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架空戦記

奉天地下鉄1号線

作者: 山口多聞

 昭和7年に日本の主導の元に建国された満州国は、一種の実験国家であった。満州には日本にはない未開の土地(と言えるかは厳密には微妙だが)があり、資源があった。


 そのため、満州国の実権を握った日本は満州において様々なことを行った。このうち都市の開発は、帝都となる新京の整備が有名な所であるが、一方でそれまでの主要な都市であった奉天や斉斉哈爾、哈爾濱などでも新市街地の整備が行われている。そしてこの中で、奉天においては他の都市に先駆けて、地下鉄の建設工事が行われた。


 建設工事が始まったのは昭和10年(満州の元号では康徳2年)。なんと満州国建国から3年しか経過していない時期である。どうしてこんなに早期に工事が始まったのか?これにはいくつもの理由がある。


 一つは満州における地下鉄建設のテストベットだ。この時点で日本本土でも地下鉄は東京と大阪にしかない。そのため、満州のような極寒の地における地下鉄建設は、今後の日本国内の地下鉄建設に対してもノウハウを得られる。もちろん、今後満州の新京や哈爾濱と言った他都市でもだ、


 二つ目は、奉天という都市の持つ意味合いだ。この都市はもともと満州全域を治めていた張学良、張作霖の軍閥の拠点でもあった。加えて満州国の住民の過半以上を占める漢族や満州族の反日感情も問題であった。そのため、早期に満州国国民に対して日本の国威を示すと言う観点から。ならびに諸外国に対するパフォーマンスからも、建設が急がれた。


 三つ目は戦時に対する防衛上の観点から。地下深く走る地下鉄は、例え地上で激しい戦闘が行われていても、給電されさえすれば運行を続けられる。また市民の退避壕、要人の緊急避難用としても活用できる。


 こうした理由から、満州国建国2年目という早い時期に地下鉄の建設計画が立てられ、既に地下鉄を建設している東京と大阪から技術者や識者が招聘された。


 先述したように、この時点で日本の地下鉄は東京と大阪に一路線ずつしかない。つまり、日本には路線網と言えるものを持つ地下鉄はなかった。


 そのため、奉天の地下鉄は日本だけでなくこの時点で既に有数の路線を持つ欧米や南米各国の路線を参考に、さらに奉天の市街地の現状、今後の人口流動を予測して建てられることとなった。


 奉天の街は満州事変以前から、満鉄の附属地を中心にした新市街地と、旧市街地がそれぞれにあった。新市街地は交通拠点や大学などがあり、旧市街地には役所などの官公庁があった。加えて奉天市は事変後も人口が増加しており、当然ながら最初の路線はこの二つの重要市街地を結ぶように計画された。


 さらに市街地を別ルートで結ぶ幾つかの路線と、加えて今後の都市部の拡大を織り込んで都市の外郭へ向かう路線などが計画された。


 当初の計画では、これらの計画は綿密に建てられる予定であった。しかしながら、潜在的敵国であるソ連の動向や、ヨーロッパで成立したナチス・ドイツが公共事業の拡大で早期に経済復興を成し遂げていることなど、さらに満州国の人口が日本や中華民国、加えて欧州から脱出したユダヤ人や反共ロシア人などによって飛躍的に増えていることから、こうした労働力の受け入れも兼ねて、早期の着工が関東軍や日本政府から要求された。


 また研究を行う識者や研究者の中にも、全体計画のとりまとめに先んじる形での着工を求める声が出ていた。この時点で地下鉄建設のノウハウがなく、まずは建設してノウハウ獲得を優先するべきというわけだ。


 結局、関東軍や関東軍に同調した政財界の圧力もあり、最終的に必要性の高い1号線の建設を先行させると言う案が通ることとなった。一部の者は拙速と言って嘆いたが、他の路線や都市計画も並行して立てていくと言う妥協案で引き下がるしかなかった。


 昭和10年、既に計画段階から測量が始められていたこともあり、1号線の牛心街から奉天駅前を通過し、東塔までに至る路線の建設が始まった。当初の計画通り、雇用問題対策に大量の労働者が雇用される一方で、欧米製の最新機械もふんだんに使われた。


 満州国の国威発揚と言う観点から、採算を多少度外視してでもの早期の開通を目指した。


 奉天地下鉄1号線は、計画段階から全線複線。軌間1435mmという立派な規格で計画されていた。しかしながら、電気の集電方式で意見が別れた。


 地下を走る地下鉄は通常ばい煙などを気にしない電車を採用する。そしてその電車は主に二つの方式で電気を取る。一つは車体にパンタググラフを搭載し、頭上に張った架線から集電する架空線方式。


