お嬢様と執事2
ミチルは衣摺れの音をたてずにそっと立ち上がる。しずしずと歩き、シェルフの前に立つ。うっとりするくらい、ずらりと並んだ本の背表紙を指でなぞって言った。
「このご本にあるような、素晴らしい紳士よ。由緒正しい青い血の流れる、地位も名誉も財もあるお方でね。もちろん、お人柄も申し分ない、篤志家でなければいけないわ。背は高くて、逞しい腕と胸でわたくしを受け止めて下さると尚良いわね。お言葉になさらなくても、愛情深い眼差しでわたくしを見守って下さるの。お空のようにひろいお心と、強いご意志で、わたくしと生れてくるわが子をお導き下さるのよ」
お顔は、優しいチルチルお兄様によく似ていらっしゃると、もう言うことはないのだけれど、と心の中で付け足す。
ジルが化粧箱の蓋を閉める、ぱたんという軽快な音がした。続くジルの言葉は、正反対の重苦しい声色で紡がれる。
「方々手を尽くし、候補となる紳士をお探し申しておりますが……」
「まぁ、そうだったの? ありがとう、ジル。それで、良きお方はいらっしゃる?」
ジルの思いもよらぬ告白を受けて、ミチルは体ごと振り返る。ジルは腕組をして首を捻っていたかと思うと、当惑したように頬をぽりぽりと掻いた。
ジルはたまに、こういう、尊大な振る舞いをすることがある。しかし、品位に欠けることはない。ひょっとすると、ジルは良家の子息で、さらなる上流家庭に奉公に出ているのかもしれない。
ジルが難しい顔つきで語りだした。
「それが……大変申し上げにくいのですが……お嬢様の理想の紳士は、なかなかいらっしゃらないのです」
「まぁ、そうなの? ご本の中には、あんなにたくさんいらっしゃるのに?」
「申し訳御座いません、お嬢様……お嬢様のご期待に報いることが出来ず、面目次第も御座いません」
ジルが悄然として項垂れる。ミチルはまぁ、と失言をした口元を両手で覆った。
「ごめんなさい、あなたを責めているのではないの」
「……なんと……この不甲斐ない従僕に御慈悲を御恵み下さるとは! なんとお優しいのでしょう、ミチルお嬢様」
くぅっ、とうめいたジルが袖口で乱暴に目許を拭おうとして、眼鏡を弾き飛ばす。ミチルはまぁまぁ、と笑って、眼鏡を拾い上げた。恐縮するジルに手渡す。
ジルの赤く染まった怜悧な目許を見つめて、ミチルはもしかしたら、ジルは伊達眼鏡なのかしら、と思った。さっきのように、眼鏡をしていることを忘れたように振る舞うかと思えば、今のように、しきりに気にして弦をいじっていることもある。
ジルは立て板に水でぺらぺらと喋っている。
「お嬢様はお優しいお方で御座います。しかしながら、青い宝石と称えられるお嬢様ともあろうお方が、床に落ちたものを拾い上げるなど、なさってはなりません。そのようなことはこのジルにお任せ頂ければ、例え落し物が地の獄にあろうと、持ち帰ってご覧に入れます」
青い宝石のようだと称えているのは、ジルだけだ。当節のミチルの姿を知る者は、ジルしかいない。ミチルは弁舌がにわかに熱を帯びるジルを宥めて、訊いた。
「ねぇ、ジル。わたくしの理想は、高すぎると思う?」
「いいえ。お嬢様ほどの淑女が嫁がれるのですから、それにふさわしき紳士をお求めになることは、当然のことに御座いましょう」
ジルが間髪いれずにこたえる。ミチル至上主義の従僕ならばそう答えるだろうな、とおおよその当たりはつけていたが、ミチルは目を伏せた。
「わたくしは、あなたが言ってくれるような、たいそうな女ではないわ。とうがたってきたし、可愛げのない背丈だし、貧相な体つきだし、何よりも、左目がこうだもの……」
ジルが引き連れた声を上げる。何処からともなく鏡を持ち出して、ミチルの前に差し出した。
「何を仰います。よくよく御覧なさいませ、お嬢様はお美しいのです。まだ十八歳、花も恥じらうお年頃です。すらりとしたお体の過不足ない造形美は、お見事としか言いようが御座いません。とくにお顔は輝石のようにお美しい。その美貌をお持ちになって、どうして引け目を感じられるのです」
「ありがとう、ジル。けれど、知っていて? それは欲目というものなのよ」
