閑話「妹オオカミの眠れぬ夜」
深き森のさらに深く。
ウィルディーがテリトリー内で『巣』と呼んでいる巨木の麓。
枯葉と落ち葉で作った寝床についたスーヤは興奮で眠れずにいた。
「うぅ~」
顔が熱い、動機が激しい、気を抜くと叫びそうになる。
「うぅあぁぁ――どうしてスーヤ、あんなこと言っちゃったかなぁ!」
ゴロンゴロンゴロンゴロン
もう何度目かもわからない寝返りを打ちながら、兄との会話を思い出す。
たしかにスーヤはウィルディーに群れの後を継いでほしいと思っている。
その気持ちは本物だ。
そのために彼を支えられる力は率先して習ってきたし、頑張ってきた自負がある。
ブレイヴが苦手だというのも本当だ。
嫌い、と言い切ってしまってもいい。
スーヤの中で彼とすごした一年間は地獄に等しかった。
ファウルがいる時は問題なかった。
彼はファウルを尊敬していたし、同時に恐れている節もあった。
だからファウルがいる間は変なちょっかいをかけられることもなかった。
だがいなくなった途端、ブレイヴはスーヤを玩具にした。
噛みついては放り投げ、わざと足蹴りし、散々な目にあわされた。
おそらく本人に悪気はない。
遊んであげてるつもりだったのかもしれない。
そうでなくても軽いイタズラ程度の気持ちだったのかもしれない。
しかし今も体が小さい自覚はあるが、二歳に満たない当時は輪にかけて小さく、大きなブレイヴのイタズラでさえ、スーヤにとっては命がけのイジメでしかなかった。
そのせいで生傷はたえず、何度も体を壊すことになった。
ファウルはそれを体が弱いから病気になるのだ! などと言っていたがそんなわけがない。だが、素直にファウルへ言えばブレイヴがどんな報復をするかわからず、恐怖から言い出せなかった。
そして二歳の誕生日。
スーヤはもう一人の兄、ウィルディーと出会った。
はじめスーヤは彼を警戒していた。
彼もブレイヴと同じように苛めるのではないと恐れていた。
しかも今度はファウルが常にいない。暴力を止めるすべがない。
もう、自分の命は自分で守るしかない。
だから少しでも抵抗できるように、常に彼の死角である後ろを歩くように心がけてきた。
何かされても逃げれるように三歩ほど距離を開けておくことにした。
でも、二人目の兄はスーヤをいじめることはなかった。
それどころか常に気を払い、寄り添い、優しく微笑みかけてくれた。
生肉の苦手なスーヤのために、両親に内緒で焼いて食べるという方法を教えてくれた。
それができない時は食べやすい部位を、自分も苦手なのにわけてくれたりもした。
知らないこともいっぱい教えてくれた。
眠れない夜は不思議なおとぎ話を聞かせてくれた。
空飛ぶ鉄のドラゴン、高速で動く大蛇、走る足のかわりに転がる玉を持つ巨象。
どれも荒唐無稽で、きっと兄の作り話なのだろうけど、実際に見たかのような現実味があって飽きることはなかった。
間違いをすれば正してくれ、悪いことをすれば怒ってくれた。
嬉しいことがあれば自分以上に喜んでくれた。
昔を思いだして急に泣けてきたときはなにも言わず涙を舐めとってくれた。
……心の底から大事にしてくれている。
そう、わかった。
そこには正面からぶつかってくれる親愛だけがあった。
だから、スーヤが警戒を解くのにそう時間はかからなかった。
いつしかスーヤはウィルディーの隣を歩くようになっていた。
たぶんこの時からだろう。
彼の隣がどこよりも安心できる場所に思えるようになっていたのは。
ウィルディーは裏切らない、いじめたりもしない、守ってくれている。
だから彼がテリトリーの外に行くと言ったときも、ほとんど躊躇なくついていくことにしたのだ。 テリトリーの中より、外だろうとウィルディーの横の方が安心できる。
そう思っていたからだ。
でも、この事件がスーヤの転機となった。
ウィルディーが魔物に勝ったのだ。
辛くもではあったが、勝った。
さすがだと思った。
同時に、そんなすごい彼の横に、自分はふさわしいのだろうかという疑問が芽生えた。
同じころ現れた人間の女――ミーティアの存在も大きかった。
ミーティアのことをウィルディーはいたく信頼しているように思えた。
そのことに嫉妬をしなかったかと言われればウソになる。
でも、あれだけすごい魔術が使えるのに、まだ上を目指そうとする兄の姿を見て。
そんな兄とどこか似た空気をミーティアからも感じ取って。
あんなに憧れたウィルディーの横に並ぶ姿が、妙にしっくりくるメスの姿を見て。
