ヴァンパイア・スレイヤー
古刹の鐘の音が侘びしく響き、私の意識を無心の境地から引き戻した。悟りまであと一歩だったというのに。私は腕に目をやって時刻を確認した。半透明のプラスチック製の文字盤には見慣れない文字列『壱拾弐』――恐らく漢字とかいう中国の文字――が浮かんでいる。皮膚の筋電場を動力にする生体腕時計は、横浜市で仕事をした際にもらった記念品だった。
日本に移住した姉の息子、つまり甥にあたる子から相談を受けたのは私が来日する直前だった。甥は学校で流行っているオンラインゲームで嫌がらせを受けているという。子供同士の他愛もない冗談なら見過ごせるが、どうやら問題はそこまで単純でもないらしい。仕事を終えて職場に帰るまで時間もあったので、私は日本にいる間に甥の相談に乗ることにしたのだった。
神仏混淆の結果、本堂の傍らに稲荷を祀った仏閣の境内。苔むした小さな石造りの鳥居の下で、私は観光客や参拝者に混じって甥が現れるのを待っていた。あまりにも暇だったので社にタブレット端末のカメラを向けたところ、位置情報に基づいて画面に英語翻訳された注釈や「喜捨」を求める広告が現れ始めた。折角の雰囲気が台無しだ。私は嘆息してカメラを閉じた。
「叔母ちゃん? 久しぶり」
流暢な英語が聞こえた方向を振り返ると、しばらく見ないうちに成長した甥の姿があった。見たところ、年頃なのに身体はオーグメントをインプラントしていないようだ。自然体を保っているのは姉の教育によるものだろう。最近では誰も彼も遺伝子から臓器まで弄くり回して、取り返しのつかない結果を招くことが多かった。姉も育児に関しては比較的、賢明だと言えた。
「お母さんから聞いたよ。仕事だったのに、無理言ってごめんなさい。わざわざ来てくれてありがとう」
「気にしないで。ちょっと日本を観光していきたいと思ってたし」
私は甥に手を引かれて東京の下町に繰り出した。観光地以外の建物は、どこもかしこも均一なブロックを組み合わせただけの、良く言えば調和のとれた、悪く言えば無機質な町並みが続いている。歴史的遺産として古びた町並みを保存している国々とは対照的だ。地震大国の日本が町並みにまで注意を払っている余裕はなく、建物一棟だけでも遺しておくのが精一杯ということなのかも知れない。
車幅の広い国道に出ると無人タクシーに混じって、筋骨たくましい人力車夫が小洒落た人力車に客を乗せているのが見えた。
「そういえば横浜の中華街にも人力車があったけど、乗ってなかったな」
「それじゃ乗ろうよ」
私と甥はすぐ人力車に乗り込んだ。人力車夫はアスリート・ボディの民生アンドロイドで、真の意味で疲れ知らずだった。人力車に揺られながら、「レトロな風情」とやらが残る門前仲町の観光スポットを回る。途中、伊能忠敬住宅跡という石碑を通り過ぎたが、やはり当時の建物は残っていない。伊能忠敬が何者なのかは知らないが、「ご維新」前の将軍とか忍者の頭領とか。そんなところだろう。
人力車は浅草や中華街などの限られた観光地にしかいなかったのに、アンドロイドが普及してから他の観光地にも現れ始めた、新規の風習なのだと甥は説明した。人力で観光スポットを回る乗り物と言うと、ニューヨークの自転車タクシーがあったが、そちらは市の管理が徹底されたせいで全滅してしまった。人力車のような方法で伝統を残すのが日本らしさなのかも知れない。
一通り観光スポットを巡っているうちに昼時になったので、純和風の定食屋に入る。この定食屋の深川めしは純日本産の養殖貝をじっくり炊き込んでいると絶賛されていた。深川めしには煮汁を米にかけた汁かけバージョンもあるらしいが、汁気があると食べにくいので私はこちらのほうが好きだ。
「それで相談なんだけど……」
深川めしをつつきながら、甥が切り出した。
「えっと、何のゲームだっけ?」
「SBB、Stranger Become Brave、邦題は『なろうオンライン』ってゲーム。自分自身でVR空間にログインするか、自分の代わりに好みのAIにVR空間を冒険させられるMMORPGなんだよ」
MMOとは多人数オンラインゲームということか。古き良き時代から末永く遊ばれてきた伝統的ゲームの一種。でも邦題はもう少し考え直したほうが良さそうだ。語感がダサい。
「それで、ゲームで何があったの?」
「最近、変なヤツにPKされるんだよね。本っ当にイラつく」
