チルチルはミチル1
***
まだ生きることを諦めない。くそったれの世界で、私は目覚めた。
目を開けて最初に見たのは、私の体をせっせと清拭する、エキゾチックな美女の姿だった。
美人台無しの仏頂面で、睨むように見つめてくる彼女の名前は、ウェンディ。私に仕える小間使い。美人だけど無愛想。優秀だけど無愛想。
……覚えている。ぽんこつかと思っていたけれど、私の記憶力は案外、優秀だ。三人分つめこんでも、きちんと機能している。
私は上体を起した。シーツを摘まみあげて一安心。銀のものを宿したこの体は、マリの体だ。どういう理屈か知らないけれど、宿り換えは成功した。
……ああ、そうか。考えてみたら、マリの記憶があるんだから、確認するまでもなく、これはマリの体だということか。
頭の回転が鈍い。まだ本調子じゃないのだろう。それともまさか、本調子でこんなものなのか。いや、そんなことない筈。ミチルはともかく、チルチルは賢かった。
……賢かった……? 自信がなくなってきたので、思考は中断。結論は保留。
眉間に皺を寄せた私の難しい顔を、ウェンディがずいと覗き込んでくる。アップで見るとますます綺麗。私の顔だって綺麗な方だと思うけど、ウェンディと比べると、ちょっと俗物的かもしれない。どっちがいいかは、個人の好みによるだろう。
「奥様、お加減は如何ですか」
ウェンディが何か言ってる。なに、お加減は如何?
「……頭がぼうっとする」
「お水は?」
水は欲しい。冷たいのにしてね。頭がすっきりするように。応答がワンテンポ遅れる、このぽんこつ頭をなんとかしたいから。
「他に何か、御所望されますか」
ぐいと一息に煽る。乾いた体に冷たい水がしみわたる。爽快な気分。
顎から滴る滴をぐいと手の甲で拭うと、まずい。ウェンディが変な顔をしている。私は空のグラスを丁寧に渡して、澄ました顔をつくった。
「一人にしてくれる」
「かしこまりました」
今はまだ、私がきちんと定まっていない。ぼろがでてしまう。ウェンディはあの男の目と耳だ。不審に思われたらまずい。
てきぱきとあとを片づけ、退室しようとするウェンディ。見送るつもりで見守っていたけれど、気が変わって、私はウェンディを呼びとめた。
「やっぱり、まって。ベティはどうしてる?」
「奥様より一足先に目を覚ましました」
流石はウェンディ。藪から棒に思いつきで物を言われても、動じない。小間使いの鏡だ。しっかりし過ぎていて、可愛げがないけれど、必要ないね。男嫌いの氷の鬼女に、可愛げなんて。
私は顎に手をあてて、考えているポーズをとった。
「これから、どうするつもりかな。実家に帰ったりして」
「そのような話しは、聞いておりませんが。ケキーク・ベティグルルに何かご用ですか?」
ウェンディの律義な回答をきいて、私は肩をすくめた。
「用って程じゃない。悪いことしたなと、思っただけさ」
……ウェンディ、なんて顔しているの。そんなに表情は動いてないのに、もとか仏頂面だから、眉間に皺が寄るだけで、すごく凄みが増している。
ん? ……ああ、なるほど。言動がチルチル寄りだったのが、いけなかったのね。修正しなければ。
顎にあてていた手のかたちを、さり気なく女性的にかえる。肩を内側に入れて、小首を傾げて微笑んでみる。ほら、こんな感じでどうかしら?
