覚えているんだ。夢……ゆめって、いったいなんだ?

 閉じていた目をうっすらと開ける。そうすると脈打つような痛みが一層強まるのだが、目を閉じている方が怖かった。どんどんと景色が鮮明になっていく様は、思い出すというよりもむしろ、何か強い力で、夢の中の世界に無理やり引き戻されそうになる、といった方がよかった。

 今のは、ただの夢。だから大丈夫。心配することなんか、なんにもない……自分自身を落ち着かせようと、何度も、心の中で言い聞かせてみる。けれどうまくいかない。得体の知れない不安がどうしても拭えなかった。……あれは、本当にただの夢だったろうか。ひょっとしたら――また、あの嫌な考えが浮かんでくる――ひょっとしたら、どこか遠い場所で、本当に起きた出来事なんじゃないか?

 いや……いや。あれは夢だ。あんなのが現実だなんてばかげてる。……だけど、そう思ってしまうくらい、生々しい夢だったのだ。あの痛みは錯覚なんかじゃなかった。

 だけど……夢でなければ、なんだと言うのだ? 目が覚めて、おれは、ここにいるじゃないか。自室のベッドで横になって、こうして、朝を迎えた。あれは、現実なんかじゃない。ただ恐ろしいだけの、夢……。

 考えに沈みかけた時、目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴り始めた。舌打ちをして、枕許にあるはずのそれを手探りで止めようとするが、見つからない。どうやら寝ている間に落としてしまったらしく、どこか見当違いな場所から鳴り続けている。甲高い電子音はひどく頭に響いて、無視することもできない。

 大きくため息をついて、のそのそとベッドから這い出る。……うまく行かず、ベッドから転げ落ちた。床に胸を打ちつけて、うっ、と、喉を詰まらせたような音がこぼれ、次いで咳きこむ。

 落ちた拍子に頭もぶつけてしまい、身もだえる瞼の裏に、ちかちかと光が舞っていた。

 しばらく身悶え、頭を押さえて、目を何度も瞬かせる。その間も、アラームは耳障りな音を立て続けている。ぶつけたせいか、視界は靄がかかったようにぼやけて見えて、どこで鳴っているのか、見当もつかない。

 辺りを闇雲に探すが、近くにはないようだった。仕方なく、立ち上がろうとして、足に力をこめ――そのとたん、左の腿に、一際激しい痛みが走った。

 声にならない悲鳴を上げて、また崩れ落ちる。


――くそ。なんなんだ、いったい……。


 心の裡で、誰にともなく悪態をつく。……痛みが走ったのはほんの一瞬で、今はもう、何も感じない。恐る恐る、手を触れてみても、先ほどの焼けるような痛みが嘘のようだった。


 わけが分からない。


 ベッドに体を預けて、天井を見上げ、長く重いため息をつく。

 間違いなく、これまでの人生で最悪の目覚めだ。……よりによって、どうして今日なんだ。

ようやく見つけた目覚まし時計――ベッドの真下に潜りこんでいたそれを、忌々しげに叩きつけて黙らせる。耳につく音が止むと、部屋は奇妙なほどにしんと静まりかえった。


……こうして、だらしなく床に崩れていたって、仕方ない。


 夢の残像はまだ脳裏にこびりついている。音声つきの映像が次々と頭の中を駆け抜けていくし、加えて、ものの焼ける臭いや、血の味なんかが鼻と口に残っていて、それらがまた気持ち悪い。さっさとシャワーでも浴びて、頭をすっきりさせるべきなんだ……。

 そう分かってはいても、もう立ち上がる気力さえ沸いてこなかった。


 ふと、正面の、重い緑色のカーテンがはためいて、部屋に陽の光が溢れた。生ぬるい夏の風が、汗に濡れた肌を撫でて、産毛を揺らしていく。夏の朝だ。

 夢の中では、風は冷たかったけれど……あちらでも季節は夏だったような気がする。どうしてそう思うのか、「風が冷たかった」なんて、どうしておれは覚えているのか……。

 首だけをおっくうに巡らせて、部屋の様子を伺う。どこにも、おかしなことのない、平凡な夜明け。やっぱり、あれは。

 考えながら、ゆっくりと目線を動かせる。それが不意に誰かとぶつかり、悲鳴を上げそうになる。――その視線が、鏡に映った自分自身のものだと気づいて、胸をなで下ろすと同時に、口の中に苦いものが広がる。


