第3話「兄と妹」 前篇
オオカミになって二年の歳月がたっていた。
このころになると俺の魔術はかなりのレベルで成長していた。
特に目を見張るのがコントロールだ。
ぬるい炎を作ってみたり、厨二感燻る黒い炎にしてみたり、風で体を支えてパラシュートみたいに使ってみたり、地面を勢いよく隆起させてカタパルトで跳んでみたり。
いくつか「それ必要?」と首をかしげたくもなるものが混じっているけど、なかなかの充実したラインナップになってきたと思う。
より実用性が増したおかげで、最近挑戦し始めた狩りの成功率は上々。
それにしたがいサバイバルの知識も増えてきたように思える。
人間やればできる……いや、人間じゃなくなってるけどね。
そんな自画自賛と自問自答に満足している最中、事件はおこった。
※
いつもは朝になるとすぐにいなくなるファウルだったがその日は様子が違った。
じっと視線をそらさず見つめられたじろぐ。
穏やかで温かみのある母アメリアと比べて、どうもこのファウルというオオカミには冷たい印象と強すぎるんだよな。
「ウィルディー、お前も二歳になる」
「はい」
二歳というのがオオカミにとって人間換算でどれくらいなのだろう。
犬の二歳が人間でいう二十歳くらいだったはずだから、オオカミも似たようなものだろうか?
「ならブレイヴとスーヤに会っても問題ないだろう」
「どなたですか?」
「お前の兄と妹だ」
兄はどうでもいい。だが妹という言葉にしっぽが勝手に揺れ動く。
「聞いているとは思うが妹のスーヤは病弱だ。無茶はするなよ」
「わかっています、任せてください。兄は妹を守るため先に生まれてきたんですから」
「……お前は何を言っているんだ?」
興奮のあまり妙なことを言ってしまった。
訝しむファウルをよそに、その後ろから影が二つ。
「へぇ、これが噂の弟か。ずいぶんちっこいな」
ずいっと前に出て遠慮なく値踏みするのは、ファウル程は大きくないが十分がっしりした体格のオオカミ。話の流れから彼がブレイヴなのだろう。
ひとしきりジロジロ見たあと口元が吊り上がる。格下を見下しような歪な笑みだ。
その瞬間察した。こいつは性格が悪そうだと。
「あの、はじめまして」
続いて現れたのは白に近い毛並みの特徴的な小さなオオカミ。
愛くるしい瞳にウィルより小柄な体。なるほど、可愛いと同時に弱々しい。
森の中で生き抜くには華奢すぎる印象を受ける。野性味あふれる父や兄と並べばなおさらだ。
「ウィルディー、今後はスーヤと行動を共にしろ」
「え?」
「今まではブレイヴが面倒を見ていたが、連れて歩くには足手まといだからな」
一方的に告げるだけ告げると背を向けるファウル。
「あなた……それじゃあ」
その背になぜかアメリアが悲しげな声をあげる。
「これも群れのためだ。諦めろ」
「……はい」
だが最後は折れて言葉を飲み込んだ。
なぜか俺をひと舐めすると、悲しげな視線をで見下ろしてくる。
……なんだろう、今のやり取りは。妙に不安になるのですが。
「あの……」
「あ、うん。スーヤちゃん……だよね?」
とはいえまずは妹だ。
念願の妹だ。
オオカミだけど妹だ。
さて、ではまずはじめのミッションと行こう。
なんのミッションかって? そりゃなんと呼んでもらうかに決まっているでしょJK。
俺は妹という存在が妹足らんとする魅力に主人公との心の距離だと考えている。
他人でなく、最も近い肉親。それを象徴するものが呼び方だ。
お兄ちゃん・兄ちゃん・兄たま・にぃに。その呼び方ひとつで愛情と親睦がひと目でわかる。
そしてそう呼ばれることにパソコンの画面前で何度も夢想したものだ。
同時にそう呼ばれる主人公に血の涙を流して嫉妬したものだ。
しかし、今の俺はそう呼ばれる側に立っている。
この奇跡については、俺をこの世界に放り込んだ誰かに感謝しかない。
なんなら足を舐めたっていい。
さて、では何と呼んでもらおうか。
ここはやはりプレーンなお兄ちゃんだろうか?