「なぁに、変な顔をして? わたくしは、何かおかしなことを言ったかしら?」
ウェンディは節度を保ちつつ、私を細大漏らさず観察している。一つ息を吐いて、頭を下げた。
「いいえ、奥様。失礼いたしました」
なんでもないでしょう、気のせいでしょう、そうでしょうとも。鼻が利くから、わかるわよね。私がミチルだってこと。だけど、それだけじゃないってことまでは、わからないかしら。
私は寝台に体を横たえると、シーツを肩まで引き上げた。
「もう一休みするわ。目が覚めたら、ベティのお見舞いに行くから、お支度をお願いね」
「かしこまりました」
ウェンディが静かに部屋を出て行く。私は、羽毛の枕に顔を押し付けてみた。
わー、ふかふか。飾り窓の部屋のより……それは当たり前だ……メーテルリンクの屋敷で使っていたものより、ふかふか。こんな贅沢が出来ていたんだ。オズは、枕どころかベッドすら与えてくれなかった。
雲の上に寝そべっているみたい。夢心地で目を閉じる。うとうととまどろみながら、私が少しずつ定まりつつあるのを、感じていた。
惰眠をむさぼって、気が済んだので、私はベルを鳴らしてウェンディを呼びつけた。ウェンディはすぐにやって来る。扉の前で待機しているんじゃないかしらと、勘繰りたくなるくらい迅速な行動。使用人の鏡だ。けれど、ちょっと気味が悪い。
予定通り、私はベティを見舞うことにした。ウェンディによって、淡いピンク色のドレスに着替える。つるつるしたサテン生地は上半身にぴったりと張り付き、下半身はクリノリンに持ち上げられて、バルーンのように膨らんでいる。
砂糖細工のような繊細なレースと、飴細工のような華麗な刺繍が美しい、素敵なドレスだ。
ちょっと屋敷内を移動するだけなのに、大袈裟な支度だと呆れるけれど、綺麗に着飾るのは楽しい。綺麗に結い上げた髪に、白いブーケの花飾りをつけて、出来上がり。上々の出来栄えだ。私は鏡に映った自分に微笑みかけた。
「今日も綺麗にして貰って、幸せね」
鏡の中の私は、何も知らなかったミチルと同じ笑顔で、私を見つめ返している。
療養中だというベティを訪ねてみると、ベティを見舞っていたらしい、若い女性使用人たちが、きゃあきゃあと慌てて出て行った。綺麗に着飾った奥様よりも、ウェンディを気にしていたから、ウェンディのファンだろう。ただ単に、ウェンディのことを怖がっている可能性もあるけれど、仲間内で囁き合って、くすくす笑いの発作を起こしているところを見るに、前者としか思えない。ちょっと、面白くない。
ベティも、ウェンディの熱烈なファンだと言うけれど、この時ばかりはウェンディのことは目に入らないようだった。ベティは寝台から跳ね起きると、私に飛びついて来た。
ベティが人型で良かった。私は人喰いだけれど、人間のつもりで生きてきた年月が長いから、やっぱり固い宝石より、柔らかい女の子が相手の方が安心する。
ベティは、話すこともままならないくらい、泣きじゃくっている。
「うぅ……奥様ぁ……ご無事でよかったぁ……。奥様の体が、真っ二つにちょんぎられるとこ、あたし見ちゃったんです。奥様、あたしを助けようとして、あんな目に……。奥様、どうなっちゃったんだろうって、怖かったんです。……元気になってくれて、ありがとうございますぅ……!」
……見ていたんだ。それはもう、怖かったでしょう。当事者は、怖がる余裕もなかったけれど。
私はベティの後頭部をよしよしと撫でた。ベティは私の胸に顔を押し付け、ずびずびと洟を啜っている。
……引き剥がしたい。でも、そんなことをしたら、感じが悪い奴だと思われてしまうだろう。仕方が無い。多少のことは、我慢して目を瞑ろう。私の為に泣いてくれているのだから、可愛いもの。それにしても、ちょっと汚い。
……なんだか、胸元が冷たくなってきた。涙でしょう、これ? まさか、洟じゃないだろうな……?
ベティがようやく顔を上げてくれた。大きな目に涙をためて、ひっ、ひっ、としゃくり上げる。赤ん坊みたい。私が知っている赤ん坊は、ミチルとカイしかいないけれど。
カイがこんな感じだった。通りすがりに横目に見たら、いつも泣いていた。
カイは感受性が人一倍、強いのだろう。そのことはカイの美点だけれど、不幸でもある。カイは今頃、自分を責めて泣いているかもしれない。
ベティは私のドレスをぎゅっとつかんで泣いている。……私は別にかまわないけれど、後でウェンディに怒られないといいね、ベティ。ほら、ウェンディの眉間に、アイロンでも伸ばせそうにない皺がよっている……怖い顔。
私の心の中の忠告が聞こえたわけじゃないだろうけど、ベティはドレスから手をはなすと、真っ赤に腫らした目許をごしごしと擦った。
「あたし、宿り換えの間ずぅっと、奥様がやられちゃうところ、繰り返し夢に見ました。もぉ、本っ当に、怖かった。……一日いっぱい寝てたのに、全っ然、寝た気しない。むしろ深刻な寝不足です」
私はベティの手をとる。
「そんなにごしごし擦ったら、痛いでしょう」
ベティはきょとんとして私を見上げている。
「まぁまぁ、本当に赤ちゃんみたいよ、ベティ」
悪戯っぽく笑った私は、ベティの目許を優しくなぞった。熱い。人喰いの体も、人間と同じように熱い。同じように、赤い血が通っているからか。
私は指先を滑らせ、ベティの目の下をそっと慰撫する。
「あらまぁ、本当。ひどい隈。可愛らしいお顔が可哀そう」
……いけない。ベティがかちんこちんに凍りついている。すけこまし術に免疫がないのね、ベティ。そんなところも可愛いわ……なんて迂闊なことを口走って、どつぼに嵌ったら大変。私はなるべくチルチルを表に出さないように気をつけて、ベティの頭をよしよしと撫でた。
「わたくしはご覧の通り、すっかり元気になったわ。安心して、ぐっすりお休みなさいね」
ベティの肩から力が抜ける。ベティは気持ちが落ち着くと、重要なことを思い出したと言って、私の両肘をがっしりと掴んだ。
「テルのところには、もう、いかれました?」
「……鼻息が荒いわ、ベティ。でも、元気そうで何よりね。……ええと、テル? いいえ、まだよ。真っ先に貴女に会いに来たから」
「ええっ? それはまた、どうして」
ベティのまんまるな目を見下ろして、私は含み笑う。
おバカで可愛いメイドを誑しこむ、絶好の機会を逃さないため。そう言ったら、君はどんな顔をするだろうね?
