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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第一話「ミチルの幸せな結婚」
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幸せな夫婦1

 昼食を済ませたミチルは、ジルの介添えを受けて入浴し、晩餐会に相応しいイブニングドレスに着替えた。

「お嬢様のお色に合わせ、つくらせました」と誇らし気なジルが用意したのは、濃い青地に金糸で薔薇の花をいくつも咲かせた、ラピスラズリのようなエンパイアドレスだった。朝露のように小さなクリスタルが散りばめられている。

 腰から脚にかけての曲線にぴったりと張り付き、踝の上あたりで花のようにひろがる意匠は、着てみると、人魚のシルエットを彷彿とさせた。

 ローブデコルテは、首元が寂しくなりがちなので、装身具として、黒いチョーカーを品良くあわせる。細かな模様が編みこまれたレースのアームロングを両手に嵌めて、柔らかい白薔薇の刺繍が施された白い眼帯をかける。長い前髪を横に流し、さり気なく眼帯を覆い隠した。眼帯の紐は、リコリスを模した花飾りで隠す。

 出来上がった晴れ姿を鏡にうつして、ミチルはうっとりした。


「さすがはジルね。細部に至るまで趣味が良いわ。……けれど、装身具をもっと凝って、飾り立てた方が良くないかしら」


 とミチルは提案した。そうすれば、隠した顔の左半分顔から、注意が逸れると思ったからだ。

 ところが、ジルにきっぱりと否定された。


「ごちゃごちゃ飾り立てる必要は御座いません。お嬢様の美しさを引き立てるのですから、主張しすぎる飾りは、うるさいだけなのです」


 ジルがそう言うのなら、そうなのだろう。

 やや無理をして納得したミチルを一人残して、ジルは部屋を辞した。施錠の音を聞きながら、時計の文字盤に目をやる。常にシャンデリアの灯りで照らされるミチルの部屋で、時間の流れを知る唯一の術である。


 ジルは、色々な支度があって、ミチルに付き添っていられないのだと言う。三時間もひとりきりで過ごす待ち時間は、ミチルの緊張を否が応でも高めた。

 落ち着かず、長椅子に腰かけたミチルは、悶々としていた。


(『お初にお目にかかります』はだめ。ほとんど覚えていないと言っても、初めてお会いするのではないのだから、失礼にあたるわ。『ご無沙汰しております』もだめね。旦那様は、何かお考えがあって、わたくしを訪ねられなかったのでしょうから。……となると『お久しぶりで御座います』が、無難かしら。結婚については、触れるべき? いえ、それは、女から言い出すことではないわね。旦那様が仰ったら、答えればいいのだわ)


 何事も、初めが肝心である。熟考の末捻り出した、千篇一律のつまらない挨拶を、何度も口の中で反芻した。

 そうこうしていると、ぽーん、ぽーんと、のどかな時告げの鐘が、常にはない厳しさをもって響き渡る。約束の時間になった。

 時告げの鐘の、最後の一打が鳴り終えるのを待っていたように、解錠の音がした。


 ミチルは、弾かれたように立ち上がる。扉が開かれた。

 料理と食器を載せたワゴンが、部屋に入ってくる。ミチルは、目を瞬いた。肩すかしを食らい、失笑する。


「ジル。嫌だわ、驚かせないで頂戴……」


 ほっと緩めた緊張の糸は、青い鳥の大柄が入室したことで、ちぎれんばかりに、ぴんと張り詰めた。揺り返しが激しくて、気が遠のきかける。


(ご自身で運んでいらっしゃるなんて、自立精神が旺盛でいらっしゃるのね。頼もしい旦那様をもって、幸せだわ)


 半ば現実逃避のように考えながら、ミチルは無様にも泡を食ってしまった。ウサギのように跳ねて進み出ると、青い鳥の方をろくに見もしないで、ドレスの裾を軽くつまみ、腰を落としてカーテシーをした。


「ごきげんよう、お父さま」


 するりと滑り落ちた言葉は、頭蓋を伝い、脳を激震させる。ミチルは、はっとして両手で口を押えた。


(なんてこと! ああ、ジル、どうしましょう。早速、あり得ない間違いを犯してしまったわ)


 青い鳥は、ミチルの無作法に飽きたように目をくれず、扉を静かに閉じた。尾羽をマリアヴェールのように引き摺り、ワゴンを押して、テーブルの前に運ぶ。

 石膏の化面のように白い顔が、ここで初めて、ミチルに向けられた。大きな嘴は苦労して、不明瞭な言葉を発した。


「ゴキゲンヨウ。我が愛しキ、青ノ宝」


 黄金の双眸が、憚ることなくミチルを見つめている。慎ましく目を伏せることを忘れて、ミチルは、その威容に目を釘付けにされていた。シャンデリアの灯りが、青い羽根に揺らめいている。