甥は香物を噛み締めながら言った。PKあるいはPKというのは、プレイヤーが他のプレイヤーを殺すこと、あるいはそうした行為ばかり行うプレイヤーのことだ。ゲームの中で他人と協力しようという博愛主義に染まったプレイヤーもいれば、他人を殺そうとする野蛮なプレイヤーもいる。人間の行動原理はVR空間でも現実とそう変わらない。
「それってゲーム内のルールに従ってやってるだけじゃなくて?」
「最初はそうだと思ったんだ。だけど、ずっと付きまとわれてるっていうか……同じヤツに何度も狙われるんだよ。PKしたら懸賞金がついて、他のプレイヤーにも賞金首として狙われるのに。学校の誰かが僕を狙って嫌がらせしてると思うんだよね」
甥はタブレット端末を取り出して、ゲームのクライアントを呼び出した。甥の『冒険者』を操っているペルソナのアイコンが画面に表示される。甥がアイコンをタッチすると、薄暗い洞窟を探索中の『冒険者』が中央に現れた。頭に生々しい魚の被り物をして、西洋甲冑を装備している甥の『冒険者』を見て、私は思わず吹き出した。
「何これ」
「え? カワイイでしょ」
「いや、顔見えないじゃん。というか前も見えないでしょ、これ」
「イベントで限定配布された兜。超レアなんだ。因みにカンパチって魚ね、これ」
どこからどう見ても兜ではない。どちらかと言うとラブクラフトの小作品に出てきそうな風貌だ。頭を狙われたらどうなるんだろう。私の疑問を察知したのか、洞窟に巣食う小鬼が魚頭の『冒険者』の前に立ち塞がった。よし行け、小鬼。
「小鬼単体だと弱いんだけど、統率された群れだと意外に強いんだよね。しかも女子供とか、弱いって分かった相手を狙って襲うんだよ。要するに卑怯なんだ。だから、ギルドに討伐依頼が来たら、いつも優先的に倒すようにしてる」
「へえ」
小鬼の習性に興味はない。それよりも早く魚頭を剥がして見せてほしい。しかし、ゴツい見た目とは裏腹に、魚頭は慎重で経験豊富な冒険者のようだった。罠が仕掛けられていないか丹念に洞窟を調べている。そして罠を発見すると、逆にそれを利用して小鬼を倒していく。抜け目のない魚頭は熟練冒険者の雰囲気を醸し出していた。
「この画面ってライブ配信してる?」
「ううん。この洞窟を探索してるって知ってるのは周囲のプレイヤーだけだよ」
その時、洞窟の奥から黒い霧が吹き出し始めた。魚頭の周囲にも霧が立ち込める。何やら危険な予感がする。
「あいつだ」
「あいつ?」
「PK」
直後、洞窟の奥から大量のコウモリの群れが飛び出してきた。端末の画面が黒い翼に埋め尽くされる。
「ここはヤバい。撤退させないと」
急いで深川めしを完食すると、甥は妖精のアイコンをタッチした。魚頭の下に妖精が飛んでいき、ご主人様からの指令を伝達してくれるらしい。だが、妖精はコウモリの群れに飛行を阻まれ、困惑したように空中に浮かんでいる。
甥には悪いが、私は面白半分で画面を見ていた。折角だからPKも見ておきたい。やがてコウモリの群れの中から、雪を欺く白い肌に漆黒のドレスを纏った女が徐に歩み出てきた。妖艶な肢体からは、しかし生気が感じられず、その美貌は凍てつくような笑みに覆われている。
いわゆる不死という種族だろうか。見るからに魚頭より強そうだ。
『会いたかった……。何度でもね……』
そう言って不死の女が魚頭に向けて腕を伸ばした。魚頭は瞬時に後方へと跳躍し、女の腕から放たれた黒球を回避する。
「もう、最悪なんだけど」
甥は不貞腐れたように呟いたが、魚頭は怖めず臆せずといった様子で、使い込まれて血に塗れた棍棒と小型円盾を油断なく構えた。だが、一瞬の隙をついて安全を確保している退路に向けて煙玉を投げて煙幕を張ると、魚頭は敵に一撃も浴びせることなく一目散に逃走を始めた。
「なんだ。逃げちゃうのかぁ」
私にとっては残念だが、その行動は当初の甥の目論見通りだと言えた。狭い洞窟で戦うのに適した装備とは言え、相手は得体の知れない魔術を使い、コウモリを操る不死なのだ。ここは一旦、洞窟の外に出て体勢を整えるべきだろう。
洞窟の外に出ると、待っていたとばかりに魔犬の群れが魚頭に牙を剥いた。先回りされていたようだ。それでも魚頭は洞窟に引き返すと、入り口付近の細道を利用して、一匹ずつ誘き寄せた魔犬を念入りに撲殺していく。ふと思ったのだが、物凄く嫌な戦い方をしているのはこいつのほうなのでは……?
