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鱗の騎士  作者: 市田智樹
序章
1/13

Moon Light Flight

 夏も盛りだというのに、この夜はひどく寒かった。火照った体から吐き出された空気は熱を帯びて、それがつかの間、夜の廊下に白くたなびいて消えていく。

 少女は、薄闇の中、長い廊下をおぼつかない足取りで走っていた。周囲はしんと静まりかえっていて、荒い息遣いと、冷たい石床を踏むぺたぺたという足音とが、いやに大きく響いた。

 照明は全て壊されてしまっていたから、明かりといえば、あつい雲の隙間から覗く月の光だけだった。淡い月明かりに照らされると、少女の髪が銀色に光った。少女の髪は美しい銀色をしていて、腰まで届くほど長かった。

 宴の後の大広間にも廊下にも、少女の他には誰もいなかった。この日のために集められた賓客や使用人、警備の兵たちは皆、逃げ帰るか、そうでなければ死んでいた。片づける人もいなかったので、部屋の中には、床に落ちて割れたグラスや大皿、踏み荒らされた食べ物がそのままにされていた。廊下も同じように荒れ果てていて、足許にはシャンデリアの破片が散らばっていたし、白かった壁は、血とこぼれた酒にすっかり汚れてしまっていた。椅子やテーブルが、壊れた扉の隙間から飛び出しているところもあった。――そんな様子が、長い廊下の端までずっと続いていた。

 疲労のせいか、はたまた悲しみを堪えているからか。少女の表情は険しかった。まだあどけなさの残る顔には、真新しい傷がいくつも刻まれていた。身にまとったドレスもあちこちが破れ、血と汗がにじんでひどい有様だった。けれども、少女は立ち止まらなかった。立ち止まってしまえば、もう二度と走り出せなくなる気がした。

 最上階へと続く螺旋階段を、休むことなく駆け上がる。一際大きな金属製の扉の前まで来て、ようやく少女は立ち止まった。

 扉に寄りかかり、膝に手をついて、今にも崩れ落ちそうになる体を辛うじて支える。どうにか呼吸を整えると、今度は両手で扉に触れ――少女はそっと唇を動かして、小さく何かを呟いた。指先から扉へ、微かな振動と、光の波が広がっていく。扉は鈍色の光を放ち、つかの間、ぼんやりと辺りを照らし出した。光はすぐに消えてしまったが、少女が指を滑らせると、先ほどはなかったはずの窪みが指先に触れた。

 ようやく、張りつめていた少女の気配が緩んだ。額の汗を拭って、息をつく。少女は首許を探り、金色の鎖を手繰り寄せた。鎖の先には、真鍮の鍵が繋いであった。

 少女は耳を澄ませ、注意深く辺りの様子を窺った。そして誰もいないことを確認すると、体重をかけて扉を押し開け――重い扉がごうごうと軋んだ――辛うじて一人が通れるほどの隙間が生じるや、すばやく内側に滑りこんだ。

 扉は背後でひとりでに閉じた。ひんやりとした空気が少女を包む。闇の中、少女が一歩踏み出すと、音もなく部屋の端で火が灯った。ろうそくの火だ。両の壁に等間隔に並んでいるらしく、縦に長い部屋の奥まで続いている。それら全てに頼りなげな火が揺らめくのを待って、少女は、ゆっくりと奥に向かって歩き始めた。

 部屋には窓がなかった。ろうそくの放つ弱い光が、部屋の輪郭をおぼろげに照らし出していた。それほど大きな部屋ではなかったが、家具や調度品の類はなく、がらんとして寂しい場所だった。

 そんな部屋の奥に、たった一つ、ぽつんと祭壇が据えられてあった。祭壇といっても、それは単なる石造りの台座で、彫刻や飾りは一切施されていなかった。高さも、せいぜい少女の腰ほどまでしかなかった。それが祭壇と思われたのは、台座の上に奇妙な球体が鎮座していたためだった。――宝珠、とでも形容した方がいいかもしれない。ちょうど手のひらに収まる程度だろうか、小さな珠は、内側から奇妙な光を放っていた。青や赤、淡い紫に深緑と、絶えず色を変え、時折、不規則に明滅する。神秘的だが、見つめていると背筋が寒くなるような、そんな不気味な雰囲気をまとってもいた。少女は臆する素振りも見せず珠を手に取った。そうして、丁寧な動作で珠の表面を拭い、そっと懐にしまいこむと、逃げるようにして部屋を出ていった。

 身の竦むような螺旋階段を駆け降り、暗い、長い廊下を再び走り抜けて、少女は城の反対側を目指した。こちらの塔は屋外へと続いている。息を切らせて、ようやく鉄の扉を抜けた時、冷たい風が吹きつけて少女の肌を刺した。

