十八歳の誕生日
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十二年前のあの日。深手を負ったミチルは、虫の息のチルチルの許へ這って行った。
銀のものに負わされた傷は、治癒しない。この体はもう使い物にならない。新しい器が必要だ。けれど、ミチルには必要なかった。ミチルはこの先を、生きようと思わなかったから。
チルチルの手に握られた銃をもぎとると、チルチルの胸に頭を載せる。銃口を石の心臓にぴたりと当てた。あとは引き金を引けば、ミチルはチルチルと一緒に逝ける。
引き金の指をかけて、ミチルは大切な約束を思い出していた。
『ミチルも、約束して。絶対に幸せになるって』
青い血に全身を染めながら、ミチルはにっこりと微笑んだ。
(幸せです、お兄さま。ミチルはお兄さまとご一緒にいきます)
ミチルはチルチルの胸に頬ずりをする。満たされた心で、引き金を引こうとした。引き金を引こうとした瞬間、胸を押されたチルチルの唇から、ふうっと長い息と、掠れた言葉が漏れた。
「ごめ…………ま……り」
ミチルの手から、重く冷たい銃が滑り落ちた。
ミチルはこの時になって、ようやく己の思い違いに気が付いた。チルチルは王子様だった。けれど、ミチルの王子様ではなかった。
ミチルは死ぬのが怖くなった。愛されないまま、死にたくなかった。
だから、ミチルは今にも死んでしまいそうなチルチルに、寄生することにした。ミチルが捨てた体は塩の塊になり、目覚めると、チルチルの体はミチルのものになっていた。
死の恐怖からは、虚しい程呆気なく逃れた。けれどすぐに、それを凌駕する恐怖に襲われた。
それは罪悪感だった。愛するチルチルの幸せ、命さえ贄にして、ミチルは生き残ってしまった。
ミチルの後悔は、チルチルの体に残る彼の記憶と結びつき、影のように付き纏った。
ミチルが生み出したチルチルは、ミチルが生きる為に必要だった。ミチルを盲目的に愛してくれる、虚構の王子様。ミチルが嘘を塗り重ね、忘却の彼方に追いやろうとしていた、真実の化身。
***
さめざめと泣くミチルは、遠くで鐘の音を聞いた。チルチルは首を巡らせて、嬉々として言う。
「時告げの鐘の音……ミチル、約束の日がきたね。教えてくれないか。君は今、幸せ? 僕なしで生きられそう?」
幸せ。その言葉をミチルは口の中で転がした。なんて空々しい響きだろう。
本に出てくるお姫様たちは、彼女たちだけの王子様に愛されて、幸せになった。ミチルも、幸せになれると信じていた。
ところが、ミチルはそもそも、己の役所は履きちがえていた。ミチルはお姫様ではない。王子様とお姫様の仲を引き裂く、悪い魔女だ。
最初から、お姫様の条件を備えていなかった。幸せになる権利は、マリとチルチルを引き裂いたあの日に、とうの昔に、はく奪されていた。
チルチルはミチルの沈黙を愛情深く受け止めた。うっとりするような、甘く優しい声色で、チルチルは告げる。
「ミチル。僕以上に、君を愛する男はこの世にはいない。君はこの夢の中で、僕と永遠を生きるんだ……これからもずっと一緒にね。守ってあげるよ、ミチル。君を守る為なら、なんだってしてあげられる。あの男のことだって、心配しなくていいからね」
あの男とは、青い鳥のことだろうかと、ミチルはぼんやりと考える。青い鳥の包み込むような愛情。けれど、ミチルにはその愛を受け取れない。
ミチルはチルチルと融けあいつつあった。ミチルの心には、青い鳥に対する憎しみが萌している。曖昧模糊として、まだ正体がつかめないけれど、青い鳥は冷酷で残忍な男だった。ミチルへ手向けた愛は、愛と呼ぶに値しない。歪み穢れた、忌まわしい欲望だ。