 もう一つはサイドレールと言う電気を流すレールを地面に設けて、台車に設けた集電架から集電する第三軌条方式。


 前者は地上の鉄道に幅広く取り入れられているが、地下で使用する場合は架線を吊り下げるスペースを余計に掘る必要が出てくる。


 一方後者の第三軌条方式は、通常の線路に横付けする形で敷設されるので、トンネル断面を小さくできるメリットがある。穴を掘るために多額の資金と期間を要する地下鉄にとって、それを圧縮するのにちょうどいいというわけだ。


 早期の完成を目指すとともに、さらに建設費圧縮などが出来る第三軌条方式が地下鉄の架線方式としてはスタンダードであり、現に純粋な地下鉄である東京や大阪の地下鉄道はそうであった。


 しかしながら、一部の技術者からは架空線方式を強く求める声も起きた。確かに地下区間だけなら第三軌条方式のメリットが大きいが、今後奉天の市街地が人口拡大により周囲に広がり、地下線ではなく地上線や高架線になるならば、架空線方式の方が便利であると言う考え方だ。

 

 確かに、地下鉄道線を郊外の地上鉄道線に繋げれば利便性は増す。しかしながら、この時点で相互直通を行う地下鉄は日本の勢力圏下にはなく、しかも技術者を招聘している東京や大阪の地下鉄で架空線式を採用している路線は一つもない。つまり未知の分野だ。


 ところが、この架空線方式による電化になんと軍が興味を示した。早期の開通を望む軍が何故この案に興味を示したかと言えば、簡単なことで架空線方式による将来的な地上の鉄道との相互乗り入れ案が、戦闘になった際に地上鉄道車両の地下線への疎開に都合がいいと考えたからだ。


 第三軌条方式で断面の小さいトンネルを掘ってしまうと、例え外と線路を繋げても地上車両の進入に不利になる可能性が高い。しかしながら、架空線式にして予め断面の大きなトンネルを掘っておけば、これが可能となるというわけだ。


 この軍部の横やりに、多数派の識者や技術者はいい顔を当然しなかったが、最終的に資金や資材に機材、労働者を優先的に割り当てると言う確約をとったため、最終的に折れた。


 こうして奉天地下鉄1号線は架空線式による電気供給となった。また将来的には地上の満鉄線との連絡線建設も決まった。


 建設が始まると、軍部が技術者たちに約束した通り、最新型の工作機械や必要な労働者、そして多額の資金がこの建設工事に投じられた。


 地下鉄の線路の方の整備が進む一方で、車両の製作も始まった。車両の製造も、日本の技術を得ながら満州国内での製造が目指された。この時点で満州国内に電車を使用している路線は炭鉱の連絡鉄道や路面電車位であったが、今後満州国内の都市への地下鉄車両供給を考慮し、日本車両をはじめとする国内メーカーの援助で奉天に新しい電車用工場が設置された。


 車両は全長20mの大型車で、2両編成が用意されることとなった。架線電圧は直流1500Vで、両開き三扉、オールロングシード。後の時代の通勤電車を先どった設計となった。このあたりにも、実験国家だからこそ技術者たちが惜しげもなく新機軸を取り入れた色が濃い。なお、駆動方式は既にアメリカで実用化されたカルダン駆動の採用も考慮されたが、これはこの時期対米関係悪化のために流れてしまった。


 こうして建設が始まった奉天地下鉄1号線であったが、この建設開始のタイミングは絶妙であった。というのも、建設開始後の昭和12年には北支事変、昭和14年にはノモンハン事変が発生したからだ。いずれも短期間で収束したが、もしこれらの事件後に建設開始となっていたら、資材や予算の関係で建設開始がさらに遅れていたかもしれない。


 満州初、そして極寒地での建設工事と言うこともあり、建設期間は5年にも及んだ。それでも、昭和14年夏には試運転列車の運転が始まり、3か月に渡る入念な試運転と運転手、車掌、駅員への教育が行われた。試運転もさることながら、入念な教育が行われたのは地下鉄社員は日本人を中心としつつも、朝鮮人、満州人、漢人も混ざっていたからだ。


