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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
裏側の終章「幸せな青い鳥」
57/60

幸せな青い鳥1

***


 ディーブベルは、書斎で忙しく書き物をしていた。要返信の手紙が紫檀の机の上に山積みになっている。


筆不精のディーブベルにとって、意義があるとは到底思えない、千篇一律の社交辞令への返礼は苦行である。しかし、使徒座十二席の天使社会では、手紙のやりとりは重要な社交の手段。おろそかにする訳にはいかない。

……いかないのだが、ディーブベルは生来、勤勉な性質ではない。関心事には病的に没頭する半面、必要な仕事に、いつまでも手をつけられない傾向がある。


ひとたび怠け心を起こしてしまうと、あっと言う間に、未返信の手紙の山ができる。そうして、不機嫌なウェンディに慇懃無礼に責め立てられ、手紙の山を綺麗に平らげるまで、書斎に軟禁されるのだ。


本当なら、手紙を管理し、社交に関する助言をするのは、家令の仕事である。ところが、家令が口を酸っぱくして苦言を呈しても、ディーブベルは一向に反省しないので、家令はディーブベルのあしらいの上手い、小間使いのウェンディを寄越すようになったのだった。


ウェンディは物怖じしない性格で、ディーブベルにも歯に衣着せぬ物言いをする。主人と対等に渡り合うという発想自体が、ハルメーンにも、使徒座にもない。ディーブベルは、ウェンディのそういう、野獣のように自由なところと、輝殻の美しい青色を気に入っている。家政婦のジュジュに仕込ませたので、働きも申し分ない。

しかし、妥協しないウェンディの厳格さに、閉口することもしばしばあるのだ。現在進行形で。


ディーブベルが紋切り型の挨拶を綴っていると、施錠された扉が控え目にノックされた。部屋の外側から鍵をかけられ閉じ込められる主人など、使徒座広しとは言え、ディーブベルくらいのものだろう。その気になれば、鍵くらい簡単に壊して脱走できる。だが、壊して脱走して、その後はどうするのだ、と言う話しだ。


ディーブベルが入室を許可すると、小間使いのウェンディが、形だけは慎ましやかに入室した。


丁度いいので、ちょっと休憩。と、ディーブベルはペンを机に置いた。疼痛を振り払おうと手首をふりながら、真っ先に訊ねるのは、宿り換えを済ませたばかりの妻のことだ。


「御苦労、ウェンディ。どうだね、我が妻の様子は?」

「お食事をお召しあがりになりました」

「食欲があるなら安心だな。では、夕食は共に」

「旦那様とお食事をご一緒したくないと仰せです」


 従順な妻の突然の反抗に、しかしディーブベルは動じない。そうくるか、と苦笑いをするだけだ。

思った通り、生意気なチルチルの人格と融合して、妻は変わった。妻が取り戻した記憶には、本来ならば継承していた、チルチルの記憶も含まれる。記憶は人格を構成する重要な要素のひとつだ。

どの程度変わったのかは、会って話してみなければ、まだわからない。

ディーブベルは身を乗り出して、ウェンディに訊ねた。


「理由は聞いたかね?」

「誰がクソにも劣るクソ鶏野郎と一緒にメシなんて食うか。せっかくの肉がクソまずくなる、と」


 今度こそ、ディーブベルは動揺せずにはいられない。強気になるのはいいとして、蓮っ葉な言動は頂けない。青い鳥の妻にふさわしくない。あまりに深刻なら、調整が必要になる。

ウェンディは、ディーブベルがとり落としたペンを拾い上げると、ディーブベルの手に無理やり握らせた。ウェンディは涼しい顔で言葉を付け加える。


「……そうおっしゃりたいであろう処を、ぐっと堪えられ、『本気で嫌』だからとだけ仰いました」


 ディーブベルは目頭を揉んだ。本来の姿では、書き物をするのに不自由するので、人型をとっている。本来の姿では、疲れを感じて目頭を揉むことはない。

ディーブベルは、低く唸ってウェンディを非難した。


「悪趣味な冗句だ。この私が手塩にかけた青い宝石の唇から、下品な言葉が吐きだされると、思うだけで心臓に悪い。私に何かあったらどうするつもりだね。君たち、路頭に迷うことになるぞ」