 何を、そんなに怯えているんだ。あんなの、ただの夢じゃないか。


 頭を振って、息をつきながら、改めて姿見を覗きこむ。もう何年も変わらない背丈に、年のわりに幼く見える顔。やせ細った貧相な身体。……ベッドにもたれかかり、床の上にだらしなく坐りこんでいる自分の顔は、ひどくやつれて見えた。

 自分の容姿は、あまり好きではない。仲のいい友人にも、世話を焼いてもらっている絵里さんにも、しょっちゅうからかいの種にされるし、年相応の振る舞いや服装をしてみても、子どものまね事にしか見られない。小さくて不便なことは山ほどあるが、いいことなんて、一つもない。

 いつまでも代わり映えのしない自分の容姿は、だから、嫌いだった。けれど、今はその変化のなさに安堵さえ覚える。


――いつも通りだ。この部屋も、おれも。


 平凡な、いつもと同じ朝。そのはずだ。けれど、それならどうして、こんなに不安になるのだろう? なぜ、あの夢のことが、いつまでも胸の底にまとわりついて、拭えないのだろう?


――あの夢は、なんだったんだろう。


 どうして、あんな夢を見たのだろう。あの子は……何者なんだろう。


 まだ十代の半ばくらいに見えた。たったひとり残されて、命を狙われて……過酷な運命だ。赤い髪の男は、どうして彼女をつけ狙うのだろうか。


「くれあ……誰なんだ、いったい」


 相変わらず考えはまとまらない。(もや)がかかったようにはっきりとしない頭で、あの少女が無事に逃げ延びていればいい、と思った。


 

 まとわりついた汗を洗い落として、身支度を整える。ようやく一息ついた頃、インターホンの電子音が来客を告げた。


「よっ、少年。久しぶり」


 扉を開けるや、陽気な声が耳に届く。おれの目線よりも少し高いところから、切れ長の涼しげな目がこちらを見下ろしていた。


「おはよう、絵里さん。久しぶり」

「二か月ぶりくらいかな。元気にしてた、少年?」

「うん。特に変わりない」

「そうだね、変わってなくて安心した」

「誰が外見の話をしたよ」


 安心した、と言いながら、視線や身振りでこれ見よがしに背丈をからかいにかかる。まったくこの人は、出会い頭にこれだ。悪びれもせず、絵里さんはからからと屈託なく笑った。


「あはは、ごめん、ごめん。まあ元気そうで安心したよ」

「そっちこそ相変わらずみたいで、安心しましたよ。休みって聞いてましたけど、今日も仕事だったんですか」


 外は炎天下だというのに、絵里さんはスーツ姿だった。見ているこっちが暑くなるほどだ。訊くと絵里さんは肩をすくめて頷いた。


「うん。というか、昨日からずっと缶詰め。で、ついさっき原稿放りこんできたところよ」

「もう若くないのによくやるよ。……別に、今日くらい休んだって、誰も責めやしないでしょう」

「今日くらい休むために頑張ったの。締め切りは待ってくれないからね。だからまあ、そういうわけでちょっと遅れたけど、許せ、少年」


 絵里さんはそう言っておれの頭を叩いた。小さい子どもにするような仕草だ。「痛い、痛いって。……勘弁してよ」おれは抗議の声を上げて、その手を払いのける。


「あのね、絵里さん。その呼び方、いいかげんどうにかなりませんか。少年と言ったって、もういい年なんだから」

「いい年ねえ。そういえば、お前、もう二十歳になったんだっけ? 誕生日おめでとう、少年」

「どうもありがとう。……で、結局、少年呼ばわりは変わらないわけだ」

「要するに私の半分くらいでしょ。まだまだ子どもだよ」


 それとも、そろそろ青年の方がいいかしら。からかうような彼女の口調に、はあ、大きくため息をつく。面白くはないけれど、ぼやいても仕方ない。この人の子ども扱いはいつものことだ。「いいですよ、どっちでも。たいして変わってないし」

 外はうんざりするほど暑かった。降り注ぐ強い日差しの中を、そそくさと走り抜け、アパートの正面につけられた車に滑りこむ。空調の効いた車内は快適だった。外の灼熱地獄とは、まるで別世界のよう――一息つくおれに続いて、絵里さんが悠々と乗りこみ、車を発進させる。時刻はすでに昼過ぎだった。


――随分と眠っていたんだな。……それとも、ばかみたいに悩み過ぎたのか。


 次々と流れていく車窓の景色を、眺めるともなく眺める。そうしながら、脳裏に描いていたのは、あの夢の景色だった。

 あれは、いったいどこなのだろう。日本ではなさそうだが……外国だとして、具体的にはどの辺りだろうか。建物の様式はどうだった? 人々の肌の色は、顔の特徴は?

