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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第一話「ミチルの幸せな結婚」
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お嬢様と執事3

 ジルは、思いがけず早く動いた。

 ぱりっとした眩いばかりのリネンをかけたテーブルに、きらきら輝く銀器とクリスタルを並べながら、ジルは言った。


「お嬢様のご意思を、青い鳥にお伝え申し上げました。それはもう、たいそうお喜びになりましてな。今晩さっそく、お嬢様のご機嫌伺いにいらっしゃるとのことです」


 ジルは、とってきた手柄を主人に差し出す飼い猫のように、誇らし気である。

 ミチルは、フォークに刺した肉を口に運んだ。血の滴る肉の脂は、舌の上で蕩け、つるりと喉を滑って胃に落ちる。ナプキンで唇を拭い、小首を傾げた。


「こちらにお見えになるということかしら?」

「左様に御座います。夕食を共に、との仰せです」

「どうしましょう……上手にお持て成し出来るかしら……」


 ジルは、布で包んだ黒いボトルを傾け、ミチルのグラスを深紅の液体で満たした。グラスを揺らし、芳しい香りを楽しむミチルのため息が、水面に波紋を投げかける。ジルは、朗らかに微笑んだ。


「ご心配召されるな。お嬢様はただ、おっとりと微笑んでおられればよろしいのです。私など、お嬢様の幸福なご尊顔を拝すれば、身に余る眼福に預かりまして、日々の活力が湧いて参ります」


 ジルの雄弁な唇から、賛辞が滔々と溢れる気配を察して、ミチルは「ありがとう」の一言でその先を封じた。グラスに口を付け、喉を潤す。芳醇な香りが鼻から抜けていく。唇をナプキンで拭い、言った。


「わたくしの緊張が伝わってしまったら、お父さまに安らいで頂けないものね。肩肘を張らず、わたくしは、いつもの通りの自然体で、お父さまをお迎えします」


 ジルは、ミチルのグラスを流麗な所作で満たしつつ、目で頷いた。


「それがよろしいでしょう。ときに、お嬢様。恐れながら申し上げます」

「なにかしら?」

「青い鳥はもう、お嬢様のお養父上では、あらせられません。お嬢様の旦那様であらせられるのですよ。どうか、お間違いのなきように」

「そうだわ。気をつけなければね」


 ジルに指摘されるまで、ミチルはちっとも、違和感を覚えていなかった。心の中で、そっと呟く。


(いけませんわね、お兄さま。ミチルのそそっかしいところは、昔から変わらないようです)


 不安を少しでも軽くしたくって、ミチルはジルに言った。


「ねぇ、ジル、お願いよ。もし、わたくしが何かおかしな真似をしたら、それとなく嗜めて頂戴ね。旦那様に失礼があってはいけないもの」


 肉をじっくりと咀嚼嚥下して目を上げると、ジルは細い眉を八の字にしていた。


「それは、致しかねます。夫婦水入らずの時間は、人払いをせよと、青い鳥は仰せなのです」


 かちん、とフォークが皿の縁に当たって甲高い音を立てた。とんだ無作法をしてしまったミチルは、ジルの諫言に被せて、素っ頓狂な声を上げた。


「ジルは、傍にいてくれないのっ?」


 ジルの眉間を、葛藤が過った。はしたない振る舞いを窘めるべきか、驚愕を和らげ静めるべきか。結局、ジルは後者を選び、苦笑を刻んで顎をひいた。


「申し訳御座いません、お嬢様」


 ミチルは、ほとんど落とすように、フォークとナイフを皿に置いた。頬を両手で挟み、わが身の悲運を愁嘆する。


「そんな……ジルが一緒ではないなんて、青天の霹靂だわ……天井が落ちて、床が抜け落ちたみたいよ。わたくしは、無防備なままで奈落に突き落とされてしまったのだわ」


 ジルの取り成す言葉は、ミチルの耳に入らない。ミチルは、迷子のように途方に暮れて、おろおろしていた。


「ああ、いけない、いけないわ。緊張してはいけないのに、緊張してしまうわ。どうしましょう、どうしたらいいのかしら……」


 うんうんと呻吟するミチルの肩を、揺すり起こすようにして、ジルは努めて明るくミチルを励ました。


「お嬢様、どうか、お心お鎮め下さい。お嬢様は、完璧な淑女であらせられます。お心を強くお持ちになれば、何の問題も御座いません」


 ミチルは、椅子に座ったままくるりと転向する。溺れているかのように、ジルの腕に縋りついた。


「ねぇ、ジル。ご本で読んだ通りにすれば、間違いないかしら?」

「本?」


 ジルがひょいと片眉を跳ね上げる。ミチルは、ジルの機嫌をとるより、記憶の資料をひっくりかえすのに忙しい。


「ええと、愛すべき女の振る舞いは……そうだわ。まず、殿方の傍に寄り添い、退屈でも、楽しそうににこにこ微笑んで、お話に相槌をうつのよね。 

 おしゃべりな女は好まれないから、何を言われても、はにかんで笑うにとどめるの。……そうそう、さり気なく殿方の腕に触れてみるのよ。脈がなければ、はっとした素振りで身を離し、恥じ入って俯く……あるようなら、無邪気に大胆に、腕に抱きついて……脈? ということは、手首をとって、はからなければならないのかしら? 

