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一筆啓上仕り候

作者: 橋本洋一

 母上、御身体の方は変わりありませんでしょうか?

 そして妻と息子は息災で居るでしょうか?


 いえ、それを訊く資格など、私にはもう無いのでしょう。

 私、直孝はこれから切腹いたします。母上より先に逝くことをお許しください。


 この書状を書き終えて、その半時後に切腹いたします。介錯は同郷の征次郎殿に任せる所存です。

 死にゆく私に残されたのは己の犯した罪を語ることです。それこそが私の、罪を犯した者の責務であると固く信じているのです。


 もう母上は知ってのとおり、私は国元を離れて、江戸の屋敷で勘定方として働いております。もはやいくさのない太平の世、今の武士としての出世を望むのであれば、この役目は私の身に余るものであると常々感じておりました。

 母上の教えがあり、この勤めに励むことができたことを心より感謝しております。

 毎日そろばんを弾き、数字を台帳に書き込む仕事は、私の性にも合っておりました。

 このままずっと穏やかな毎日が進むと思っておりました。


 しかし、それは叶わぬ想いでした。母上の耳にも入ったと思いますが、一年ほど前、料理番の者が上様の機嫌を損ねた事件がありました。

 それは手違いで腐った魚が御前に上がりかけたのです。毒見役の者が腹を下したことで露見しましたが、危うく上様に腐った魚を食べさせるところでした。


 上様はお怒りになり、料理番の責任者、つまりは私の親友である宗重に切腹を申し付けたのです。

 そしてそれもご存知だと思いますが、介錯人は私になりました。


 これは宗重の頼みだったのです。あいつは私を信頼して頼んだのだと今になって分かります。けれど私は気が進みませんでした。戦国の世でしたら、名誉なことですが、太平の世なれば、介錯を承諾する者は少ないのです。

 腕が特別立つわけでもなければ、親友の介錯をすることは殺害と同じではないかと感じてしまったのです。


 ですから、断ろうと牢屋に居る宗重のもとへ向かいました。そこで見たものは恐怖で震えているのではなく、どこか達観して清々しい顔をした宗重でした。


 私が牢屋に近づくと、おう。来てくれたのか。嬉しいぞ。と言う始末。

 どうしてお前は落ち着いていられるんだ。三日後には切腹させられるのだぞ。

 断るつもりで来たのに、こうした余計なことを言ってしまったのです。


 すると宗重は笑って言いました。

 このように切腹を言い渡らされて、逆にすっきりとした。これでもう怯えずに済む。

 

 余計分からなくなった私は問いつめます。お前の言っていることは分からない。切腹を申し付けられて怯えるはずだろう。逆ではないか。


 宗重は自嘲した笑みを浮かべました。


 よいか直孝。俺はいつかこうなる日が来るのではないかと怯えていたのだ。毎日毎日、粗相のないように御膳を用意するのは、生きた心地がしなかったよ。まさにまな板の鯉のようだった。しかし今ではどうだ? その恐怖から解放されて、後は死に向かうだけだ。こんなに嬉しいことはない。


 私は聞いていて、ああ、この者は狂ってしまったのだなと思いました。死の恐怖でおかしくなったのだ。そう信じました。

 しかしそうではなかったのです。今、切腹に臨む身となって分かりました。


 私は断ろうとした言葉を出さずに、心残りはないのかと訊ねました。

 宗重は顔を曇らせました。


 そうだな。一人娘のさやかが心配だ。俺が居なくなっても立派に生きていけるのだろうか。


 私は親友の心残りを取り除きたい一心でした。他意はありません。

 母上だけには信じてもらいたいのです。


 ならば私が引き取ろう。三十路の人間に一人娘を預ける度胸があるのならばの話だが。

 

