瀬賀政久と緒方渚
ろうそくが照らす、薄暗がりの中。
密室の地下の空気は、どこか冷たい。
巫女の少女は、神棚に納められていた瓶を取り出し、中のものを三つの杯にくべる。
それを二人に手渡し、一つを「てとてさん」に手渡した。
「神酒です。お納めを」
一口飲むように、ジェスチャーで指示。
従った二人。彼女の方は、げほげほと咽た。
「ごせ、ごせ!」
てとてさんの声が高い。どうやら、彼女が咽たのを笑っているようだ。
不気味な風体のシルエットが笑う様に、二人は絶句する。
「がぜ、ぎぜ」
「お二人のお名前を、こちらに」
「あ、はい。……何でA4?」
巫女の少女が手渡した用紙。捻りも何もなく、妙に生活感に溢れるそれを手にとり、二人は名前を記入した。
男子生徒は、瀬賀政久。
女子生徒は、緒方渚。
書かれたそれを、巫女はてとてさんに手渡した。
「ぐす……がッ!」
「きゃッ!」「うわッ!」
何事か理解できない言葉を呟くと、てとてさんは次の瞬間、「燃えた」。
てとてさんの持っていた紙は燃え、締め切られた部屋全体が、白い霧のようなもので覆われる。
「ま、政久――」
「てめ、何なんだこりゃ……?」
混乱する二人の耳に、その声は聞こえた。
「これより、審議を執り行います」
響いた声は、巫女の声。凛としたその響に、二人の体が緊張する。
「今一度、名前をお名乗り下さい。儀式に入っております」
「……!」
巫女の言葉に身を硬直させる二人。
だが、おずおずと、先ほど書いた名前を名乗った。
「では、問いましょう」
二人は、自分たちの周囲で無数の視線が、己を見つめているような感覚を味わう。
「お二人は、祝福を望みますか」
「……はい、お願い、しますッ」
頭を下げる渚。政久は、彼女の言葉を受けて頷く。
「何を祝福されたいと望みますか」
「……私達の仲を。結婚して、子供生んで、安泰な家庭として暮らせるように」
「……あ、ああ」
一瞬、反応が遅れる政久。果たして、どうしたことだろう。
「双方、共に相違ないですね」
「はい」
「はい」
「なれば、これより「てとて様」に示してください。己が、相手に対する誠実さというものを」
てとてさんは、学校で噂されている通りのことを言った。
だが、続く言葉が二人にとっては想定外のものだった。
「――ところで、馴れ初めはどうなのですか?」
「は、はい?」
「え?」
思わず呆ける二人。巫女の声が「正直に話して下さい」と言う。
ややしばらく時間が経って、渚の方が、おもむろに口を開いた。
「……彼は、私を最低男から救ってくれました」
促す巫女に、彼女は続ける。
「元々、中学から高校に上がった時、一緒に来てた、恋人が居たんですよ。私。吾妻って言うんですけど。その時一緒だった男が、もう最低で。
最初は、物静かで本読んでて、頭もよさそうで。色々話していて、楽しかったんですよ。私にないことも色々言ってくれるし。
でも、いつからか段々と話題が合わなくなっていって。デートも誘ってくれなくなっていって。学校で話合わせるくらいになって。
一年生の後半に入る頃ですか。そん時に、こっちの政久と出会いました」
二人の手はつながれているため、彼女はどちらを向けば彼が居るのかが分かる。
右側に頭を向け、ふふ、と微笑んだ。
「吾妻が全然、私とデートもしなくなったって聞いたら、絶対女がいるって言って。俺が調べて、ボコボコにしてやるって言って。
でもとりあえず、その後に彼が吾妻のことを調べて。
最終的には、三人くらい引っ掻けてたって認めて、ボコボコにしてくれました。
その時ものすごく男らしくて、もう惚れてたのかもしれません。他人の彼女だった私のために本気で怒ってくれて、駄目男を矯正できるくらいに半殺しにして。
後は、変なこと言われて彼の評判を下げないために、一緒になってクラスメイトたちに手回しして、孤立させて、二次被害を出さないようにして。クラスこそ変わってませんけど、今でも、アイツに罰は続けてもらってます。
彼に対する不満点は……。男らしすぎてモテちゃうので、私以外に浮気しないか心配なくらいです」
彼女の猛烈な話を受けても、巫女はリアクションをとらない。
ただ、しばらく沈黙してから、確認するように言った。
「それは、彼の貴女に対する誠実さ、ということで宜しいでしょうか?」
「はい」