 ええと、それから、それから……殿方がしきりに咳払いしたら、上目づかいに殿方を見上げるのよね……瞬きは我慢して、目を濡らしておくんだったわ。

 この時に、ぱちぱちと瞬きをして、潤んだ目を強調する。殿方が、ごくりと喉を鳴らされたり、お顔やお耳を赤らめられたりしたら、最後のひと押しね。殿方のお胸に飛び込んで『今夜は、はなれたくない』と熱く囁く……まぁ、ジル。あなたったら、何をしているの?」


 ジルは、無言でつかつかとシェルフに歩み寄ると、いけぞんざいに本を漁った。素早く一冊の本を探し出す。目当ての頁を見つけると、ミチルの顔の前で、引き裂いてしまわんばかりの乱暴さで開いた。文字列のほとんどが、黒く塗りつぶされている。

 ジルは、眉間にありったけの険を刻んで、呻るように、言った。


「黒で塗り潰してありますのに、どのように、お読みになりました?」


 その本に綴られているのは、悲しい恋の物語である。

 人魚族の末姫が、嵐で海に投げ出された王子の命を救い、恋に落ちる。しかし、人魚は半人半魚の怪物。人とは相いれない運命にあった。そこで人魚姫は、深海の魔女に頼み込み、鰭を足に変える魔法に薬を、美しい声と引き換えに手に入れる。

 ジルが黒く塗りつぶしていたのは、王子の心を射止める為にと、魔女が人魚姫に、とっておきの知恵を授ける長台詞である。

 ミチルは、なんてことないのよ、と種明かしをした。


「こう、角度を変えて照らすとね、塗り潰された文字が浮かび上がるの」


 ミチルがとめる暇もなく、ジルは無情にも、その頁を破ってしまった。「ああ、なんてこと」と、ミチルは茫然とする。くしゃくしゃに丸めた頁を仕着せのポケットに突っ込み、ジルは、懇々と諭すように、あるいは、切々と哀願するように、言った。


「よろしいですか、お嬢様。それは、魔女の知恵です。薄暗い世界で生きる女性の知恵、魔女が教えるのは、夜の姫君の振る舞いに御座います。お嬢様がそのように振る舞って御覧なさい。青い鳥は、卒倒してしまいます。二度と、目覚めることが叶わぬかもしれませんぞ。もはや寡婦におなり遊ばされたいのですか」


「まさか、そんな」と笑い飛ばすには、ジルが真剣過ぎる。ミチルは、しどろもどろになって言った。


「とんでもないわ。悲しいし、困ってしまうわ」

「ならば、おやめ下さい。絶対に」


 ジルは、疲労困憊した様子で、長い息を吐く。ミチルは、しょんぼりと肩を落とした。


「ねぇ、わかってくれるでしょう? このようなことがあるから、心配なのよ。あなた、どうにかして、お部屋に残れない? ほら、あのクロゼットに隠れるとか、寝台の下に隠れるとか」


 ジルが隠れるには、ミチルの部屋の家具は、どれも華奢過ぎるきらいが、確かにある。けれど、手足を折りたたみ、体を縮めて、無理な体勢で窮屈なのを我慢出来れば、なんとかなるかもしれない。

 苦し紛れのミチルの発案を、ジルはすっぱりと切り捨てた。ジルは「困ったわ、困ったわ」とおろおろするミチルを長椅子に座らせると、足元に跪いた。


「青い鳥は、少しばかりの奇行には、目を瞑るでしょう。目に余るようなら、ずばりご指摘くださいます。なに、ご心配には及びません。青い鳥は、お嬢様を深く愛しておられます。構えず飾らず、のびのびと振る舞われればよろしいのです」


 そんな、とミチルは震えあがった。ジルの言葉は好意的な分、何の根拠もない、無責任なものに聞こえたのだ。


「旦那様に寡聞をご指摘されるなんて、恥ずかしくて死んでしまいそう。わたくしにものを教えてくれるのは、あなたじゃなければ、いけないわ」


 ジルは、はっきりと当てつける溜息をついた。萎縮するミチルの膝に手をのせ、頑是ない幼子に噛んで含めるように、言う。


「よろしいですか。よく、お聞きください、お嬢様。私は執事です。使用人の分を超えることに、嘴を挟むわけにはまいりません。お嬢様は、青い鳥に嫁がれたのです。いずれ、青い鳥と結ばれる日が来るでしょう。その先のことは、青い鳥に教わることになるのですよ。今から、青い鳥に教えを請うことに、慣れなければなりません」