 これ以上は考えない――つい先ほど、そうけりをつけたはずだった。なのに、気づけばまた思考に埋もれてしまっている。どうして、こんなに気にかかるのだろうか。これほどまでに夢が心を捕らえる()()はなんだ。あの少女は、いったい何者なのだ? ……結局のところ、夢は夢でしかなく、そこで見た以上のことは分からない。だから、考えたって仕方がないのだと、そう思いながらも、考えるのを止められなかった。


「どうかしたの」

「……どうかして見えますか?」

「ひどく疲れて見える。ぼんやりとしているし。何かあったの」

「別に。……ここんとこ忙しかったから。少し、疲れがたまっているだけだと思う」


 気だるさを隠そうともせずに答える。「ふうん。まあ、いいよ」あからさまなごまかしに、絵里さんはかなり不満げに応じたものの、話す気のないことは伝わったようだった。


「まあいいよ、話したくないなら無理には聞かない。ただ……」

「分かってる。事件に関わることなら、隠し事はしないよ。……その、本当に、話すような事じゃないんだ」


 少しばかり遠慮がちにそう言うと、絵里さんも語調を弱めて答えた。「いや、別に責めようってわけじゃないんだよ。ただ、お前の場合は特に、体調の変化には気をつけた方がいいと思って」

 そう言って、絵里さんはおれの左胸の辺りに一瞥をよこす。「まさか」おれは笑って、彼女の心配をはねのけようとしたが、絵里さんは固い表情を崩さなかった。


「思い過ごしだよ。絵里さんは心配症なんだ」

「だといいけど。いつもとは、ちょっと様子が違って見えたから」


 なおも探るような目顔で、絵里さんが言う。……すごいな、この人は。記者という職業柄なのかもしれないけど、こういう洞察力というか、目ざとさはさすがだ。毎日顔を合わせる間柄でもなければ、今日会ってから、たいして言葉を交わしたわけでもないのに。


「お前に元気がないのは、毎年のことだけど、今年は特にひどい顔してる。ほんとに、ただの体調不良なの?」

「……だから、体調不良でもないってば。絵里さんと同じだよ、課題のレポートを仕上げるのに遅くまでかかったから、それで疲れてるだけ」


 嘘だ。疲れの原因は寝不足ではなく、眠って、夢を見たからだ。

 どうやら、調子が悪いこと自体は、ごまかしようもない。仕方なく、適当に言い繕いながら、この嘘も見透かされているんだろうな、とおぼろげに思った。

――絵里さんの言う通り、今まで、こんなことはなかった。妙に現実味のある夢も、普通ではない体の重さも……だけど、これが何かの前兆だなんて、そんなことがあるだろうか? もう何年も、不調の兆し一つ顕れなかったのに。


「……だいいち、絵里さんだって、よく知ってるでしょ。おれは丈夫なんだ。だから」

「今まではそうだった。それだけでしょう?」


 考えこみながら、表面上、努めて楽観的な言葉を並べようとする。その言葉を絵里さんがぴしゃりと遮った。


「圭祐。いつも言ってるけど、お前のそれは、決して、そんな風に軽んじていいものじゃないんだよ。今まで問題なかったからって、明日も無事でいられる保証なんかない。変化が起きてからじゃ遅いんだ」

「それは、分かってるよ」

「原因が分からない以上、油断も、安心もしちゃいけない。絶対に注意を怠ってはだめ。お兄さんに続いて、もし、お前にまで何かあったら」

「分かった、分かったから。……一応、気にかけておきます」


 絵里さんの静かな、けれど畳みかけるような口調に気圧されて、渋々頷く。……おれの身を案じての言葉だとは分かっているけれど、どうしても、絵里さんの抱いているような切迫した危機感は沸いてこない。

 だって、ただの夢なんだよ、これは。

 いや……()()()()ではない。確かに、妙な夢ではあった。だけど、所詮は夢でしかないはずだ。この夢をきっかけに、何か取り返しのつかない異変が起こるだって? いくらなんでも、それは飛躍している。心配のし過ぎだ。

――考えながら、にわかに、背中が寒くなってくるように感じた。


 本当に、考えすぎだろうか。


 拭いきれない違和感、胸の底に巣くう()()()()()――今朝から、ずっとだ。打ち消そうとしても、何か、引っかかるものがあって、それが無性に不安を駆り立てる。

 はあ。小さくため息をついて、軽く頭を振る。ばからしい。

 もう一度、自分に言い聞かせる。――考えても、どうせ分かりやしないんだ。いつまでもうだうだ悩みすぎるのは、悪い癖だ。


「絵里さんの方は、この二か月、どう過ごしてたの。何か進展あった?」


 くだらない考えは頭の隅に押しやって、話題を変えようと言葉を探す。車内の沈黙に、どことなく居心地の悪さを覚えたこともあった。「んー、そうねえ」絵里さんは打って変わって暢気な声を上げたかと思うと、他愛ない世間話でもするかのようにさらりと切り出した。