 ――炎に揺らめく輝殻。水面に揺らめく輪郭。


 青い鳥の黄金の双眸は、あの夜の無慈悲な月とよく似ていた。白々と冷笑する月光が照らし出すのは、火葬される街並みと、髪を振り乱し泣き叫ぶ、女の狂態。


 ――体を包むぬくもりが、消えていく。冷たい腕が、わたくしを捕えて離さない。


 逃げろ、とチルチルが叫んだ。切迫した響きに、ミチルは身を竦ませる。チルチルは、ミチルをきつく抱きしめて、はなさない。


『ごめんよ、ミチル』


 チルチルは、ミチルに耳うちした。


『君を、幸せな女の子にしてあげたかった。でもそれは、僕のひとりよがりだったんだね』


(いいえ、お兄さま。わたくしは、幸せな女の子です。お兄さまがいて下さるもの。わたくしは、お兄さまと二人、いつまでも一緒にいられるのなら、他に何も望みません。

 ねぇ、お兄さま。一緒にいてくださるでしょう? だって、約束したもの。わたくしたちは、ずっと一緒なの。わたくしは、お兄さまをはなさないわ)


 チルチルは、浅い呼吸を繰り返している。呼気に絡めて、ミチルの大切なものがどんどん失われていくようだった。それをとめたくて、ミチルは、チルチルの紫色の唇の口付けた。


 甘い。これはきっと、恋の味だ。こんなにも甘美なものを、ミチルは、今まで味わったことがない。

 もっと欲しい。さもしく口づけを深めようとするミチルの顔を、チルチルは引き剥がし、胸に抱きこんだ。むずがるミチルの髪を撫で、チルチルが吐息で囁く。


『僕は、君のことを何もわかっていなかった。僕のしようとしたことは、所詮、恵まれた者の傲慢でしかなかった。お父さまのことを、とやかく言う資格は、僕にはないのだろう。ごめん、ごめんよ、ミチル。許して欲しいなんて言えないけれど、やはり、許して欲しい。君は、僕の愛しい妹だから』


(許します。許します、お兄さま。あなたが喜ぶのなら、なんだってして差し上げたいの。泣きたいくらいに、あなただけが愛しい)


 チルチルがミチルを、強く抱きしめる。チルチルの腕は、鎖のように重く硬く、ミチルを縛り付けた。チルチルの掌より硬いものが、ミチルの後頭部に押し付けられる。


『これからは、ずっと、一緒にいる。お兄さまが一緒だから、怖くない。寂しくないからね』


 ――乾いた破裂音。火薬と、火の臭い。死に至る痛み。


「いやぁぁぁ!」


 幻痛が左目を貫く。ミチルは、絶叫した。断ち切られたように、理性の糸がふっつりと途切れる。


(この痛みは、なに? 過去? 妄想? それとも今のもの?)


 傾いだミチルの体を、青い鳥の力強い腕が抱きとめた。眼帯を掻き毟っているミチルの左手を、三本指が掴んでいる。

 確かな腕の感触は、ミチルを現実にひき戻した。青い鳥の腕の中は安全だと、本能が告げている。とても、安心する。


 青い鳥は、ミチルを長椅子に腰かけさせた。三本の長い鉤爪が器用に、黒いボトルの中身をグラスに注いで、ミチルの口元へ近づける。

 ミチルは、小さく礼を言って、グラスに手を添え、唇をつけた。赤い液体の美味が、ミチルの揉みくちゃになった心を静めていく。


「気分ハどうカ?」


 青い鳥の声は、とても優しい。その優しさは、冷たい鉱物の温もりのように不自然だが、嬉しかった。ミチルは、小さく頷いた。


「よろしゅうございます」


 先触れもなく湧きたったミチルの心は、水を差したように鎮まっていた。ついさっき、我が身に起こった不可解な現象が、ミチルには、まるで対岸の火事のように思われる。

 けれど、さしつけに発狂しかけて、青い鳥に心配をかけたのは、まぎれもない現実だった。


(旦那様の御前で、とんだ大失態を演じてしまったわ。ばかなミチル。ジルが一緒にいてくれないのが、そんなに不安だったの?)


 もっと飲みなさい、とグラスを傾ける青い鳥から、グラスを受け取る。ミチルは恐縮して言った。


「申し訳ございません、お手間をおかけいたしました」


 青い鳥は、軽く肩を竦める。羽根が触れ合い、しょうしょうと涼やかに鳴る音は、金管楽器の音のようだった。


「この姿ガ、恐ろしいカ?」


 ミチルは、サファイアの鉱脈のように、こんもりとしている青い鳥を見上げた。

 神の虚像の如き、荘厳な美の化身である。数種の鳥の特徴と、蟲の手足を併せ持ち、羽根の一枚一枚が、サファイアより美しい、青い鉱石で出来ている。


(恐ろしい、のかしら? こんなにも美しいから?)


 ミチルは、漣の立つグラスの中身に目を落とした。


「わたくしには、美々し過ぎて」


 その応えの正誤が、ミチルにはわからなかった。ミチルが明確な答えを持たないことを、青い鳥は、察してくれた。追求しようとは、しなかった。


「食欲ハあるカ?」

「ええ」

「今宵の糧ヲ頂こう」


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