妹という素材の可愛らしさを余すことなく滲み出る、最もポピュラーな呼び方。外では普通な女の子な妹が、兄と話すときだけ他人とは違うと心の扉を開く、その在り方はアリババの唱える開けゴマのような魔法の呪文だ。そして開いた先にある物は? 財宝である。兄弟愛という名の得難い財宝なのである。
しかしお兄さまも捨てがたい。
成長し子供と大人の境界線にさしかかった妹が、少しでも背伸びしようとするときの呼び方だ。背伸びをしている、でもどこか兄に甘えたい。そんな曖昧模糊とした複雑な心境の見え隠れがたまらない。
そうなると兄ちゃんというのもありではないか?
たどる過程はお兄さまとは反対。成長しても兄離れできず、むしろ甘え上手になった甘々妹といったところだろう。兄ちゃんあれ欲しいんだ! 兄ちゃん迎えに来て~。そんなこと言われたらクレジットごと渡す自信があるし、タクシーで大阪東京間を往復できるまである。ある意味小悪魔系妹といえるだろう。
とはいえそれらはすべて俺の意見だ。
なんと呼ぶかはスーヤにかかっているし、俺も強制したりしない。
兄の呼び方はその妹の性格や環境から滲み出る自然なものでないといけないのだ。
ともすればスーヤならなにで来るだろうか?
大人しい雰囲気だからやはりここは基本に忠実にお兄ちゃんだろうか?
もしかするとウィルディーさんなどと他人行儀に呼ばれてしまうかもしれない。
まぁここははじめて顔を合わせたのだから仕方ないだろう。
はじめ距離があるが少しずつ距離を詰めていき呼び方が変わっていくというシチュエーションも乙なものだ。
思い出したように「お兄ちゃんに任せなさい」などと刷り込んでいけばきっと――
「よろしくお願いします………………兄さん」
瞬間、俺の時間は止まった。
NIISAN。
その甘美な響きを持つ単語が耳から脳に侵入し駆け巡る。
そして思った。
それがあったかと。
聞きようによっては他人行儀だ。だがそれで思考停止するのは素人である。
俺くらいの妹ソムリエなら分析はもう一歩深い。
これは歩み寄ろうとするいじらしい彼女の本質だ。
はじめて会う兄。
いい人なのか悪い人なのかもわからないが、うまくやっていきたい。
でも『ちゃん』付けは子どもっぽいし、『お』をつけ砕けるほど詳しくない。
相手に失礼のないように、それでいて少し背伸びをしたい気持ちの狭間で生む呼び方。
それこそ兄さんなのだ。
ならば彼女の意図をくみとろう。
緊張をほぐし、決して君に害を与えるものじゃないことを行動で示そうではないか。
俺は言葉少ないスーヤに、アメリアを真似て耳の付け根辺りを舐めてみる。
オオカミの間では親愛の証なのだが、根が人間の俺にはどうも馴染みがない。
だがここは俺から一歩踏み込んであげるべきところだ。
外国人があいさつにキスするようなもの。
そう考えることで折り合いをつける。
これでいいのかと再び見下ろしたスーヤは、驚いた表情で固まっていた。
「あれ? どこかおかしかったかな?」
「え、い、いえ。少し……驚いて……」
ハッとして俯いたスーヤの耳の灰銀毛並みがピクピク震えていた。
ついでにしっぽも小さく揺れている。
少なくとも不機嫌ということはないらしい。むしろ、
「照れてる?」
「っ! わ、わざわざ口にしないでください!」
毛を逆立てて怒られた。
この妹オオカミは見た目に反して怒りっぽいのかもしれない。
そんな風に考えながら俺は笑って謝るのだった。
※
どうやら父親から育児放棄されたらしい。
付け加えるなら、どうやらスーヤと一緒に。
そのことに気づくのにさして時間はかからなかった。
まずアメリアの態度が露骨だったことが原因の一つ。
やたらと話しかけてくることが増えたのだ。