「あの子たちの担任だったという女性に会ってきたよ」


 まるで何でもない事とばかり。あまりに素っ気ないその調子に、おれも少し、反応が遅れてしまう。


「そ、それでっ……どうだっ、た……」


 言いかけた言葉が途中で萎む。平静を装っているが、絵里さんの表情は暗かった。先の言葉を言ったきり、何かを続ける様子もない。その静寂、落とした視線で、「調査」の結果が芳しくなかったことを知る。「そっか」一言、自分の喉からこぼれた声も、同じように沈み切っていることに気づく。


「まあ、お察しの通りだよ。こう言っちゃなんだけど、無駄足だったかもね」

「具体的には、何を話したの」

「たいしたことは何も。忙しいとかで、最初は全く取り合ってくれなくてね。あの子の事を話したら、ようやく会うことを承諾してくれた。だけど忙しいのは本当らしくて、なかなか捕まらなかったんだ。……六年ぶりに居場所を突き止めて、連絡を取ったのがひと月前。会えたのはつい三日前だよ。まあ、結局、ろくに話しちゃあくれなかったけど」


 というか、ほとんど何も知らなかった。――慣れた手つきでハンドルを捌きながら、ため息交じりに呟く。絵里さんの声は静かで、調子も穏やかだったが、言葉の端に隠し切れない失意の念がにじんでいた。

 絵里さんはなおも、淡々と言葉を紡いでいく。


「いなくなった子どもたちはね。多くが、先生のクラスの生徒だった。彼女が知っていたのは、その子たちが、事件のしばらく前から無断欠席や外泊を繰り返していた事。そして、学外の人間と一緒に、事件のあった場所に出入りしていたらしい、という事くらいだよ」

「……原因については?」

「相変わらず不明のまま、だとさ。まったく嫌になるね」


 ひとしきり言い終えると、絵里さんは黙ってしまった。再び、重苦しい気配が空間を満たす。

 絵里さんの悔しさは痛いほどによく分かる。やっと……やっと新しい手がかりを掴んだと思ったのに。また、何も分からなかった。またふりだしに戻ってしまった。もうこれ以上、おれたちにできる事なんてないんじゃないか……。

 互いにかける言葉を見失ったまま、しばらくの間、黙って車を走らせる。無言の車内にエンジンの駆動音だけがこだましていた。


「姉さんも」


 今回も、沈黙を破ったのはおれの方だった。いいかげん、その重苦しさに耐えられなくなって、過去に何度も繰り返した問いを重ねる。


「姉さんも、その、妙な連中と付き合ってたの?」

「そう聞いてる。お前の所も同じだったのよね、確か」

「うん」


 今度はおれの方が、ため息交じりに言う番だった。


「同じだよ。おれの兄も、同じように妙な行動が増えて――」

「そして、消えた。私の姪が倒れたのと同じ日に、同じ場所で」


 十二月の、寒い雪の夜だった。「集団失踪事件」――兄さんや姉さん、その他多くの人間が、その日、突如として姿を消した。事件のあった夜、彼らが何をしていて、いったい何に巻きこまれたのか……六年もの時間が経った今でも、事件の事はほとんど何も分かっていない。


「くそ……っ」


 吐き捨てるように、ただ一言。何かに当たり散らしたい気分だが、狭い車内ではどうしようもない。苛立たしさをぶつける当てもなく、力ない所作で髪をかきむしる。その始終を横目に見ていたらしく、絵里さんが口を挟む。


「本当に、今日は随分と虫の居所が悪いんだね。何があったの?」


 不機嫌な理由。訊かれて、また、例の夢のことが脳裏をよぎる。……違う。あれはただの夢だ。おかしな夢のせいでよく眠れず、体調が優れない。それだけだ。だいたい、説明と言ったって、なんと言えばいいのだ? あんなの、おれだって他人事なら信じやしない。