「冗句ではなく、お察し申し上げたのです。下賤な人間の人格と融合したのなら、そのようにお考えになっても、おかしくはないかと」


 ペンをまた机に放り出し、ディーブベルは頬杖をついた。ウェンディが凝視している書きかけの手紙は、さり気なく遠くへ押しやった。


「君にもそう見えたか」


 ウェンディは鋭い目をますます鋭くして、首肯する。なぜそんなに腹をたてる、と聞かずにはいられなくなるような形相である。実際は、思慮深く言葉を選んでいただけらしいが。ウェンディは険しい顔つきで、ゆっくりと言った。


「私は、そのチルチルとかいう人間のことを存じ上げませんので、断定は避けますが……少なくとも、昨日までの奥様ではあらせられませんでしたね」


 ウェンディが見ても、違和感を覚える程度の変化が、妻にあったらしい。ディーブベルはまだ、宿り換え後の妻と顔を合わせていないけれど、いざ対面した時、彼女の無邪気な愛くるしさを惜しむ気になるだろうか。


 ウェンディは、気のない返事をするディーブベルを見下ろしている。足の裏に張り付いた汚物を見るような目だと、ディーブベルは思った。間違っても、そんな目で主人を見てはいけないと思う。影の民の常識はディーブベルの物差しでは測れない。


「これでよろしかったのですか?」


 ウェンディにそう訊ねられたディーブベルは、顔を擦って溜息を吐いた。


「あまり良くはないね。美しいもので取り囲み、美しいものにだけ触れさせ、大切に慈しんだ愛娘には、下賤な人間の記憶という汚物に、出来ることなら触れさせたくなかった」

「それだけでは御座いません。執事のジルとして、十二年間をかけ築きあげた信頼関係も、夫のディル様として育んだ親愛関係も、これで水の泡になりました。

……今更ですが、執事の名がジルと言うのは、いくらなんでも安直過ぎはしませんか。奥様のことをバカにしていらっしゃるのですか? それとも、旦那様がバカでいらっしゃるのですか」

「主人をバカ呼ばわりするんじゃない……まったく、君は容赦がない。ひとが気に病んでいるところを、ぐりぐり抉ってくれるなよ。少しは配慮をしてくれたまえ」


 ウェンディの米神がぴくりと引き攣る。


「綺麗に咲こうとしていた花の蕾を、御自分で握りつぶしたのではありませんか」

「私が握りつぶした? するわけないだろう。妻は私の宝だぞ。私だってね、この十二年間、ただ手をこまねていたわけではないのだ。あの手この手で、妻を神の仔として覚醒させようと試みた。彼女の心が作り出したチルチルに、邪魔をされてしまってね。うまくいかなかったのだが」

「それで、この有様ですか。情けない話ですね」

「だから、痛いところをついてくれるなと、何度言えばわかってくれる」

「申し訳ございません。私は旦那様と同じで物分かりの悪いので、何度も何度も仰ってください。私も、何度も何度も申し上げます。お持ちしたお手紙にはすぐにお目を通し、すぐにお返事をお書きになれば、このように根を詰める必要もなくなるのです」


 くどくどと言いながら、ウェンディはディーブベルが押しやった、書きかけの手紙を、ディーブベルの手元に引き戻した。

ねちねちと嫌味を言われながら、ディーブベルはなんとか手紙を書き終えた。手紙の束を持たせると、ウェンディはやっと黙った。

ウェンディはきびきびと一礼すると、優秀な召使らしく丁寧に言う。


「奥様のご機嫌を伺って参ります。旦那様、ご夕食の席は如何致しますか」


 やれやれと首を回していたディーブベルは、首の後ろを揉みながら、微笑んだ。


ここは、懐の深さを示しておこう。


「私は行かないよ。それが妻の希望だろう? 今日のところは、彼女をたてるさ。妻のことを、よろしく頼む」

「ご明断です。これ以上下手をうったら、心臓を刺されてしまわれかねません」

「……君に褒められるとこそばゆいな」

「主人を褒めるなんてそんな、恐れ多い。褒めるべきところも御座いませんし」


 わかっている。ウェンディの表情にも口調にも、褒められていると勘違い出来るような、生易しさ一切含まれていない。


 ひとくさり痛罵をくれてから、ウェンディはやっと退室することになった。優美な手がドアノブを握ろうとした時、ノックもなく扉が開け放たれた。


 サベゲテル・ラニマーテルが、息を切らせて駆け込んできた。外は肌寒いのに、汗みずくになっている。

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