ミチルはついと鏡を追いやった。言ってから、意地悪な言い方をしてしまったかしら、と後悔が頭をもたげる。顔を上げると、ジルの切れ長の目がカミソリのように鋭くなっていた。ジルは、ミチルがたじろぐような低い声で言う。
「それは、悪い言葉に御座いますな。どの本でご覧になりました。塗りつぶさせていただきます」
ミチルはシェルフを背に庇った。ジルがいつの間にか、黒インクの瓶とペンを携えてじりじりと間合いを詰めてくる。ミチルは、ふるふると首を横に振った。
「ジル、もうやめて頂戴。黒塗りばかりのご本なんて、読んでいても意味がよくわからないわ」
「お嬢様は、下賤な悪口言いどもの言葉になど、触れてはなりません」
「わたくしは、ご本を読むのが好きなの」
ジルは苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「詩集に散りばめられた美しい詞を拾い集められるのも、生物学や考古学の文献などで知識を身につけられるのも、結構なことです。しかしながら、抑圧された下賤な輩が、物語と称して塗りたくった、妄想空想に触れられるのは、どうにもこうにも……。お嬢様の清らかな御心が汚されるのではないかと、差しでがましいことは承知の上で、心配申しているのです」
ジルは憤懣やる方なしと溜め息をつき、声のトーンを落とした。
「私がお嬢様を賛美申し上げていると言うのに、お嬢様がご自身のご容姿の美しさを、一向にお認めにならない。これらがもたらす悪しき物差しがそうさせているに違いないのだ」
そうではないのよ、とミチルは言った。ここに来た頃にはもう、ミチルは己の醜貌を恥じていた。
ところがジルはミチルの話に聞く耳を持たずに、本のせいにしている。ジルは前々から、ミチルが物語を読むことに反対してきた。
これらの本は元々、この屋敷にあったものだ。ミチルに強請られた他らならぬジルが、書庫から持ってきてくれたのだ。詩集や図鑑ばかりだったレパートリーに不満を唱えて、物語を所望したのは、ミチルである。
ジルはいい顔をしなかった。ミチルに押し切られる形で、渋々、持ってきてくれた。しかし、ジルの厳しい検閲にかかると、物語は虫に食われたようになってしまう。
世間で、学や思想は女にとっての毒にしかならないと言われていることを、ミチルは本で読んで知った。ジルは、その文言を塗りつぶさなかったから、その考えに異を唱えるつもりは、ないのだろう。小賢しい女は、紳士にうとまれる。幸福な結婚から遠ざかってしまう。ジルは、それを心配してくれているのだ。
それでも、とミチルは上目づかいにジルを見た。
「ジル、ごめんなさい。わたくしは、物語を読むことをやめられないわ。お優しいお兄様との、大切な思い出なのだもの」
チルチルはミチルが喜ぶ物語をすすんで読みきかせてくれた。チルチルの優しい腕の中で、優しい声で読み聞かせられたから、ミチルは物語を読むたびに、ゆりかごでまどろむ赤ん坊のように、安心できるのだろう。それは刷り込まれたことで、今更変わることではないと思う。
ジルにも、わかっているはずだ。物語を読み聞かせてやらないと、幼いミチルは悪夢に魘され、真夜中に悲鳴をあげて飛び起きていたから。
幼い頃、忘却は生れたばかりでまだ弱く、悪夢は現実の痛みを伴っていた。
悪夢と言えば、とミチルは話題をかえた。これ以上、本の文字をつぶされてしまうのは惜しい。
「そうだわ、結婚だわ。どうしましょう」
切実な問題である。
ミチルは今、とても幸せだ。しかし、メーテルリンクの娘として、最たる幸福は素晴らしい紳士との結婚の先にある。結婚をしなければ、約束通り、ミチルはチルチルに囚われてしまう。暗く狭いところに閉じ込められて、飼い殺しにされてしまう。
困ったわ。とミチルは呟いた。すると、ジルが、右手の人差指をぴんとたてた。ひとつだけ、方法があるという。
「おひとりだけ、お嬢様の理想に叶うやもしれぬ紳士がいらっしゃるのです。そしてその紳士は、お嬢様に心をうつしておられます」
渡りに船だ。ミチルは顔を輝かせた。
「まぁ、本当に? そんな素晴らしいお話があったのね。どんなお方なの?」
ジルは、ごほん、と咳払いをひとつした。
「お嬢様の養い親であらせられる『青い鳥』です」
ミチルは、目を見開いた。
「お父さま……?」