 宗重は喜んでいました。


 ああ、ありがとう。これでようやく思い残すことなく逝ける。


 その境地が分かるまで、私はさほど時間はかからなかったのです。


 そして宗重は切腹しました。武士らしく堂々としたものでした。

 介錯も無事できました。熟練の介錯人ではなかったので、首の皮一つ残すことは叶いませんでした。頭ごと打ち落としました。


 私は介錯を終えた喜びで笑顔になりました。そして宗重の立派な最期を褒めたい気分でした。


 あっぱれ、宗重はまことの武士であった。


 刑場でそう言うと見届け人たちは涙を流しました。私も知らず知らず泣いていました。


 けれどその後が良くありませんでした。

 なんと私の禄高が増えてしまったのです。


 私の介錯を見届け人たちが上のものへ報告をして、それが上様へと伝わってしまったのです。

 上様は些細なことで宗重を切腹させてしまったことを気にかかっている様子でした。

 そして私が遺児を引き取ると知り、宗重の禄を私に加えたのです。


 正直、断りたい気持ちはありましたが、何分、先立つものも必要であり、受け取らぬと上様の機嫌を損ねてしまう。それだけは避けたかったのです。


 出世も検討されましたが、流石に遠慮しました。これ以上もらうとやっかみが酷くなりますので。


 結果として出世を断ったことは私の評判を高めることになりました。無欲な男であり、親友の頼みを引き受けた、立派な武士であると評されたのです。


 良い気分ではありませんでした。むしろ息苦しくなりました。

 そのことが私を苦しめる結果となるのです。


 宗重の娘は一度しか会ったことはありませんでした。まだ赤ん坊の時分に見たきりで、それほど印象に残っていませんでした。


 だから出会ったとき、私は衝撃を受けました。

 齢十四でありながら、その美しさと可憐な少女であることに。


 もしもそのまま何事もなく育っていけば、傾国の美女へと変貌するでしょう。そのくらい美しい少女でした。


 さやかは私に媚びるように言います。父上の頼みを聞いて、あたしを引き取ってくださり、ありがとうございます。

 その仕草がなんとも妖艶で少女らしからぬものでした。


 気にしなくて良い。宗重は私の親友だった。頼みを聞くのは当然だ。


 ようやくそれだけ言いました。ガラにも無く緊張してしまったのです。十四の娘に。


 さやかはにっこりと笑みを浮かべました。その顔がまた私の心を掴んで放しませんでした。

 これからよろしくお願いいたしますね。直孝様。


 ここで私は疑問に思うべきでした。実の父親が死んだのに、こうして笑みを見せられることに対して。

 私は気づくことができなかったのです。


 それから私とさやかは二人きりで屋敷に住むことになりました。今までの禄が少なかったために、使用人を雇うこともできず、私自ら家事を行なっていましたので、世話をするのに十分でした。


