013 よくわかりませんが、妻になることになりました <オルガ>
レイモンから、
「妻になってほしい」
と、言われた瞬間、オルガは、何かが身体中をゾワリと這うような気配を感じた。
オルガが15・・・もう数日で、やっと成人を迎える年齢で、まだまだ子供と同じ様だとしても、妻という者が何をするかという事は、知っていた。
夫となる者に、肉体を許すのだ。
それは、外へ追い出されるよりは、ずっとマシな事だとは思えたが、骨が軋む様な、何かが粘りつくような、そんな感覚に襲われたのだった。
自分は、ここで働くメイドとして雇われたのではなかったか?
確かに、トーマ子爵家からの道中といい、着いてからの扱われ方といい、とても、メイドに対するものだとは思えなかった。
だからこそ、メイドとして雇われないのではないかという不安におそわれたのだ。
それが“妻”とは、一体どういう事なのか?
オルガは、トーマ子爵から、何と言われたのはを思い出す。
『将軍の仰る事に逆らわず、しっかりとお仕えするといい』
確か、そう言われたのだ。
(ああ、そうか)
オルガは、やっと合点がいった。
自分は、売られたのだ。
この新しい主人が、私を大切に扱ってくださったのは“商品”だからだ。
看病してくれたのは、死んでしまっては元も子もないからだ。
ああ、そうだ。
トーマ子爵が、私を無暗矢鱈に、誰かに私を譲る筈はなかったのだ。
その昔、初めて父の兄であるトーマ男爵に会った時に言われたではないか。
「オルガ。お前は、罪の子だ。行方不明になっていた弟が、蛮族の女に孕ませた子供がお前だ。それがどうだ。病気になったからと言って、今更、我が家を頼って来たのだ。二人の死体を見ただろう。腐りかけた私と同じ顔をした男と、お前と同じ赤銅色の髪をした女。あれが、お前の両親だ。私がお前を扶養してやる義務など微塵も無いのだ。しかし、忌々しい事に、お前の瞳はトーマ家に伝わる珍しい深緑色をしている。下手に孤児院に預けて、恥を流出するわけにもいかないのだ。だから、お前はここで飼う事にした。いいか。決して、この家にいる誰にも逆らうな。お前は、罪人だという事を忘れるな」
そう言っていた伯父が、私をこの新しい主人に、私を託したという事は、ここなら私を隔離できると思ったからだ。
嫌だ。
それだけは、絶対、嫌だ。
しかし、それが主人であるレイモンの命令であるというならば、オルガは、受け入れるしかない。と、諦めかけた。
オルガが硬直し、にわかにガクガクと震え出したのを、傍に座っていたアネットとフランシーヌが気づき、アネットがレイモンを叱責した。
「ちょっと。旦那様。いきなり妻になれ。なんて、そんなの無理に決まっておりますよ。何を考えてらっしゃるんですか?」
フランシーヌは、オルガの肩を抱き、背中をさすりながら「大丈夫よ。大丈夫」と繰り返す。
アネットに言われて、レイモンは「え?」という顔をした後で「あ!」と気づいたらしく、しどろもどろになりながら、
「あぁ。違うぞ。すまん。その、妻と言っても、その、何だ。【白い結婚】という奴で、あ~。その~夫婦であって、夫婦でない。というか・・・あー。なんだ。その~、とにかく、オルガの貞操が汚される事はない。保障する!」
と、慌てて付け足した。
【白い結婚】は聞いた事がある。夫婦として、同じ屋根の下で、生活は供にしても、寝室は別の結婚だ。
レイモンは、気を取り直して、話はじめた。
「相手は、私の息子のシモンだ。・・・情けない話だが、軍籍に身を置く者でありながら、女性は、保護し労わる者である。という、騎士道精神が一切ない。近頃は、トーマ子爵の御令嬢のジゼル嬢にご執心な様で」
ジゼルの名前が出た途端、それまで、得体の知れない恐怖に耐えていたオルガの身体が、ビクッと動いた。
今度は、レイモンも気が付いた様で、話を止めた。
「大丈夫か?」
と、オルガを気遣う。
首を縦に振るオルガに、レイモンは、心配気な目を向けつつ、更に続けた。
「まぁ、最近は、女遊びもしていない。息子を切り捨てるのは簡単だが、その・・・妻との間に産まれた、唯一の男子なのでね。親バカと呼ばれようが、もう一度だけ、更生する機会を与えてやりたい。
この間、トーマ子爵領へ赴いたのは、シモンを揺さぶる目的もあった。嫌いな相手が、行くべき場所へも行かず、自分の好きになった女性の元を訪ねれば、真相を確かめたくなるものだろうからね」
オルガは、レイモンの話に納得はしたが、新たな疑問が産まれた。
レイモンがトーマ子爵家を訪れたのは、シモンを揺さぶり、帰領を促す為。
でも、それならば、何故、オルガがシモンの妻に請われるのだろうか?