魚頭が魔犬を残らず片付けようとした時、背後から巨大な氷柱の雨が降り注いだ。間一髪、魚頭は氷柱の致命打を避けたが、残っていた魔犬が足に食らいついた。魔犬との連携で最初からその隙を狙っていたのか、洞窟の奥から黒球が再び魚頭を襲う。背中に黒球を浴びた魚頭は体勢を大きく崩し、前のめりに倒れそうになる。
棍棒を突いて体勢を持ち直そうとしたが、魔犬は執拗に食らいついてくる。魚頭はなんとか魔犬を殴り倒し、身を屈めて洞窟の外へと転がり出た。しかし、外では先程の不死が待ち構えていた。万事休すか。
不死は影を揺らめかせながら魚頭に近づき、その首筋に牙を立てた。魚のエラがビチビチと痙攣し、そしてやがて魚の目は白濁してしまった。
残念ながら魚頭は死んでしまったようだ。最後まで魚頭の兜は脱げなかった。死体の上に妖精を待機させて他のプレイヤーが救援に来るのを待つか、デスペナルティとしてゲーム内通貨を支払って近隣の町で復活するか選択する画面が現れたところで、甥は大きく溜息をついた。
「何なんだよ……こいつ。邪魔ばっか」
「PKもペルソナの自動操作なんじゃない? 対象の『冒険者』が現れたら追って、ピンチになったら襲ってくるみたいな。ペルソナの思考パターンが分かれば、出てくる前に逃げられるんじゃないかな」
「逃げるなんてできないよ。返り討ちにできないかな」
「……うーん、どうすればいいのか見当もつかないんだけど」
私は困ってしまった。ゲーム内でやられたことなのだから、ゲーム内で解決するのは正しいと思う。しかし、私はこのゲームのシステムに通じているわけではない。どうすればPKを倒せるかなんて分かるはずもない。
「ゲーム内の種族には属性とか特徴があって、それが利点にも弱点にもなるようにできてるの。水棲生物は火に弱いとか。でも、大半の情報は公式には公開されてなくて、プレイヤーが自分で探るようにできてる。弱点さえ探り当てれば、強い相手でもどうにかできるはずなんだよ」
つまり、前もって不死によく効く魔法やアイテムを用意しておき、首尾よく戦いに臨めば倒せる可能性があるというわけだ。古今東西、不死に効くアイテムなんてものは聖水と相場が決まっている。聖水を浴びせかければ不死は忽ち肉体が溶けて崩れ落ちるのだ。
私たちは早速、魚頭を復活させると村の教会に赴いて聖水を準備させた。ついでに、ただの水をその場で聖別して聖水を生産できるスキルを持った女神官(甥の学友)も部隊に加えておく。これで準備は万全だ。どこからでもかかってこい。
ゲーム内時間で一日後、つまり夜が訪れると不死PKは再び魚頭の前に現れた。登場直後で悪いが、間髪入れずに聖水を浴びせる。勝った。第三部完。
『馬鹿ね……。そんな薄めた泥水のようなものが効くわけないでしょう……』
まるで効いていない。しかも煽られている。ふざけるな。不死は大人しく聖水で滅せよ。しかし私の願いも虚しく、魚頭は再び地獄の門に突き落とされてしまった。ゲームは現実よりも厳しい。だが、このままでは終われない。なんとしてもPKをPKKせねば職場に帰れない。私は躍起になって不死の弱点を調べ始めた。
聖印。駄目。
銀製の武器。駄目。
教会の敷地内に立て籠もり。駄目
何度トライしても魚頭はPKされてしまう。ここまで来るとPKのほうも相当な執念と言わざるを得ない。しかし、度重なる敗北もただの失敗ではなかった。敵の攻撃の特徴から、私はPKの種族が「吸血鬼」であると見抜いたのだった。甥にとっては馴染みの薄いこの怪物も、ボストンでは今も存在が信じられている有名な不死だった。
ここまでくれば話は早い。ひたすら吸血鬼の弱点を試してみれば良い。村の畑仕事によってニンニクをかき集めた時には、ついに甥に止めたほうがいいと泣きつかれた。それでも魚頭はニンニクを数珠繋ぎにした襷を装備して勇敢にも夜の森へと向かっていった。
『これだけ何度も会っているのに……貴方は私の名前すら呼んでくれない……どうしてなの……?』
ニンニクを投げつけられた不死は虚ろな目を向けた。全く効いていない。
『私はカミラ……貴方の下僕……』
「カミラ……?」
甥は不死の名前を口に出してから、あっと閃いたような表情を見せた。
「カミラって?」
「前に使ってた『冒険者』なんだけど、呪いを受けちゃってから放置してたんだった……」
