マリの告白1
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「お前のお母さまは、ハルメーンの聖母だったんだよ」
父は、母の肖像画の前で、私に話して聞かせた。心身ともに美しく、清らかで、慈悲深い、私の母の物語を。
母を亡くしたとき、私はまだ幼く、記憶はおぼろげにしかない。それが不憫だと父は嘆き、私の心に母を留めておくために、毎晩、母の話をする。それは、まるでお祈りの時間。父は母と言う聖母を、信仰するように愛していた。
母は完璧だった。額縁の中で美しい微笑みを浮かべる母は、出会う全ての人に愛されていた。
私は、神を愛するように、母を愛している。だからこそ、一人寝台に横たわると、涙がとまらない。
父の為に、母を愛する全ての人々の為に、母は私を産むべきじゃなかった。
母は生まれつき、体がとても弱かった。子供は望めないだろうと、医師に言われていた。父はそれを承知の上で、母を娶った。
父と母は幼馴染で、貴族社会では珍しく、愛をはぐくみ結婚した。仲睦ましい、誰もが羨む理想の夫婦だった。やがて、二人の愛は母の胎に結実した。母は周囲の心配をいなし、反対をかわし、私を産んだ。
私を産んで、母は生死の境をさまよった。危ういところで、なんとか踏みとどまってくれた。父は感激して私と母を抱きしめたと言っていた。父は私が顔のことをからかわれ泣いていると
「お前の鼻が低いのは、あの時、お父様がぎゅっと抱きしめてしまったからかな」
と言って、何度も何度も、私に謝った。
謝らなければいけないのは、私の方だった。私のせいで、父はあまりに早く、母を失うことになってしまったのだから。
母は私が生れてから、以前にまして体調を崩すことが多くなった。その一方で、恵まれない子供たちへの奉仕活動に熱心に取り組むようになった。博愛の精神をもつ母は、子を持つ母となったことで、国中のこどもたちを愛するようになったのだ。
母を愛する周囲の人々は、母をとめた。けれど母はやはり、周囲の心配をいなし、反対をかわし、弱った体に鞭打って、こどもたちを愛し続けた。
やがて、無理がたたり、母は呆気なく逝ってしまった。
幼い私は訳も分からず、大好きな母に会えなくなったことが寂しくて、泣いてばかりいた。父は誰よりも悲しんでいただろうに、聞き分けのない私を優しく慰めてくれた。真夜中に目が覚め、泣きながら父の部屋の扉をたたくと、父は私を抱きあげ、窓辺に立ち夜空を見上げた。
「ご覧、お母さまはお星様になったんだ。いつもマリを見守ってくれているんだよ。だから、泣かないでおくれ。お母さまに、マリの可愛らしい笑顔を見せてあげなさい」
優しい父のお陰で、幼い私は母のいない寂しさを忘れることが出来た。
私は無邪気で無神経だった。甘やかされて、幸せで、自分が罪を犯したことを知らなかった。
十歳になった私は、社交界にデビューすることになった。私のペアは、母方の従兄にあたるジョージ。母にくっついて、ダウンタウンのこどもたちと遊んだことはあったけれど、体があまり丈夫ではなかったから、ほとんど屋敷から出たことがなかった私は、ジョージとも、それが初対面だった。
私は着飾って、ジョージを待っていた。父が花のように可愛らしいと褒めてくれたから、いささか良い気分になっていた。
叔父に伴われやって来たジョージは、父の手前では愛想が良かった。すらすらと、お世辞を言って、私をいい気分にさせた。
しかし、パーティー会場で父と叔父と離れると、彼は掌を返した。
私たちは、社交界に入りたての初々しい一団に合流していた。社交的なジョージはすぐに打ち解けたけれど、私はどうしていいかわからず、ジョージの斜め後ろで飲み物をちびちびと飲んでいた。
蚊帳の外にいた私を、ジョージは不意に、輪の中心に引っ張り込んだ。
「みんな。僕の従妹を紹介するよ。彼女はマリ・ダオン。みんな知ってると思うけど、ハルメーンの至宝と謳われた僕の叔母、ラシェル・ダオンの御息女だ。ね、マリ?」
私はジョージの言いたいことがわからなくって、でも、私が母の娘だと言うことは本当だから、こっくりと頷く。
周囲の子供たちが、ざわついた。無遠慮の好奇の目が、私に突き刺さる。あまり、いい種類のものじゃないことが、世間知らずの私にもわかる。まごついていると、ジョージはにやりと笑った。
「ね? びっくりしただろ? 僕もびっくりしたよ。あのラシェル叔母さまの娘が、こんなだったなんてね! ダオン卿が隠しとくのも納得さ。僕が卿でも、申し訳なくってみせられない。ハルメーンの至宝は、このマリを産んで死んだんだよ? まったくつり合いがとれないよね」
一斉に浴びせられた嘲笑が、私を瞬く間に氷漬けにした。ジョージの異母弟のジョシュアだけは、気まずそうに目を逸らし口を噤んでいたけれど、その他の子どもたちは競い合うように、私を糾弾した。
ラシェル様が死んだのは、君のせいか!