 寝台に流れたジルの視線をたどって、ミチルは小首を傾げた。


「あなたが寝台の下に潜んで、こっそりと教えてくれるわけには、いかないのかしら」

「お嬢様!」


 ジルの声が、下手な笛の音色のようにひっくりかえって、宙返りする。びくりと跳ねあがったミチルは、胸を押えて目を瞬かせた。


「なぁに? いきなり大きな声を出して。ああ、驚いた。まだ胸がドキドキしているわ」

「私は、心臓がとまるかと思いましたよ……」


 天井を仰いだジルが、間延びした声でぼやく。大きく鼻息をつき、とにかく、と、話を結ぼうとした。


「ご心配には及びません。私がいなくても、青い鳥がいらっしゃいます。最初は戸惑われることも多いでしょうが、きっとすぐに、打ち解けられると思いますよ」

「そうかしら……」


 そうですとも、とジルは力強く頷く。まるで自分のことのように、絶対の確信をもっている。

 心配が消えないミチルの愁い顔に、ジルの掌が触れた。ジルは、愛情深い眼差しでミチルを抱擁して、莞爾とほほ笑む。


「大丈夫です。きっとうまくいきますとも。お嬢様は、この従僕奴に信を置いて下さるでしょう?」

「もちろんよ」


 考えるまでもなく、こっくりと頷くことが出来た。ミチルにとって、ジルこそが、生れて初めて出会う父親だ。ジルは、凪のように穏やかで、どこまでも続く愛情で、ミチルを育んでくれた。


 父親という言葉が鍵となり、心の鍵穴にぴたりと嵌る。チルチルの言葉が、記憶の底から飛び出した。


父子おやこなんて』


 この時に限って、チルチルの話し方は、乱暴で、投げやりで、唾を吐き捨てるようだった。


『知っているかい、ミチル。ユキクマのオスはね、恋の季節になると、恋に狂ってしまう。目を付けたメスが連れている仔クマを殺して、メスを自分のものにしようとするんだ。例え、それが我が子でも、殺すことがあるそうだ。男というものは、目先の欲に囚われる、愚かしく悲しい存在なのかもしれないな』


 自嘲気味に言うチルチルの綺麗な横顔が、淀んだ感情でくすんでいたのを思い出す。あれは、チルチルに抱かれ、美しい部屋から連れ出されるあの日より、少し前の出来事だったように思う。


 ミチルは、瞬きをして追想の部屋の扉を閉めた。ジルが真剣な話をしているのに、どうして、ぼんやりと物思いにふけられるだろう。

 ジルは、眼帯の上からミチルの目をそっと撫でていた。ふつうなら、そんなことをされたら、飛び上がって手を払いのけてしまうところだ。

 ジルは、繊細な部分への触れかたを、心得ている。ミチルはジルの手になら、例え心臓であっても、安心して委ねることが出来た。


「大丈夫。何も心配は御座いません」


 ジルはそう言うと、微笑みでこの話を締めくくった。追尋は必要ない。さらに不安がっていては、ジルの忠誠と献身を、疑うことになってしまう。


(ジルが大丈夫と言うのだから、大丈夫だわ。なにも、心配しなくていい。こんな忠義者の従僕をもって、わたくしは、なんて幸せなのかしら)


 ミチルは、ジルの手に手を重ねた。ジルの指を通じて眼帯に触れて、目を伏せる。


「眼帯は、外していた方が良いでしょうね」


 青い鳥は、ミチルの左目を、いたく気にいっている。ミチルは、目にうつすことすらおぞましいと思っているが、隠さずに見せていた方が、きっと喜ばれる。

 ジルは、お嬢様。と感嘆のため息を落とした。


「お嬢様のいじらしいお心を、青い鳥は愛されるでしょう。しかし、ご無理をなさってはいけません。青い鳥は、無理にお嬢様を暴こうとお考えではないのです。この十年間、辛抱強く待っていらっしゃったお方ですよ」


 甘やかされていることを、ミチルは自覚した。ジルも、チルチルも、ミチルを甘やかす。甘い甘い、愛情のシロップに漬けこんで、ミチルをふやかしてしまう。脆くなる心を抱えて不安に思うことは、贅沢な悩みだろうか。


(平気よ、ミチル)


 ミチルは、ジルの掌に頬を擦りつけて、目を閉じた。


(ジルは、わたくしのお父さま。ジルも、そう思ってくれている。だからこそ、わたくしと素晴らしい旦那様を引き合わせてくれた。親子なら、愛し愛される。注ぐのも注がれるのも、等しい愛の筈だわ)



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