ミチルには、それ以上のことはわからない。わからないまま、ミチルはチルチルにとりこまれるのだろう。
涙がはらりと頬を伝い落ちる。
(わたくしは、これでおしまいなのね)
ミチルは泣いた。泣きながら自嘲していた。
なんて、くだらない生だろう。憎まれ、愛されなかった。人魚姫のように、ひとりぼっちで、夜の海に消える。罪の鎖が重く纏わりつく体が沈んでいく。
「あなたが、チルチル? いいえ、そんなはずないわ」
マリの声がして、ミチルの体が大きく揺れた。重い体がふわりと軽くなる。
マリがミチルを軽々と抱きあげていた。軽い、あまりに軽すぎる。気のせいではない。本当に軽くなっているのだ。
ミチルの腰から下が胴から切り離され、青い塩の山になっていた。視界の端でマリの銀の槍が、悪魔の尾のようにゆらゆらと揺れている。
不思議と、ミチルに痛みはない。消えつつあるミチルの感覚は、鈍くなっているのだろうか。けれど、思考は妙にクリアだった。呆気にとられるミチルは、チルチルの掠れた声を聞いていた。
「……ぼ、くは……チルチル……マリ……君を……愛して……」
「いいえ。チルチルは私を愛していなかったわ。ミチルさんを、世界で一番愛していた。……私にはわかる。本当のチルチルなら、ミチルさんを泣かせたりしない」
マリはミチルの目を覗き込んだ。あの日、憎悪に燃えたグリーンの双眸は、怖いほど凪いでいる。
「ミチルさん。あなたの中に、チルチルがいるのね。でも、そのチルチルは違う。あなたの心に巣くう罪悪感が、チルチルを歪めてしまっている」
マリの手がミチルの石の心臓をつうっと撫でる。本能的な恐怖にたじろぐミチルの耳元で、秘密を教えるようにマリは囁いた。
「私の体に宿って、ミチルさん。そうして」
ミチルは信じられない思いでマリを凝視した。
人喰いを体に宿す。それがどういうことか、マリは知らないのだろうか。人喰いを宿せば、宿主は死ぬ。宿主の記憶と体は人喰いが継承するが、宿主の意識は残らない。
そもそも、銀のものを宿したマリに、宿れるとは思えない。けれど、マリには確信があるようだ。そして、確固たる決意も。
マリがわからない。ミチルは怖くなって、悲鳴のように叫んだ。
「あなた、なにを言っているのか、わかっているの? なぜ、わたくしの為に、あなたが身を捧げなければいけないの? 忘れたの、レディ・マリ。わたくしは、あなたの愛するお兄さまを殺したのよ。わたくしが、憎くはないの?」
「ええ、憎いわ、ミチルさん。あなたがもっと賢明だったら、チルチルはあなたを腕に抱いていられた。どんなに幸せだったかしら」
マリの言葉に偽りはない。マリの瞳の奥を覗き込むと、あの日と同じ憎しみの炎が、休まることなく燃え続けている。
それならば、なぜ? ミチルにはさっぱりわからない。きっとどれだけ時間を費やして考えても、皆目、見当がつかなかっただろう。
マリは失笑する。簡単な問題も解けない、出来の悪い生徒を見るような、呆れと憐憫と、もしかしたら、愛情を込めて。
「あなたの為じゃないわ。私はチルチルを蘇らせたいだけ。あなたの、彼に対する妄執は、私とあなたと、チルチルの記憶から、彼の魂をつくりだせる筈」
「そんなことをして……なんになるの? 私の心に、あなたは生れない。あなたは、死んでしまうのよ」
マリは微笑み、ミチルの眼窩に爪をたてた。皮膚を突き破り、肉をかきわけ、石の心臓を抉り出す。
「見縊らないで。……嘘でもいい。チルチルが幸せになれるなら、私はそれでいいの」
心臓に映り込んだマリの顔は、清々しい笑顔を浮かべていた。その安らかな微笑を見て、ミチルは思った。
(なんてきれいなの。レディ・マリは、天使様じゃないかしら)