 昭和15年(康徳7年)、日本国内が紀元2600年のお祭り騒ぎの中、奉天市地下鉄も3月1日の建国節に開通を迎えた。


 日本の東京、大阪に続くアジアにおける3番目の地下鉄。しかも、一気に20km近い路線を一気に開通させたのは、日本の地下鉄以上の快挙であった。


 開通初日には日本人、朝鮮人、漢人、満人、蒙古人問わず市民が記念乗車に殺到した。開通前は輸送力過剰と見られた20m級2両編成の電車は、終日に渡り超満員で運転した。


 もちろん、この地下鉄開通を日本や満州国は盛大なプロパガンダとして活用した。日本はこの地下鉄が日本と満州の合作であり、日満一体化を強調する材料として。また満州国は、新興国家でありながら近代国家の象徴たる地下鉄道を開通させたことで、内外にその発展ぶりと国力を大いにアピールした。


 計画通りであれば、奉天の地下鉄はさらに2号線、3号線と建設が行われる筈であった。しかしながら、そうはならなかった。


 前述したとおり、満州を取り巻く国際環境は厳しさを増しており、さらに地下鉄が退避壕として有用とみなされると、首都ではない奉天でのさらなる建設は一時的に見直され、首都である新京での建設が優先されることとなった。またこの奉天地下鉄での建設ノウハウを得た日本人技術者たちは、やはりその効果を確認した日本政府が、新たに東京に加えて札幌、名古屋での新線建設を計画したため、日本本土へと半数近くが償還されてしまった。


 結局、奉天地下鉄はしばらくの間は新線建設がお預けになってしまった。


 しかし、当初の予測通り奉天の人口は中国や欧州、日本や朝鮮からの人口流入などが重なりその後も増加し続け、地下鉄はその増加する人口の輸送手段に大きく貢献することとなった。


 そして同線が求められた満鉄線との接続は、開通から1年後の12月に発揮された。ドイツに遅れること半年、ソ連へ侵攻した関東軍を含む日本軍。満州国は当然ながらその兵站基地として利用され、膨大な軍事列車が同国内に運転された。その移動は秘匿のために主に夜間に行われたが、その隠匿のために奉天地下鉄1号線は利用された。


 本来は保線車両や回送車両用に作られた地下留置線や、満鉄との連絡線が建設された東陵駅近くの車両基地に、引き込まれた貨物車両が隠された。また夜間の迂回運転も行われた。これらの貨物列車運転の際は、予め日本本土から持ち込まれて改軌されていた電気機関車が大活躍した。


 また日米開戦後は、想定通りソ連軍の空襲に備えての防空壕として使われる予定もあったが、奉天が空襲を受けることはなく、これは杞憂に終わった。


 日米戦が始まると、物資の不足から奉天地下鉄の新線建設はさらに延期され、結局1946年の講和成立までに工事が始められることはなかった。さらに日米戦終結後も、ソ連の崩壊や中華人民共和国の成立に伴う国際情勢の変化と、それに伴う満州国全体の予算措置が南部国境の守備強化や、流入した人口や資本がより近代的な新京に集中したため、奉天地下鉄の新線建設は伸びに伸びだ。


 その代りとして、日本の鉄道や街づくりを先行実験として満鉄線の一部を電化、ならびに近郊電車路線化する工事を実施するとともに、沿線の住宅地化を進めて居住人口の分散を図るなどの施策も行われた。


 こうした壮大な実験は、時に成功し、時に失敗するなど様々な先例を残し、より洗練された形で東京や大阪の都市計画や鉄道整備計画へと生かされた。


 一方奉天の地下鉄はその後も新線建設が新京や斉斉哈爾などで行われたために、実に15年以上も放置されたが、ようやく奉和3年(1961年)に2号線と3号線の建設が再開された。


 この間に日本国内の東京や大阪、名古屋などの地下鉄建設が大きく進歩し、奉天の地下鉄は総延長や輸送人員などではそれに及ぶべくもないレベルに引き離されてしまったが、この地下鉄が日本と満州の地下鉄史に残した功績は永遠の物である。


 21世紀に入った現在、総延長などでは後発の大韓王国や中華民国に追い抜かれたものの、中国大陸での地下鉄のパイオニアである満州の地下鉄は、時代の最先端を走り続けている。


 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 満州国の鉄道と言うと、満鉄の「あじあ号」を真っ先に思い浮かべるので、地下鉄は意外で面白かったです。 [一言] この世界では、新技術を使った鉄道車両は、満州国が先、日本が後、というパターンの…
[一言] 地下鉄で、きましたか 確かに、地下鉄は大きな防空壕にもなりますからね (浅いと意味ないけど) 此処では、台湾、樺太はどうなったんですか
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