「……一度、跡をつけてみたことがあるんだ」


 結局、夢のことには触れず、おれは別の話題を口にした。脈絡のない切り出し方に絵里さんは少し戸惑った様子を見せたが、今度も追及はせず、先を促した。


「えっと、つけた……って、お兄さんのことを? それは初耳だけど、どうして今まで、」

「覚えてないから」


 黙っていたの? 絵里さんが言い終わる前に、おれは続けた。隠していたわけじゃない、話しても仕方がないから黙っていたのだ、と。


「兄貴のことを追いかけようと思って、家を出たところまでは覚えてるんだ。でも、道を一本も渡らないうちに記憶が途切れて……次に気がついた時には、家のベッドに寝かされてた」


 目が覚めた時の、兄の顔をよく覚えている。心配そうにおれの顔を覗きこんでいた。しきりに具合を確認し、なんともないと答えると、少しだけ安堵の表情を浮かべる。そうして数時間後には、ひょっこりと顔を出して、また調子はどうかと尋ねるのだ。

 そういえば、それが続いた数日の間だけは、勝手な行動もなりを潜めていたな――。ふと、過ぎ去った日々が蘇り、つかの間、懐かしさに満たされる。結局、兄たちは再びこそこそと動き回るようになり、挙げ句、最後にはどこかに姿を消してしまったわけだが。


「その時、何があったのかは分からない。けど……もし、おれがその時の事を覚えてさえいれば……」

「……今とは、何か違っていたのかもしれない?」


 やるせない気持ちでいっぱいになって、尻切れになってしまったおれの言葉を、絵里さんが引き継ぐ。おれは黙って頷いた。自然と重いため息がこぼれる。


「過ぎたことをとやかく言っても仕方ない。……さ、着いたよ」


 車窓から見える空は、相変わらずの晴天だった。夏の日差しが容赦なく降り注ぐ。最後に大きく旋回すると、車は広い建物の敷地へと滑りこんだ。

 車を降りたとたん、殺人的な暑さが襲いかかってくる。にわかに額ににじむ汗を甲で拭い、光に眩む目を瞬かせる。視界の正面に大きく映る建物は、街はずれにある総合病院――六年前のあの日から、姉さんは今も、この場所で眠り続けている。

 正面のホールで受付を手早く済ませ、薄暗い廊下をいくつも抜けて――街を見下ろせる最上階の一室におれたちは向かった。病院に到着した時には、思わず歩みが速くなっていたのに、目的の部屋に近づくにつれて足取りは重くなっていった。


「ほら、男ならシャキッとせんかい。あの子に笑われるよ」


 そんなおれの背中を、絵里さんが勢いよく叩く。「……分かってるよ」叩かれたおれの方はというと、丸くなった背中を少しだけ伸ばしてみるものの、相変わらず次の一歩がなかなか出ない。

 分かっている。自分でも情けないと思ってはいるが、やはり心に重くのしかかる暗い思いは、自分ではどうにもできなかった。

 六年前、あの場で「唯一の生き残り」だった姉さんは、瀕死の重傷を負った上、無神経な人々の好奇の眼差しに晒され続けた。……あの頃は病院にも学校にも、果ては姉さんの自宅にまで、連日のように大勢の人間が押しかけてきていた。しかし姉さんは昏睡状態で、他に事件現場から帰った人もいない。警察による捜査や捜索もはかどらず、真相は分からずじまい、いつしか事件は世間から忘れ去られていった。

 そうして事態が鎮静化した後も、姉さんは目を覚まさなかった。自身をとりまく一切を拒むかのように……彼女はもう六年もずっと、自分だけの世界に閉じこもったままでいる。

 姉さんの代わりに、少しでも真実を。そう願いながら、肝心なことは何も分からないまま、ただ時間だけが過ぎ去っていった。自分の無力さに腹が立ち、同時に、何の報告もできず姉さんに会うのが惨めにさえ思え、いつしかこの場所からも足が遠のいていった。今では姉さんと顔を合わせるのも年に数回程度、それも絵里さんと一緒の時だけだ。目をそらすように「調査」に没頭し、その成果に独り、ふさぎこむ――そんな事を繰り返しては、余計に自分を嫌悪する日々。まったく、我ながら呆れてしまう。


「入るよ」


 うつうつとした思考を続ける間に、ようやく部屋まで辿り着く。絵里さんが軽くノックをするが、返事はない。彼女は気にせず扉を開く。窓際に置かれた、たった一つのベッドには、静かに眠り続ける女性の姿があった。

 おれはそっと、その傍に歩み寄る。せっかく用意した花束は、知らず、強く握りしめたせいで少し萎れてしまっていた。絵里さんがそれを受け取り、そっと窓際に手向けた。


「誕生日おめでとう、遥姉さん」


 八月十三日。強い夏の日差しが降り注ぐ、灼熱、快晴、炎天下。

 主役不在のまま迎える、六度目の誕生日。

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