「では、瀬賀政久さん。貴方にも同じ質問をお聞きします」
政久は、一瞬反応が遅れてから、頷いた。
「渚が俺に示した誠実さ?」
「はい」
「……俺と付き合うまで、ずっと生娘だったことかな。
あ、いや、変な意味じゃなくって。軽い女じゃないっていうか、その」
しどろもどろになる彼に、巫女は反応を返さない。
「……今時、女なんてのは、ちょっとモテてる奴の言う事なら何でも聞いて、簡単に体を預けるような奴ばっかだって、友達も言うんで。俺、そういう女も男も本当に許せなくて。
だから本気で怒ったし、半殺しくらいして当然だと思うし。
少しくらいの慰謝料なら、当然でしょ当然。
だって、それはナギの権利だから。
ナギは、優しいからそんなことしないけど」
「政久……」
声だけで、彼女が蕩けているのがわかる。
が、これにも巫女は、感情のこもった反応を返さない。
「では、一つ。そのガサイさんという方が、声を引っ掻けていたという女性の名前を、覚えていればお答えください」
「へ? あー……。誰だったっけ。同じクラスの美野と、あと最近まだ見かける不破と……。覚えてない」
「そうですか」
平坦な声を上げると、彼女はす、す、と霧の中を動く。
神棚の前に彼女が跪いたのを、音とシルエットで二人は理解した。
「――かく、これ今日、今時、この森羅において、かくのたまうは、イザナギの方、瀬賀政久、イザナミの方、緒方渚、アメツチの方、代理に我が身我が知を預け、恵み卸したまわんことを―ー」
まあと、おしぃす、あめん――。
和語とも西洋語ともつかない言葉を繰り返し、彼女は頭を下げる。
――が・が・ぜ!
今まで聞いた事のないような、掠れた声が室内に響いた。
巫女は立ち上がると、二人に頭を下げた。
「……大変申し上げにくいのですが、儀式を中断した方が宜しいと思います」
「な、何で?」
渚の言葉に、巫女は続ける。
先ほどまでとは違い、真剣に、警告するよう繰り返す。
「――このまま帰ってください。今日のことは忘れて、静かに暮らしてください」
しばらく沈黙する二人。
しばらくして、政久が口を開いた。
「……続けよう。だって、俺たちはこんなにも愛し合ってるんだから」
「……政久?」
「大丈夫だって。俺が、お前を愛することに、変わりはないんだからさ」
「……わかった」
相談し合うと、二人は再度、前方に向き直る。
「お願いします」「お願いします」
「……はぁ。その言葉に、後悔はありませんね?」
一瞬、呆れたようにため息をつくと、彼女は再度、神棚の手前で膝を付いて、何事か呪文を唱え始めた。
――が・が・ぜ!
――が・が・ぜ!
同じ言葉が繰り返し響く。
次第に、手を繋ぐ二人の表情が曇り始めた。
――が・が・ぜ!
何度も何度も、おそらくてとてさんが言っているのだろうその言葉は。
――が・が・ぜ!
――が・が・ぜ!
まるで、何かを否定する言葉のように聞こえ――。
――が・げ・さ。
全く違う発音だというのに、二人の耳には等しく、その言葉の意味が理解でき――。
部屋のロウソク全てが、光を失った。
渚の悲鳴が上がる。自分の顔を覆ってしゃがみこんだためか、政久と手が離れる。
「な、ナギ――!」
彼女を抱きしめようと、中腰になって一歩、一歩と足を進めるが、一向に彼女と手が触れ合う事はない。
悲鳴は同じ方向から聞こえるのに、どういうことか。
「――神託が下りました」
厳かに、巫女の声が暗い室内に響く。
「お二人は、お互いに誠実さを示し合えませんでした。
よって、対価を頂きます」
「は、はぁ? 意味わかんねぇぞ、俺らは確かに――」
――まあ、だから女なんてのは単純なのだよ。
不意に、声が響く。
――お前もわかんだろ? 師匠とか呼ばれてっけど、結局女を落すには、相手に勝てそうなら寝取るのが一番簡単なんだよ。あらかじめ声かけて引っ掛けておくとかな? 相手に対していい印象を持たせておけば、なおさらな。
その声は、まるで誰かと話し合っているような言葉をつむぐ。
不意に渚は、政久の言ってた友達のことを思い出した。
――たとえば、あの二人だ。
だが、実際その言葉は、二人にとって聞き覚えのある声がしゃべっていた。
――いいねぇ、女の方。なかなか大和撫子みたいで、いいか? ああいう風に自分の表面をとりつくろってる奴に限って、自由を叩きこんでやると、充分乱れてくれるんだぜ?