もともと見守ってくれてはいても必要以上に口を開かないところはあった。
それでいてファウルが帰ってくるとまっさきに出迎えるあたり、古き良き大和撫子オオカミバージョンといったところだろうか。
それが「何をしていたの?」や「雨が降りそうだから水辺に言っちゃダメよ」などなど。
あげく「今日はいい天気ね」などと、もはや話す話題を探してまで話しかけてくるようになったのだから嫌でも気づく。
もう一つは、俺たちの食事をアメリアが用意するようになったことだ。
今までは何を言おうと生肉しか出してくれなかったのに、最近は果物や魚が多くなっていた。
それはそれで生肉に辟易していた俺としてはありがたいのだが、どうやらファウルが俺たちの分まで食料を渡さなくなったことが原因だったようだ。
この群れの食料はほぼすべてファウルが持って来ている。
それが滞った結果、アメリアは巣の近くの食べ物を与えるしかなくなていたのだ。
とはいえさして驚いてはいなかった。
人間では驚かれるし犯罪になりかねないが、動物の世界ではわりとよくある話だからだ。
有名なのがジャイアントパンダだ。
パンダの子どもは高い確率で双子が生まれるという。
親はその二匹から体の強そうな方を選び育て、片方は育児放棄することが非常に多いそうだ。
そのため飼育委員は母親が寝ている間に子どもを入れ替えて、二匹とも育てるように飼育するのだとかなんとか。
閑話休題。
さて、そうなるとこうなった原因にも見当がついてくる。
二歳。
察するにオオカミにとっては成長期が終わる節目の年なのだろう。
その時期になっても体格の恵まれない俺や病弱なスーヤは将来性がない。
たいして兄のブレイヴは体格に恵まれた立派なオオカミだったことは明らかだ。
これも群れのため……そうファウルが言っていたことを思い出す。
どうやら育児放棄というより、将来を見限られたという方が正しいらしい。
とはいえすでに魔術の練度も上がり、最近では巣から離れて森を自由に歩けるようになった俺にとって父親の庇護は必要ない。
だが、そのことを知らず自分の分の食糧まで子どもに与え、日に日に痩せていくアメリアの姿を見ていると、悠長なことは言っていられないこともたしかだろう。
「母さん、少し出てきます」
「スーヤも連れて行くの?」
「え?」
質問についスーヤへ視線を向ける。
考えてみれば彼女も状況は同じなのだ。
だがスーヤには前世の記憶がある俺とは違って、魔術のような生き残るすべはない。
だとすれば、生きるすべを教えてあげるのも兄の務めとなるだろう。
「そうですね。父さんにも任せると言われましたし」
「……そう」
俺の口から父という言葉が出てアメリアの表情が僅かに曇る。
いやいや、あんさんが気に病むことないんやで。
「兄さん、今日はどこに行くんですか?」
トテトテとついてくるスーヤが質問してくる。
その歩み三歩後ろで止まった。
男性の三歩後ろをついてくる、というのは元の世界の日本では美徳とされていた時期はあったが、スーヤのそれは少し違うことに気づいていた。
いきなり自分の双子の兄だと紹介されて警戒されているのだろう。そうはじめは考えていた俺だったが、それとも様子が違う。
どちらかといえば怖がっているように見えたのだ。
(そんなに凶悪な顔をしてるのかねぇ)
はじめてできた妹にいきなり怖がられていることに傷つきつつ、だったら好かれるように行動すればいいだけの話だとポジティブに思い直す。
「食べ物を探しに行くのさ」
「え? でもママが用意してくれるんじゃ」
「僕たちも自分の分くらい自分で用意しなきゃ」
それにしても、スーヤは精神的な部分でまだまだ幼すぎる気がする。
いくら体ができているとはいえ、これで見限るのは早計すぎるのではなかろいうか。
