目覚めた彼女
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マリの白い瞼がゆるりと持ち上がる。あらわれたのは記憶の中と同じ、グリーンの瞳。純真無垢なこどものように澄んでいるのは、ミチルの中の、チルチルを見ているから。チルチルと見つめあうと、マリはなんとも言えず目に好ましくうつる。眼窩が落ちくぼみ、頬がこけ、首が痩せた、見苦しいと言っても良い有様なのに。
マリが上体を起こすのを、ミチルの体は勝手に手伝った。ミチルの意思ではなく、チルチルの意思だ。
マリはぼんやりしている。目の焦点はあっておらず、唇は半開きになっている。マリは、ふと思い出したように、唇に付着したミチルの青い血をなめとった。マリの目が大きく見開かれる。マリはミチルを力いっぱい突き飛ばした。
虚をつかれたミチルは床に尻もちをつく。目を瞠るミチルの前で、マリが苦しみだした。体を折り曲げ、肩を震わせ、喉を潰されたような苦鳴をあげている。
嘔吐しているのかと思った。しかし、よく見てみると、少し違う。喉を掻き毟るマリの、目から、鼻孔から、口から、耳孔から、吐しゃ物でも血液でもない流体が漏れ出している。それは白く濁った銀色の流体で、ぼとぼとと、マリが身に付けたドレスの上に積もっていく。
服毒したかのような症状だと、ミチルは冷静に考える。しかし、頭の大部分は混乱をきたし、身動きもままならない状態だった。
だから、ミチルは開けっぱなしだった扉から部屋に入って来た気配に気づくのが遅れた。ミチルの横を通り過ぎ、酩酊したように足を縺れさせながら、マリの許へ近づいて行く後ろ姿に、唖然として呼び掛ける。
「テル……」
ミチルの声はテルに届かなかった。聞こえていたとしても心には届かなかった。
マリは悪いものをあらかた排出できたらしい。肩で息をしているものの、だいぶ落ち着いている。傍らに跪いたテルが遠慮がちに顔を近づけると、マリはのっそりと頭をもたげた。マリの目を見つめ、テルは震える声で言った。
「マリ……どうして、目覚めたんだ……」
歓喜とも恐慌ともとれるテルの感動を、マリは無感動に眺めている。顔にかかった鬱陶しい髪をかきあげるついでに、スカートの裾から伸びた銀色の槍が、足払いをする要領でテルを薙ぎ払った。
テルの体は壁に激突し、寝台の上に落ちる。ミチルはぱっと居上がって叫んだ。
「テル!」
「……まだ、生きていたのね……」
苦しげに呻くテルの許へ駆けつけようとしたミチルは、マリの小さな呟きを拾い上げ、足をとめる。マリはよろよろと立ちあがると、棺を跨ぎ超えた。生きる屍のように生気のない足取りでミチルの隣を通り過ぎる際に、マリは歯ぎしりして怨嗟の呟きを漏らす。
「どうして、死ななかったの」
ミチルは大きく後ずさった。マリの激しい憤りを感じる。その矛先はきっと、ミチルに向けられている。
なぜ、ミチルはまだ生きているのか。それは十二年前、マリがミチルにとどめを刺さなかったからだ。
マリはミチルとチルチルの心中を阻止すると、体の壊れたミチルと、虫の息のチルチルに背を向けて、ふわふわと風に飛ばされるように何処かへ消えてしまった。
ミチルはいつ銀の槍が襲ってくるかと身構える。ところが、マリはミチルを一顧だにしないで、開け放たれた扉から外に出てしまった。うわ言のように、ぶつぶつと呟いている。
「お腹がすいた……お腹がすいて、苦しい……お腹が空いた……でも、彼はだめ……彼女もだめ……」
マリはひび割れた唇で恨めしそうに囁く。視線がうつろうと、悩ましく潜められた愁眉がひらかれる。
「……ああ、あなたはおいしそう……食べさせて、おいしいあなたを食べさせて……」
「きゃあああ!」
部屋の外から、絹を裂くような悲鳴が上がる。ベティの悲鳴だった。ベティが階段の途中で腰を抜かしている。ベティを囲い込むように、マリの銀の槍が固い石階段に突き刺さっていた。
ベティの悲鳴を聞いて、テルが飛び起きる。しかし、彼の両足はおかしな方向にねじれていて、自由が利かない。もがいた末に、寝台から転げ落ちてしまう。テルは床をはいずりながら、懸命に声を張り上げた。
「マリ、やめてくれ! お願いだ、マリ! その娘を食べちゃだめだ!」
「だめ……食べちゃ、だめ……」