ミチルの脳裏に陽炎のように浮かぶ、恐ろしい火の記憶。飢餓の地獄から、ミチルを救い出した青い鳥の姿は、忘却の霞がかかり、おぼろげになっている。
ハルメーンの戦禍にまつわる一連の記憶は、霧の向こうのように曖昧だ。それ以来、姿を見せない養父、青い鳥は、ミチルからすると、知らないひとと言っても過言ではない。
ジルは、今一度、咳払いをした。喉に閊えた何かを落とそうとするように、しきりに咳をして、言った。
「お嬢様に御結婚の願望があると申し上げると、青い鳥はすぐさま、御自分を候補にあげました。御自分こそが、ミチルお嬢様の最良の伴侶になり得るとの仰せです。
ですが、青い鳥には、懸念がございます。お嬢様より、だいぶ年嵩でいらっしゃいますし、天使でいらっしゃいますから、お嬢様に嫌がられるかもしれないと」
ミチルは口元に手をやって、考え込んだ。
青い鳥は使徒座の貴族、天使だ。高名な篤志家でもある。ミチルに何不自由ない暮らしをさせ、なおかつ、他の孤児たちを養う財がある。人柄はわからないが、御立派な方です、とジルは言った。
ミチルはぼやける記憶に心の目を凝らした。青い鳥は、血で汚れ、やせ細ったミチルを腕に抱き、こう言っていた。
『なんと美しい。お前のような『青色』を、ずっと探していた。この『青い鳥』に相応しい美しい『青色』だ』
ミチルは、眼帯越しに左目にそっと触れた。疼痛が脳を痺れさせる。
ハルメーンにいた頃はご主人様の意向によって、左目を隠すことは禁じられていた。青い鳥と出会ったとき、ミチルは裸だった。醜い左目を隠すものは、なにもなかった。
チルチルに読み聞かせて貰った物語を思い浮かべる。女の子たちは、みんな、王子様に見染められて、幸せになっていた。女の子は、尊い人に愛されることで、幸せになれるのだ。
ミチルは、心を決めた。
「こんな素晴らしいお話を、どうしてお断りするのかしら。喜んでお受けしますと、お伝えください」
ジルが、瞠目している。ミチルがこの縁談を蹴ることを、確信していたみたいな反応だ。養父と結婚することは、そんなにおかしなことなのかしら。と不安になったミチルは、おろおろした。
ジルはゆっくりと瞬きをする。動揺は、砕かれてなくなっていた。
「よろしいのですね、お嬢様」
重々しい声だ。この選択が、ミチルの運命を切り替えるポイントだと、神の啓示をうけた気がした。
ミチルは、一瞬の逡巡を黙殺し、にっこりとほほ笑んだ。ジルが運んできた縁談である。ミチルを陥れる不幸がまっている筈がない。
「もちろんよ。ありがとう、ジル。あなたはいつも、わたくしを最良の道へ導いてくれるのね」
なんの、とジルは笑った。不眠不休で駆け抜けてきたみたいな、くたびれていて、晴れやかであり、寂し気な笑顔だった。
「これが、最後の御奉公に御座いますれば」
ミチルは、えっ、と言葉に詰まった。
「そんなさびしいことを言わないで。あなたには、わたくしが嫁いでも、ずっとわたくしに仕えてほしいと思っているのよ」
ジルに歩み寄り、すぐ傍からジルを見上げた。懇願が表情にも声調にも滲んだだろう。ジルは、苦笑した。やはり、なんとなく尊大な雰囲気のある表情だった。
「お嬢様がそう望んで下さる限り、私はお嬢様にお仕えいたしましょう」
「本当?」
約束してくれる、と続けそうになる唇に、ジルの人差指があてられ、遮られる。ジルは、微笑んで言った。
「約束は、まだ、後にとっておきましょう。きっと、必要になりますから」
ジルは朝食を運ぶ為に、いったんミチルの部屋を辞した。ミチルは施錠の音を聞きながら、俯いた。テーブルの上に置き去りにされた手鏡に、訝しげに眉をひそめたミチルの顔がうつる。ミチルは両手で顔を覆った。
(なんてひどいお顔なのかしら。あなたらしくないわ、ミチル。あなたは幸せな女なの。偉大な養父と、忠義者の執事、優秀な召使たちに囲まれて、何不自由のない暮らしを送っているじゃない。とうとう、素晴らしい婚約者まで得ることが出来たのよ。あなたの未来は幸福に約束されているわ)
ミチルが顔を上げると、虚像は、幸せそうに微笑んでいる。ミチルは、満足して頷いた。
「安心なさって、お兄さま。ミチルは幸せです。もっともっと、幸せになります」
(そうなると良いね)
とチルチルが言った。