その姿を嫉妬という黒い感情でしか見られない……守られるだけの自分を見て。
次第に焦りに似た一つの感情を覚えることになる。
――このままではダメだ。
以来、ウィルデイーが唯一使えない水魔術をがんばってみることにした。
ミーティアからは土魔術の方が才能があると言われたけど興味はなかった。
本当は話しているとモヤモヤしてくるミーティアに教えられるなんて嫌だけど、それでもがんばれたのは、間違いなくウィルディーという背中が前を歩いていてくれたからだ。
追いつきたい、でもずっと見てもいたい。
どんな暗闇でもその道をしめす道標があったからだ。
そうして、努力するにつれ、一つの夢がうまれた。
――群れを継いだ兄さんを支えたい。
そんな些細だけど大きな夢。
だからこそウィルディーに望みはないのかと聞かれた時、すんなりとその夢が出てきのだ。出てきた……のだが……。
「そんなつもりなかった……よね?」
スーヤの夢はあくまでウィルディーを支えたいというものだった。
そうであると言い聞かせてきた。
なのに、どうして……。
『でもそれだと、スーヤは僕となら添い遂げてもいいってことに――』
「~~~~ッッッ!!」
ゴロンゴロンゴロンゴロン。
不覚、まったくの不覚である。
どうしてあんな無防備なことを言ってしまったのだろうか。
さらに付け加えるなら、どうしてあの時、ウィルディーの言葉を切るような物言いをしてしまったのだろうか。
さらにさらに付け加えるなら、どうしてまんざらでもない自分がいるのだろう。
己の詰めの甘さに、こっぱずかしいことを口走ってしまった少し前の自分に、
羞恥心で枯葉のベッドの上で悶え転がる。
「兄さん、変に思ってないよね」
口にして、それはないか、と自己完結する。
なんでもできるし、なんでも知ってる兄だが、あれで意外と周りから自分に向けられる視線には鈍感なところがあることをスーヤは知っていた。
でなければ毎日殺気交じりに睨むブレイヴや、期待するようなファウルの視線。あとスーヤ自身の視線にあれほど無関心を貫けるはずがない。
まるで自分を高めることにしか興味がないような。
ある意味その点ではファウルとよく似ていると思う。
直情的なファウルと理性的なウィルディー。
二匹が親子であることを思い出させる点でもあるのだけれど、ウィルディーのそれはどちらかといえばもっと楽観的な……好奇心からくるもののように思えた。
(それはそれで兄さんらしいけど、だとすると……寂しいなぁ)
自分にしか関心がない。
それはつまり、スーヤに興味がないということで。
ファウルの言いつけがなければ、二匹の間には繋がりはない証明でもあるわけで。
「……うん、もっと頑張らなくっちゃ」
ウィルディーが自分の思いもよらない発想をすることが多いことは知っていたが、同時にはじめからなんでも知っているわけでないことをスーヤは知っている。
一度「これはシメジに似てるな」とよくわからないことを言って口にしたキノコが猛毒を持っていて倒れた姿を見たことがある。あの時スーヤが解毒の水魔術を知らなかったらと思うと……今でも身が震える。
でもウィルディーのすごさはその後のひと言にあった。
――そっか、あれは毒キノコなのか。
死にそうになった直後に、自分事をまるで他人事のように知識にする兄の姿に、スーヤは恐怖すら覚えたものだ。
そんな兄の隣に立つなら、自分は自分にしかできないことで支えるしかない。
幸い自分には兄の使えない水魔術がある。
種としての能力も嗅覚をはじめ、兄より優れたものは多い。
そう、考えてみれば、あまりにも大きく見えたウィルディーも完璧ではないのだ。
だったら並べる。
今は守られるだけの存在でも、頑張っていればいつか隣に立てる。
あの日、解毒で兄を助けた時のように。
「兄さん……ウィル、兄さん」
なんとなく名前を呼んでみる。
愛称なのもなんとなくだ。
あえて言うならミーティアもそう呼んでいたから。
親しげなその呼び方が出るたび、モヤモヤが大きくなったから。
「~~~~~」
名前を呼んだ瞬間、体の熱がまた上がった気がした。
再びビターンビターンとベッドの上で飛び跳ねるスーヤ。
荒い息を吐きながら気持ちを落ち着かせる。
最後に大きく息を吐き、コテンと空を見上げた。
「お願いしますね、兄さん」
吐息のような呟きをもらす小さな灰銀のオオカミを、夜空に浮かぶ同じ色をした月だけが木の葉の間から覗き見ているのだった。