 それが大きな間違いだったのです。私の地獄はここから始まりました。


 勤めを行なうときは毎日羨望の目で見られます。上役の者からも過度な期待を浴びるようになりました。小心な私はその目線に耐え切れなくなりました。


 そして家に帰るとさやかが出迎えてくれます。疲れきった私を癒そうと懸命に奉仕してくれます。

 それがまた地獄でした。美しい少女。本来ならば喜ぶべきことですが、次第に私はさやかに惹かれていったのです。

 親友の娘に手を出すわけにはいかない。しかも相手は私を慕ってくれる。その信頼を裏切ることはできない。

 親として接しようとしますが、どうしても女として見てしまうのです。


 苦しくて切なく感じました。国元に置いた妻や息子のことを想うとますます自分が矮小で情けない人間だと思いました。

 家に居ても仕事をしても窮屈に感じるようになりました。

 これが宗重の言っていた、まな板の鯉の気分なのでしょう。


 そうした毎日を過ごして、半年後に私はあやまちを犯してしまうのです。


 その夜、私は酔っていました。いえ、毎晩酔っていました。私の心を和らげてくれるのは酒しかなかったのです。

 自室に篭もり、深酒をしていると外から直孝様と声がしました。


 どうしたさやか。何があったのか。

 私は何気なく言いました。さやかには優しく接しようと心がけていました。


 少しお話があるのですが、入ってもよろしいですか。


 私は何の気もなしに、いいぞと言いました。


 さやかは入って私の正面に座ります。

 そして厳しい顔で言いました。


 もう毎晩深酒をするのはやめてください。身体に障ります。


 私はむっとしましたが、優しく言い返します。私を癒してくれるのはこれだけなんだよ。


 するとさやかは涙目になって、あたしとここに暮らすのは辛いですか。としおらしく言います。


 内心どきりとした私ですが、すぐさま答えます。そのようなことはない。


 さやかは大きい声で嘘ですと言いました。最近あたしと目を合わせてくれないではありませんか。


 そうです。最近はさやかを避けようとしていました。それはますますさやかが美しくなってきたことにも起因します。


 馬鹿なことを申すな。そのようなことはない。

 ようやくそれだけが言えました。


 ではあたしの目を見てください。

 さやかの目を久しぶりにはっきりと見つめました。

 綺麗な黒目が私を写しています。


 真っ直ぐな瞳を見て、観念しました。私はもう解放されたかった。何もかも嫌になったのです。だから言いました。

 私はさやかに懸想している。これ以上一緒に居ると犯したくなる。だから最近は顔を見るのも辛くなったのだ。


 しばらく私もさやかも黙ったままでした。


 そしてさやかはおもむろに立ち上がって、着物を脱ぎ始めました。


 さやか、何をしている。

 私は大きい声でたしなめました。


 さやかはまるで菩薩のようににっこりと笑っていました。

 どうぞ、犯してくださいまし。あたしも直孝様を懸想しておりました。


 一糸纏わぬ姿になったさやかに、私は自らの欲望を抑えることができずに。


 犯してしまったのです。


 事が終わって、後悔する私にさやかは抱きしめながら言いました。


 大丈夫です。これからあたしが直孝様の心をほぐしますから。


 それから爛れた毎日が続きます。

 勤めのない日は一日中、さやかを犯していました。

 月の物が来る日以外も犯していたのです。


 そして結果として、さやかは子を孕みました。

 それが切腹の理由なのです。

 さやかは子を孕んだことを上役に告げたのです。


 これがさやかの狙いでした。私を誘い、私がさやかを犯して孕ませることが狙いだったのです。

 

 引き取った娘を無理矢理犯し孕ませる。実に卑劣な行為である。

 武士の道にも反しておる。よって切腹を申し付ける。


 そう言われたときには既に覚悟を決めていました。


 牢屋ごしにさやかに会いました。さやかは悪女のように微笑んでいました。


 あたしの父上を殺して禄を奪った卑怯者。これがあたしの復讐よ。


 それを聞いて、最初から愛などなかったのだと気づきました。

 私は獣欲を持っていたし、さやかは復讐で接していたのです。


 私はさやかに微笑みました。さやかは怪訝そうな顔をしました。


 すまなかった。私がすべて悪い。


 さやかはそれを聞いて怒りました。


 何故謝る。 何故微笑む。 貴様は死ぬのだぞ。


 私はにこりと微笑みました。かつての宗重のように。


 さやかと過ごした一年は私にとってまな板の鯉のように怯えていた。関係を持ったことでより辛くなった。しかし今はそれから解放されるだけだ。それがとても嬉しいのだ。


 そうです。いつ秘密が発覚してしまうのかと不安で眠れませんでした。さやかを抱いているときも怯えていました。


 そして私はさやかに言いました。


 辛いことをさせてしまって申し訳ない。これからは自由に生きろ。


 さやかは大きな瞳に涙を湛えていました。それが流れる姿は美しいと思いました。

 そして何も言わずに去っていきました。


 こうして、私は今、母上に書状を書かせていただいております。


 私の真実は母上だけに留めてください。妻や息子には決して言わぬように。

 申し訳ないけれども汚名を着せてしまうことになるけれども、堪忍してください。


 私は孝の道を真っ直ぐ進むようにと名付けられた直孝という名を恥じてしまいました。

 しかし後悔はしておりません。むしろ穏やかな気持ちで一杯です。


 それでは、さらばです。涅槃でお会いしましょう。


 願わくば、家名が末代まで残されますように。





 橋本直孝


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― 新着の感想 ―
[良い点] 導入が秀逸だと思います。 気になって、どんどん続きが読みたくなりました。 また、最後のさやかの涙は、なんとも言えない気分になりました。 直孝にとっては救いの涙かもしれませんが、さやかがまた…
[良い点] 大変、よく練られたストーリーだと思います。 心理描写もバランスよく、さやかの本性が明かされた場面。死を前にした直孝の心情。よく描かれていると思います。 [気になる点] あたし、は、わたくし…
[良い点] 怖いけど主人公には悔いなかったみたいやね。さやか……。
2017/12/30 11:39 退会済み
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