帰りの馬車の中では、私は平気なふりをした。父に「楽しめたかい」と訊ねられた時、笑顔で、「はい、とても」と答えることも出来た。
部屋で一人になると、私はシーツに潜り込んで、声を押し殺して泣いた。
私はその日、初めて自分の犯した罪を知ったのだ。国中に愛された聖母の命が、何のとりえもない醜い娘と引き換えに失われた。
優しい父は、不束な私を責めたりしない。「君は素晴らしい娘だよ」と微笑んで頭を撫でてくれる。
けれど、きっと、残念に思っている。そうに決まっている。素晴らしい母の死と引き換えに、生き長らえたのが、こんな私なんだから。
それ以来、私は母の影を追うようになった。慈善活動に精を出し、勉学に励んだ。容姿はどうしようもないけれど、せめてシルエットだけでも母に近づこうと、大好きな甘いお菓子にはほとんど口をつけなくなった。その甲斐あって、私はダウンタウンの子供たちとだいぶ打ち解けたし、学年首席になったし、太っていたのが嘘みたいに痩せた。
けれど、どんなに努力しても、母の足元にも及ばない。こんな私を素敵だと褒めてくれる人がいることだけが、救いだった。優しい父と、こどもたち。それと、親友のジョシュア。
ジョシュアは叔父が使用人との間にもうけた庶子である。そのせいで、小さな頃から不当に冷遇されていた。叔父やジョージを恨むことなく、ひたすらじっと耐えしのぶ、我慢強く優しい少年だった。
私は、そんなジョシュアの力になりたかった。
この頃には、私は自身の呆れた性質を、ある程度、自覚していた。
私は虐げられる、かわいそうな人に親切にするのが好きだ。ダウンタウンのこどもたちも、ジョシュアも、優しさに飢えている。彼らは、私の幼稚な親切を、素直に受け取ってくれる。そうして、感謝してくれる。彼らの中でなら、こんな私でも、聖母になれた。その時だけでも、母になったつもりでいられた。
神様は、私のずるい心のうちを見透かしていたのかもしれない。そんなに母親のようになりたいなら、そうしてやろうじゃないか。そのように、神様がお考えになったとしても、仕方が無いと思う。
私の病弱は母譲り。成長し体力がついてくれば、日常生活に支障はないだろうと言うのが医師の見解だったけれど、見込み違いだったようだ。
私は頻繁に体調を崩すようになった。ベッドから出られない時間が多くなった。病床で、私は諦めはじめていた。これが運命なら、受け入れるしかない。
(お母さま。命を縮めて産んでくれたのに、こんな私でごめんなさい)
私を助ける為に、父は奔走してくれた。四方八方にかけ合い、父はとうとう、私を救う術を探し当てた……探し当ててしまった。
父が私に引き合わせたのは、丸眼鏡をかけた、痩せっぽっちの男性だった。あけっぴろげな笑顔、生命力に溢れる目の輝き。興味のあることだけを追求し、風の吹くまま気の向くまま振る舞う彼には、何の愁いも悩みもないように思えて、うらやましい気がした。
父は彼をドクター・オズと呼んだ。父はドクター・オズの研究を援助するかわりに、私に特殊な治療を受けさせる約束を取り付けていた。
治療の説明を聞いた私は、あんぐり開けた口を閉じられなかった。常識では考えられないものだった。
その治療法は、銀のものを胎内にうえつけるというもの。特殊な薬を投与し続けることでその成長をコントロールし、体の悪い部分を銀のものに置き換え、健康な体を手に入れると言うのだ。
そんな荒唐無稽な治療法を、ドクター・オズはまるで友達を遊びに誘うみたいに、提唱している。胡散臭いどころじゃない。常識人なら、普通は信じない。
けれど、父は信じた。父は藁にもすがる思いだったのだろう。それに、父は人喰いに関する専門的な知識をもっていた。ハルメーン貴族の地位と財力の指標とされる、人喰いの蒐集をたしなみ、名の知れた収集家だった父は、大勢の人喰い狩り師を子飼いにし、人喰いの天敵である銀のものに関する知識も豊富だった。
父もドクター・オズも、すぐにでも治療を受けさせたいようだった。けれど、私はすぐに決断することは出来なかった。
自分の体に別の生き物を受け入れるのは、怖い。
ドクター・オズは、怯える私に半笑いで言った。
「なんてことない。簡単な治療だよ。朝起きたら顔を洗うのと同じようなもの。気軽にはじめなよ」
私には、詳しいことはわからない。けれど、お気楽な気持ちで始められないことはわかる。尻ごみする私の背を押したのは、ドクター・オズの強引な誘いではなくて、父の憂いだった。
最愛の妻を早くに亡くし、娘の私まで立て続けに亡くすなんて、とても耐えられないと父は泣く。
私は親不孝な娘だった。これ以上、父を悲しませたくない。
本当に、これで少しでも長く生きられるなら。一日でも、父より長く生きられるなら。怖くても、痛くても、苦しくても。私は甘んじて施術を受けるべきだ。
銀のものを宿す施術は成功した。術中のことは、あまり思い出したくない。とにかく、成功したと言うのだから、素直に喜んだ。
銀のものを宿してしばらくの間は、ドクター・オズの無責任さを恨む日々だった。下腹部に感じる違和感は、日が立つにつれて増していく。ピーク時は気持ち悪くて立てなかった。月のものの重い日が、ずっと続いているような、嫌な感じがした。
私はこまめにドクター・オズの診察を受けた。ドクター・オズは頃合いを見計らい、私に薬を処方した。
薬を服用するようになると、悪い症状はぴたりとおさまった。それだけで晴れやかな気持ちだったけれど、ふと気が付く。私の体は今までにないほど活力に漲っていた。慢性的な倦怠感が消えている。
私は健康になったらしい。父は手放しで喜んで、ドクター・オズに感謝した。私も嬉しかった。健康は宝物だ。それだけで、気持ちが明るくなる。
私は定期的にドクター・オズの許へ通い、診察を受け、薬を処方してもらった。薬を服用するだけで、私は何不自由ない生活を送れる。
時々、ふと、お腹に手をあてて考えこんでしまうことはある。不安もある。銀のものは、本来、宿主を内側から喰い尽くす恐ろしい生き物だから。けれど、なんともない日が続くと私の危機感は薄らいで、薄皮のようなものになっていた。