一緒に遊んだら、さぞ飛ぶだろうなぁ。
その声の主は。
「政久……?」
「ッ! や、止めろ、誰だこんなの録音してた奴ッ!」
自分が墓穴を掘っていることにも気付かず、彼は声の方向を探す。
だが、どこでもない。
声は、間違いなく「部屋中」から響いていた。
言葉はまだ続く。
――いざとなったら、皆、声かければ手伝ってくれるさ。だって――ウチのクラス、半分はお手つきだからなぁ。
――ああいう女、落すのが、一番「気持ち良い」んだぜ?
「――政久ッ!」
ここに来て、決定的な一言を聞いた渚は涙声でも、激昂して立ち上がる。
だが、言葉はまだ続いた。
――ほら、どうだよ。これ、俺たちの写真。
絶句する渚だったが、声を止めることは出来ない。
――ひぃひぃ言ってたぜ? 泡噴いたりはしなかったけど、終わった後、ずっとべろ舐めあってよ。
で、いつものことだ。こいつをバラ巻かれたくなかったら、わかってるよな?
その声が、誰に対してのものなのか。いくら何でも彼女だって、気付かないはずはない。
――でも、お前も変わってるよなぁ。みんな俺の味方になって、追い詰められてるのに、自殺もしねーし。こうして俺等の財布になってるし。何だお前。マゾ?
政久の言葉に、「別な声」が答えた。
――興味ないよ。みんな。
でも、昔の僕だったら、きっと渚ちゃんは守るだろうから。
「…………ッ」
渚は今度こそ言葉を失い、その場に膝をついた。
言葉もなく流れる涙。しかし、誰に言われるでもなく、今この場で、彼が何事か口走った。
「……あ、あいつがいけないんだよ」
声を震わせながら、政久は独り言のように続ける。
「良い女つれて、あんな、ヘナチョコが。話しかけたら小さな声でしかしゃべれないくせに、そのくせテストの成績ばっか良くってよ。何が、『結婚したら良い職業の方が、渚ちゃんをやしなってあげられるから』だ。笑わせるなっつーの。
ちょっとボコしたら、認めたらボコすの止めるって言ってスマホのレコーダ動かして録音したら、あっさり落ちやがって。とっとと消えろ。
あいつなんか、とっとと首吊るなり窓から飛び降りるなりして、この世から永久退場しろってんだ」
はは、ははははは――。
渇いた声で笑う政久。
その声には、侮蔑と呆れと、嘲笑と、わずかに嫉妬が入り交じっていた。
それ以上の言葉を発せない。そんな状況で、巫女の声が無慈悲に響く。
「――では、対価を徴収しましょう」
「ッ!」
気が付けば霧が晴れ、足元にはロウソクの明かりが灯っていた。
そして政久の両手は、てとてさんに掴まれて居た。
「な、何だよコイツ――!」
「ががす、ががす」
しゃがむような姿勢から、動けない政久。足で蹴ってもびくともしないてとてさん。
巫女は、仮面についていた二枚の羽根を外した。
それは、羽根ではなかった。
刃が羽根のような形状になっている、大きな鋏だった。
「ご、さ!」
てとてさんが、突然手を持ち上げる。
すると、どうだろう。政久の手の位置は変わらない。変わらないが――。
てとてさんが握るのは、政久の両肩から出現している、半透明な腕であった。
「な、何だ、こりゃ!?」
「ごさ」
ぐきり、とその両手の薬指を、てとてさんは捻った。
丁度、他の指を折りたたみ、薬指だけが出ているような状態だ。
よく見れば、その指は両方とも、複数の赤い糸が絡み合っているようであり――。
「や、やめ――」
「では頂戴いたします。貴方の――”良縁”」
てとてさんがつかまえている薬指の根元を、巫女は、手に持った羽根鋏で切断した。
ぽとりと地面に落ちた二つは、真っ赤に凝固し、物体となった。
「な、ナギぃ……」
涙を流す彼に、彼女は、今までのべたべた具合が嘘のように、覚めた目で言った。
「キモい」
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