俺には元の世界の経験があるから実感がないし、話し方がしっかりした子だからわかりずらいけど、おそらく精神年齢は一〇歳から十二歳というところだろう。
これで大人扱いなのだからオオカミの世界は適当だ。
力こそすべての自然界では体の成長こそ重要なのかもしれないが。
ちなみに、病弱という話しだったが今のところスーヤにそれらしい兆候は見られない。
すぐに息が上がるところを見ると体が弱いのかもしれないが、単純に体の使い方を知らないだけにも見える。
とはいえ心配しすぎる必要はないようで、その点についてはひと安心していた。
どうやら成長と共に体も丈夫になったらしい。
「でも、狩りの仕方なんてわからないです……」
「大丈夫、ちゃんと教えるから」
「兄さんはわかるんですか?」
「独学だけどね。……たとえば」
ふと足元を見ると小さなアリ塚があった。
山になった地面に空いた穴から数えきれないアリが出入りしている。
元の世界なら気持ち悪くて避けていたところだが、二年も森に住んでいれば慣れてくる。
こんなものでも立派なご馳走だ。
「このアリは知ってる?」
「はい、時々母様が舐めている生き物ですよね?」
「食べたことは?」
「何度かありますよ。甘酸っぱくて美味しいですよね」
アリが甘酸っぱい。
その感覚に同意できてしまうあたり、俺もこの世界に慣れてきた証なのだろう。
とはいえまだ生肉は慣れないけどね。
「じゃあどうやって食べる?」
「それは、舐めてですよね」
「やってごらん」
訝しみながら言われたとおりにアリ塚を舐めるスーヤ。
しかしすぐに苦い顔でペッペッ! と吐き出してしまう。
「にがーい!」
「うん、どうもこのアリって自分の分泌液で巣を固めて作ってるみたいなんだ。それが僕らには甘酸っぱくて美味しく感じるんだ。けど、時間がたつとすっごく苦くなるみたいでね。巣を直接舐めても砂ばっかりくっつくし苦いしでいいとこなしなんだよ」
「む~、知ってるなら先に教えてよ!」
怒りのせいか丁寧語が崩れる。
このあたりが子どもらしい隙だなぁと微笑ましく思う。
「ごめんごめん、お詫びに食べ方を教えてあげる」
「そんなの一匹ずつ捕まえればいいじゃないですか」
「母さんはそうしてたみたいだけど、らちが明かないから、僕はこうする」
そう言ってアリ塚を踏みつぶす。
すると外敵に驚いたアリたちは攻撃のために足に群がりだす。
その群れが足の甲に昇ってきたところで俺はその甲を舐めとった。
「こうすれば砂を舐めることも苦いアリ塚を舐めることもないでしょ?」
「ふわぁ、なるほど!」
スーヤはパァっと笑顔を浮かべると真似をしてアリを舐めはじめる。
ひとしきり満足すると、今度は小首を傾げて尋ねてきた。
「こんな方法誰に聞いたんですか?」
「さっきも言っただろ。全部独学だよ」
「……兄さんって頭がいいんですね」
勢いよく振られたしっぽと彼女の瞳には僅かな尊敬の念が込められていた。
この程度でなにを大げさな。
そう思うがよく考えれば俺たちは双子。
つまり同じ年だ。
自分が考えもしなかったことをさも当然に行う兄。
しかも花より団子な食べることの大好きな年頃だ。
そういう反応にもなるものなのかもしれない。
「じゃあもっと尊敬してもらおうかな」
「次は何をするんですか?」
スーヤの質問に素直に教えようとして……やめた。
ふとした思いつきに悪ガキの笑みを浮かべ言った。
「魔術だよ」
「? ママが使ってるような?」
「うーん、似たようなものかな」
俺の頭にあったのは、今日まで練習してきたファンタジーな魔術ではなく、
もっと現実的な、でも人間だった頃の俺からすれば間違いのない魔術のことだった。
長くなったので前篇後篇にわけます。