 風に乗って、煙の臭いが少女の鼻をついた。――街が焼かれたのだ。少女は石床の端まで歩くと、胸壁から顔を覗かせて、はるか下の大地を眺めやった。

 耳をつんざく悲鳴、炎に包まれて狂い踊る影――眼下に広がる世界は、恐ろしい戦場と化していた。血と、炎と、叫びの世界。……城の中の静寂が嘘のようだった。見る間に、みたび、炎が上がった。たまらず後じさり、目をそらす。その耳に、一際大きな爆音と、人々の悲鳴が届く。それらは反射的に、目の前で死んでいった人々の吐き気を催すような末期を蘇らせた。一瞬の後、少女はその場に身を折って嘔吐した。

 吐き気が治まった後も、しばらくの間、崩れた膝を立たせることができなかった。歯を食いしばって、こみ上げる嗚咽を堪えたが、涙が溢れてくるのは留めようもなかった。けれど、泣き崩れてしまえば、走り続ける気力までが流れて消えてしまう。壁に手をかけてどうにか立ち上がると、少女は縋るような思いで、首元に提げられた鍵を握りこんだ。硬く目を閉じ、祈るように両手を合わせて、胸に押し当てる。肩を震わせて、深呼吸を繰り返した。



 パチ、パチ、パチ。

 不意に、乾いた音が少女の背後で鳴った。彼女の祈りを妨げたそれが「拍手」だと、少女が気づいて振り返るのと、炸裂音が鳴り響くのは、ほとんど同時のことだった。光の矢が少女の左腿を掠める。少女は焼けるような痛みに小さく声をあげ、傷口を押さえてその場に倒れた。その拍子に、奇妙な珠が懐からこぼれて、石床を滑った。

 いつからそこにいたのか――痛みを堪えて見上げた先には、燃えるような赤い髪をした大柄な男が、勝ち誇った笑みを浮かべて立っていた。まだ若い男だった。それなりに整った顔立ちを、大きく歪んだ口許が台無しにしている。少女と目が合うと、男は愉快そうに声を上げて嗤った。

 狂ったように嗤いながら、男はゆっくりと少女に近づいた。身の丈ほどもある鉄の槍を背負っていたが、たった今、少女を傷つけたのはその槍ではなかった。男は右の手を少女に向けて突き出していた。男が何か呟く。――その手のそばの空中で炎が燃え上がり、渦巻いた。炎は矢となって、少女の左足の傷口を焼いた。少女の悲鳴が暗い空に広がる。

 痛みに悶える少女の髪をわしづかみにして、男はその喉許にそっと手をあてがった。顔いっぱいに愉悦を浮かべながら、這わせた指で、少女の顎をゆっくりと撫ぜる。男の指が少女の白い肌に触れる度に、少女は怯えた様子で肩をびくつかせ、その度に男はなお一層興奮した様子で凄惨な笑みを浮かべた。

 やがて少女を怯えさせるのに満足すると、男は口許のいやらしい笑みを消して、冷たい目で少女を見下ろした。赤い目の奥に、憎悪の渦巻いている様が見て取れる、そんな眼差しだった。男の唇がゆっくりと開かれる。――死の呪文を唱えようとしているのだ。男は、喉に当てた手を滑らせ、少女の眼前に大きく広げた。その手が少し力んで、震えた。痛みと恐怖のために、見開かれた少女の目からは涙が止め処なく溢れ、息は浅く、痙攣したように激しく肩を揺らしていた。男の手はいよいよ熱を帯び始めている。少女はぎゅっと身を硬くして、目を閉じた。


 こぼれた涙のひとしずくが、胸に提げた鍵に触れた時だった。突如、目も眩む鋭い光が迸り、男は叫び声を上げて目を覆った。男はよろめきながら後退し、少女はその場に崩れ落ちた。ほどなくして周囲の異変に気づいた少女が、恐る恐る、目を開ける。視線の先では、男が両手で目を押さえて苦悶していた。

 少女は戸惑ったが、はっと我に返ると、男の足許に転がる珠を拾い上げた。鍵を宙にかざし、素早く鍵を開ける仕草をする。すると、少女の正面の空間が裂け、大きな空洞が姿を現した。男が興奮した様子で何事かわめき、炎の矢が闇雲に放たれる。その一つが少女の脇腹を焼いた。少女はよろめき、体勢を崩して、そのまま暗い「(あな)」の中へと消えていった。少女を飲みこむと、孔は瞬く間に塞がり始め、すぐに跡形もなく消え去った。


 しばらくして男の視界が回復した時にはもう、そこに少女の姿はなかった。男はしばらくの間、じっとうつむいて身を震わせていたが、背中の槍を振り上げたかと思うと、階下へと続く扉に叩きつけた。鉄製の扉はいとも容易くたわみ、辺りに破片が飛び散った。破片で体が傷つくのも構わず、何度も、何度も……男は槍を振り下ろし、扉に叩きつけた。

 扉が無数の鉄屑になった頃、男はようやく手を止めた。肩で息をしながら、男は空を見上げて少女を呪った。

「絶対に殺す。……お前は、俺が、絶対に殺してやる! 地の果てまでも、世界の果てまでも追いかけて、必ず捉え、八つ裂きにしてやるぞ! 覚えていろ、クレアアアッ!」






――全身を覆う疲労感が未だ癒えない。身体はどこか気だるいし、吐き気もする。

目覚めは、最悪だった。



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