マリはテルの言葉を呪文のように繰り返している。けれど、効き目はなさそうだった。マリは歩調を緩めずに、勿体ぶるように、一段一段、階段を上っていく。じわじわと迫る恐怖に、ベティは呼吸すらままならずに喘いでいる。マリの影がベティをすっぽりと包みこむと、ベティはしゃくり上げて泣きだした。
「やめて、来ないで、いやぁ……」
こどものように泣きじゃくるベティを見下ろして、マリはぴたりと歩みを止める。マリは悲しんでいるようだった。
「怖がらせて、ごめんなさい。でも、だめなの。我慢できない」
ベティを閉じ込める銀の槍がカタカタと鳴っている。ベティは目を固く瞑って、何度も首を横にふった。
「いや、いやいやいや。お願いだからやめて。助けてぇ……」
ベティが命乞いすると、マリは俯いて黙り込んだ。落ちかかった乱れ髪が、燃えるようなグリーンの瞳に悲壮な影を落としている。マリは噛みしめた唇で、苦渋に満ちた言葉を吐きだした。
「私だって、こんなことしたくない……でも、ごめんなさい。生きている限り心臓の鼓動をとめられないのと同じよ。自分ではとめられないの。ごめんなさい……ごめんなさい……」
銀の槍が柔らかく溶けてベティの肌に纏わりつく。じゅっと鋭い音と共に肌が焼け、ベティが叫喚した。
「うそでしょ、こんなのうそ……いやぁぁぁ!」
銀色の流体はベティの肌を焼き溶かしながら這いずる。衣服の中にも流れ込み、体中をくまなく探っていく。心臓の在り処を探している。
眩暈を起こして、ミチルは壁に凭れかかった。意識が朦朧とする。足元でテルが血を吐くように叫んでいた。
「やめてくれ、マリ! 悪いのは僕だ、君をそんな風にしてしまったのは、僕なんだ! 食べるなら僕を食べてくれ、悪いのは全部僕なんだよ!」
テルの喚き声を聞いて、ミチルはなんとか意識を繋ぎとめた。
マリは人間ではない。マリは銀の悪魔だ。長き眠りから覚めた彼女は、腹を空かせている。ベティの心臓を食べるつもりだ。
マリはもがき苦しむベティを、痛ましそうに見ている。顔を両手に埋めて、マリは力なく謝罪を繰り返した。
「ごめんなさい。なんて酷いことを。ごめんなさい、ごめんなさい……私、私……でもやっぱり、あなたを食べてしまうわ」
ごめんなさい、とマリが叫ぶ。真珠のように綺麗な涙が宙に散る。チルチルはミチルと一緒に、涙の軌跡を追っていた。
体中をめぐる血が躍動するのを感じる。ミチルの背が弾けた。戦意が芽吹き、殺意の花が咲く。無数の肢がマリに襲いかかった。
マリは自衛のために、銀の槍を引かざるを得なかった。意識を失ったベティがぐったりと弛緩する。マリは銀の槍でミチルの肢を弾き返し、鬼気迫る餓鬼の形相で振り返る。
「邪魔をしないで!」
振り返ったマリが硬直する。ミチルの肢はミチルの体を、飛翔するように軽々と、風を切るように速く、マリの許へ運んでいた。
迎撃態勢を整えきれず、無防備になったマリの体を、ミチルの腕が抱きすくめる。咄嗟に足掻くマリの耳元で、ミチルの唇を使い、チルチルは囁きかけた。
「愛しているよ、マリ。君に会えて嬉しい。でも、君は生きるのが辛いんだね……安心して。僕らなら、君を殺してあげられる」
チルチルは鋭い歯で唇を噛んだ。新しい傷口から血が流れる。マリのこけた頬に優しく手を添えて、唇を重ねようとする。
唇が触れ合う前に、マリはひそかな声で言った。
「ミチルさん……? それとも、チルチル? あなたは、誰?」
チルチルはいったん顔を上げる。困惑が飢餓を一時的に上回ったのだろう、マリは正気を取り戻していた。チルチルは愛しいマリに微笑みかける。
「僕らはチルチルとミチルだよ。僕らは片時も離れず、一緒にいるのさ」
マリの赤毛がさあっと逆立つ。竦むマリの細い体を慈しむように撫でさすり、チルチルはマリのこめかみにキスをした。
「僕はここにいるよ、マリ」
チルチルはマリの手をとると、左目へ……石の心臓へ導く。
「ここにいる、ミチルの中にいる」
チルチルはうっそりと嗤う。
「ミチル。僕を殺して僕を乗っ取った、世界で一番愛しい、僕の妹」
チルチルが忌語を口にしても、ミチルは耳を塞ぐことも目を覆うこともしなかった。そんなことをしても無駄だ。チルチルの愛憎の念は、ミチルの中に息づいているのだから。