つまり、放置された『冒険者』がご主人様を追ってきたということか。しかもプレイヤーの意図とは離れて、ペルソナによる自動操作のまま。話している間にも、魚頭はまたも不死カミラの強烈な闇魔法によって即座に昇天させられてしまった。やはりニンニクでも駄目だったようだ。
それに魚頭のペルソナにも敗れる原因があった。魚頭はひたすら小鬼を討伐してきた結果、あらゆる行動が小鬼殺しとして最適化してしまっている。他の敵に対して汎用性が無い、過学習と言える状態だった。しかし、魚頭を再学習させたり、他にペルソナを準備したりする余裕はない。こうなればプレイヤー本人がVR空間にログインして戦うしかなかった。
「まだ吸血鬼を倒す方法はあるんだよね……?」
自宅のVRデバイスでゲームにログインした甥が不安気に尋ねた。まだ手段は残されている。しかし、それは本当に最後の手段だった。敵の攻撃を掻い潜って接近戦に持ち込む必要があるため、大きな危険を伴う。
人気の無い地下墓地に籠もっていると、夜が近づいてきた。松明の灯りが霧に包まれて消えると、不死が姿を現した。
『貴方なのね……やっと会いに来てくれた……』
不死はまるで切り裂かれたように口を半月状に広げ、不気味な笑顔を湛えている。
「今日こそ終わりにしてやる!」
『フフフ……いいえ、私たちは永遠に結ばれるのよ……』
不死の言葉を無視して、魚頭となった甥が不死に向けて猛進する。今まで慎重一辺倒だった魚頭からは考えられない行動に、不死は不意を突かれたようだった。忽ち距離が縮む。しかし、不死はコウモリに姿を変えると、墓地の闇の中へと飛び去った。すんでのところで魚頭の剣戟が空を切る。
「くそっ!」
『貴方は私から逃れられないの……』
不死の足元に魔犬の群れが湧き出す。魚頭がいくら高性能な装備を手にしているとは言え、数で押されると勝ち目は無かった。唸り声を上げながら魔犬が魚頭に向かって走り出す。
その時、地中から吸盤の並んだ触手が幾本も現れ、魔犬の足を捕らえた。魔犬の群れは触手に絡め取られ、空中で虚しく足をばたつかせている。
「いあいあ! ふんぐる! ふんぐるー!」
急遽、用意したアカウントで直前に作成しておいた新米『冒険者』、私こと異端の呪術師が放った束縛魔法だった。私は魚頭よりもさらに実物に近い魚状の頭を左右に揺らしながら、邪神に捧げる詠唱を続ける。このチャンスを逃すまいと、魚頭は不死へと迫った。
「でやぁーーー!」
甥の叫びの後、鈍い金属音が辺りに響いた。振り下ろされた剣は身を翻した不死を掠っただけで、その背後にあった墓石を砕いた。
「しまっ――」
禍々しい闇の力を纏った不死の掌底が、魚頭の身体を跳ね飛ばした。後方へと投げ出され、石壁にぶつかると甥は低く呻いた。
「ぐっ……」
『言ったでしょう……貴方は私から逃れられない……』
不死がぞっとするような笑みを浮かべ、甥を見下ろして言った。私は詠唱に集中しているせいで一歩も動けない。このままではまずい。
いつの間にか魚頭が外れて、素顔が露わになっている。その顔は、不死と瓜二つのものだった。甥は同じ外見の『冒険者』を作り直していたようだ。それにしても魚頭が女性キャラとは、どういう趣味なのか。
「逃げたことなんて、ない。本当は忘れてなんかいなかった……」
『嘘』
不死が甥の首筋を掴んで呟いた。
『貴方にも私の呪いを分けてあげる……そうすれば、ずっと一緒……貴方は私のことだけを考えてくれるようになるから……』
氷のように冷たく、しかし豊かで柔らかな不死の腕が魚頭の身体を包む。
吸血攻撃が来る――
その刹那、甥は隠し持っていた杭を不死の心臓めがけて突き立てた。杭は吸い込まれるように不死の胸の中へと突き刺さった。
『いやあああああぁぁぁぁぁ!!』
不死は絶叫し、魚頭を突き倒した。不死は蹌踉めき、魚頭から二、三歩離れると、胸元から杭を生やしたまま仰向けに倒れた。不死が倒れると地下墓地に立ち込めていた霧が晴れ、魔犬も塵となって消えた。
「やった……のか……?」
甥は剣を地面に突いてなんとか立ち上がると、倒れた不死に近寄った。
「……カミラ?」
『よう、やく……呼んで、くれた……』
途切れ途切れのか細い声だったが、それは確かに喜びの言葉だった。
『貴方に……私の、ことを……思い、出させる……ために……こんなこと……』
「待って!」
『許、し……』
そこまで言うと、不死は灰燼に帰した。
墓地に吹き込む隙間風が塵を撫で、どこかへと運んだ。私たちの画面の隅には、『ヴァンパイア・スレイヤーの実績を解除しました』という小さなメッセージが、夜が明けるまで表示されていた。