名前を知りたいと思ったから
ぐるるるる・・・
訴えるような唸り声を上げたのは、カインの腹の虫だった。
一族の掟を破ってしまったことを嚙み締めていたはずの頭の中は、一瞬にして空腹に埋め尽くされた。
「なにそれ。返事のつもりなの?」
カラスが空を見上げたまま聞いた。
「違うよ。返事ならしただろ。お腹がすいたんだ」
「そう・・・」
カラスは興味がなさそうに目を閉じた。そして夜の世界に沈黙が訪れる。星の瞬く音が、聞こえるような気がした。ちかちか、ちかちか。
それだけじゃなかった。
とくんとくんと、自分の鼓動の音が聞こえる。それから、二人分の、呼吸の音。
眠ってしまったのかと思って、カインはその横顔を覗き込んだ。綺麗な顔だと思った。
「じゃあ、旅の始まりを記念して、ディナーにしようか」
瞼を上げたカラスの真っ黒な瞳が、カインと星空を映し出す。
やっぱり、綺麗だった。
「ボクの顔になにかついてるの?」
カラスは眉をひそめてそう聞いた。カインの顔が近くにあったから、驚いたようだった。
「別に」
カインはそっけなく答えた。
「それより、ディナーって、なにかあるの?」
カラスは体を起こすとうーん、と伸びをした。それに続いて起き上がれば、世界が見えた。
地底から、カラス、星空、そして、地上の世界。
この世は本当に、地底だけじゃなかったのだ。
あれ程までに、出てはいけないと言われてきた地上に、自分は出てきたのだ。
そう考えると、カインは腹の奥底がむず痒いような気がした。
罪悪感なのか、高揚感なのか、それとも。
ぐう。
いや、きっとただの空腹だ。
出てきてしまった理由も、目的も、そこになんの意思や感情があるのかも、きっとどうだっていい。本能のままでいい。
「近くに、ニンゲン一族の村があるんだ。そこで美味しいものをもらいに行こう」
「ニンゲン一族?」
軽やかに歩き出したカラスに、カインは聞き返した。先ほどまでいた地底から離れて行くのを、ほんの砂粒程度に気にしながら。
「そう。キミ達は、モグラを自分の先祖としてあがめるだろう?それとおんなじだよ。彼らは、人間の子孫だから、ニンゲン一族なのさ」
外の世界に違う種族がいることは知っていた。でも、それがどんなものなのかは、まだ知らない。何をどれだけ知らないのかさえ分からないくらいには、カインは無知だった。
「ふうん。じゃあ、アンタは?」
自分たちモグラとは違うらしい。
では、何が違うのか。
瞳の色か。髪の色か。住む場所か。
「ボクは、なんでもない。ただのカラスさ」
「カラスって、名前なの?」
「なまえ。そうだね。ボクのことはそう呼べばいいってこと」
「なんだよ、それ」
はぐらかされたのだと気付いたけれど、それ以上どうするべきなのかわからなかった。だからカインは、少し前を歩くその腕を掴んだ。
「じゃあ、カラス」
立ち止まって首をかしげるカラスに、カインは告げる。
「おれは、カインだ」
「カイン。素敵な名前だね」
カラスはふわっと微笑んだ。綺麗な笑顔だった。でもそれは、いろんなものを隠した笑顔でもあった。