もちろん、そんなことは言わない。私は当たり障りのない言葉を紡ぐ。
「あなたには、帰る家があるでしょう? 怖い目にあわせてしまったから、帰らずに、ここに居てくれるか、心配だったの。あなたがここを出て行ってしまったら、寂しいじゃないの」
ベティはみるみるうちに真っ赤になった。まぁ、わたりんごみたいで美味しそう。
「な……なな、奥様! あたしのこと、舐めちゃいけません。そんな根性無しじゃありませんから!」
「ええ、そのようね。安心したわ」
「そんなことより、テルです! テルに、会いに行ってやってくださいね?」
私の厚意は、そんなこと扱いか。ベティに好かれる為のつぼは、外してないと思うんだけれど。命の恩人だし。
でも、流石に、一朝一夕のことで「大好きなテル」を追い抜くのは無理だったか。
ベティは自身の深刻な悩みを打ち明けるように、話している。
「あいつ、すっごく落ち込んでるみたいなんです。なんかよくわかりませんけど、銀の悪魔にあたしたちが襲われたのは、自分のせいだと思ってるみたいで。わけわかんないですよね。食糧庫に銀の悪魔が紛れこんだのは、調達役の人間どものミスでしょ。それが、どうしてあいつのせいになるんだか。旦那様だって、そう仰ってるのに」
ふぅん、そういうことにしたんだ。ずいぶんと、適当に誤魔化したものだ。
ベティは上目づかいで私を見ている。ほんの少し首を傾げて、潤んだ瞳で。
「だから、ね? 慰めてやってくださいね」
……あざとい。計算してやっているのなら。でも、恐らく無自覚なのだろうから、ただただ可愛い。
私は苦笑した。不思議そうに目をぱちくりさせるベティに、意地悪を言ってみる。
「あら、いいのかしら? わたくしがテルと二人きりで会っても?」
むっとしている。ベティって本当に、わかりやすい。
「いいですよぉ? あたしがとやかく言うことじゃあ、ありませんし? っていうか、なんですか、その言い方。それじゃまるで、あたしがやきもちやいてるみたいなんですけど……ちっ、違いますからね! あいつは友達で、あたしは友達を大切にしたいだけですからね!」
墓穴を掘ったことに気が付いたらしい。ベティは耳まで真っ赤。
可愛らしいので、私はしたり顔で言ってあげた。
「はいはい、ごちそうさま」
「奥様……もぉ、くだらないこと言ってないで、さっさとテルんとこに、行ってやってください!」
「……本当に、テルのことが好きね。テルがおちゃらけ者で、優しいから?」
「だから、違うってば! いや、友達としては好きだけど、変な意味じゃ……」
「ええ、あなたの見立ては間違ってはいないと思うわ。テルは基本的に、とてもいいひとよ」
私は意味深に言葉をきった。ベティは言葉の含蓄に気付かず、わあわあと喚いている。私は笑ってしまった。
「……あなたって、面倒事に頭からつっこむタイプよね。少し心配だわ」
「へ? 奥様? なんていいました?」
私はにっこり微笑んだ。今のはただの独り言。伝える為の言葉ではない。だから、繰り返さない。
「あなたって、からがいがあって素敵だわ。と言ったのよ」
「奥様! ちょっと、性格悪くなってません!?」
「そう? 十八歳になったからかしら? ちょっぴり大人になれたのかも」
「大人じゃなくって、テルっぽくなってる気がするんですけど! やっぱり、行くのやめて下さい! これ以上、変な影響受けられちゃったら、あたしだけじゃなくって、旦那様もお困りになりますから!」
テルっぽくなってる、と言うのは、ベティの褒め言葉だろう。首尾は上々だ。
私はおっとり笑ってみせる。
「時々は少し困らせて、気をひいておかないと。心変わりされてしまわれたら、大変だわ」
「その心配はいりませんって。旦那様は奥様にくびったけですよ」
「そうかしら」
「そうですって。とにかく、これ以上変なもの吸収なさらないでくださいね? せっかく再会できたお兄様も、びっくりされますよ」