シモンの更生の為ならば、やはり自分などではなく、しかるべき貴族の女性を添わせるものではないか?
オルガの脳裏に、矢継ぎ早に疑問が浮かぶ。
「・・・誤解しないでほしいんだが、シモンの好きになった女性が、トーマ子爵の御令嬢であったのは、偶然で、君をずっと探していたのは本当なんだ。・・・どちらかというと、シモンの方がおまけみたいなもので・・・」
オルガを探していたとレイモンは言った。
何故、オルガを探してたのかは解らないが、大きな身体で、オルガに対し、必死で言い訳をするレイモンを、オルガは可愛いと思った。
思わず、笑みがこぼれた。
すぐに口を両手で押さえたが、レイモンの表情が、パァっと明るくなった。
ニコニコと、
「シモンが本当に、帰ってくるかどうかは、まだ解らないが、もし、帰ってきたら、ここで、あの腐った性根を入れ替えるまで、どこにも出さん気だ。その時は、どうか、シモンの仮の妻になってやってほしい」
と、続けた。
よく解らない所が、いたるところにあったが、主人からの命令が、要は、『シモン様のお世話を、妻という肩書をもってせよ』という仕事であるならば、
「はい」
と、答えるしかなかった。
レイモンは、安心した様に、息を大きく吐いた後、紅茶を一口飲む。
「明日、礼拝堂の祭司に【結婚許可証】を発行してもらうが、オルガは、字は書けるかな?」
「はい。書けます」
字を書けるかを聞かれた事で、反射的に、書ける事を伝えはしたが、その前に、レイモンの言った事が引っかかった。
結婚許可証?それは、一体、どういう事だろう???
【結婚許可証】
教会より発行される婚姻届。発行時1000万ワロー以上を寄託し、受理された時点で、夫婦による初めての慈善事業として寄託金を寄付する。
役所に提出する婚姻届と違い、原則、離婚できず、効力は、婚姻届より上とみなされ、主に貴族、又はその子女の結婚届けとして使用される。
表向きは『神の聖名の元の神聖な結婚』とされているが、成り立ちとしては『貴族である親の意に沿わない相手と、貴族の扶養者である子女が、親の許可を得ず、勝手に結婚したとしてもそれを無効化する為』とか『政略結婚の相手との離婚を防ぐ為』として利用され、今では、貴族やブルジョワジーのステイタスとしての一面の方が強いきらいがある。
寄付金の使用方法も厳しく決められており、寄付された金額は5分割され、1つは発行・受理した教会へ。1つは孤児院へ。1つは救貧院へ。1つは国庫へと送金され、公共工事や文化財保護の費用へ。最後の一つは、更に分割され、他12神を祭神とする教会へと寄付される。
夫婦の結婚による恩恵を、国中の人々に行き渡らせる為である。
あれから1週間が過ぎた頃、オルガは、ニコル=ヴァール侯爵令嬢を中心とした、士官のカトリーヌ=サティ男爵令嬢やアネット、メイド達によってたかって身支度をされながら、トーマ子爵家の書庫にあった本の【結婚許可証】について書いてあった事を思い出していた。