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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第一話「ミチルの幸せな結婚」
5/60

お嬢様と執事1

***


 どちらが夢で、どちらが現実か、曖昧な目覚めだった。眼鏡のレンズ越しに、二つの月のような双眸が、気遣わしげにミチルの顔を覗き込んでいる。


 倦怠感にとらわれて、身動きが難しい。ミチルは三度、強く瞬きをして、また沈もうとする意識を引き寄せた。


 心配で顰めた細い眉の下で、細い目が瞬きもせずにミチルを見つめている。ミチルは、ゆで卵を縦に引き伸ばしたような、つるりとした男の顔を見上げて、ぼんやりと挨拶をした。


「おはよう、ジル」


 ジルは、愁眉をひらき、控えめに微笑んだ。


「おはようございます、お嬢様。お休みのところ、お邪魔を致しました。申し訳御座いません」


 ジルに背を支えられ上体を起こす。ミチルは、ふるふると首を横に振った。


「謝らないで。夢魔を追い払ってくれたのでしょう? ありがとう。わたくしは、また魘されていたのね」


 ジルは、ひろい額を下方に傾けた。青い頭髪はしっかりと撫でつけてあるので、愁いを帯びた表情がよく見える。


「御令兄が夢にいらっしゃったのですね」

「わたくしのお誕生日が近いからだわ。お兄さまは、お知らせして下さったのでしょう」


 ジルが水差しから冷たい水をグラスに注ぎ、ミチルに差し出す。ミチルは震える指でグラスを受け取り、乾いてねとつく口腔を濯ぎ、喉を潤した。ようやく、ひと心地がつく。

シーツを剥いで、寝台の縁に腰かけると、スリッパがちょうど良い位置に置かれている。スリッパをつっかけて、ミチルは立ちあがった。長椅子に腰かける。ジルは、滑るように部屋を出た。顔を清拭する温かい濡れタオルの準備をするのだ。

ミチルは、ジルを待つ間、なんとなしに部屋を見回した。


色々な方向に曲げられた、複雑で曲がりくねった造形の家具は、鹿の脚線美を彷彿とさせる意匠だ。猫脚や縁、抽斗の前面を金鍍金の装飾に縁どられ、空想的な模様が寄木で象嵌されている。

天蓋付きの寝台、長椅子、テーブル、シェルフ、クロゼット、ランプ、ドレッサーのいずれも、舐めれば甘くとろけそうな白と薄桃色で構成されていた。わかりやすい少女趣味である。ミチルは、一口齧ると気分を悪くしてしまうくらい菓子類が苦手だが、飴と砂糖の細工と一緒に、滑らかなクリームのデコレーションケーキにのっているみたいな部屋の内装は、殊のほか気に入っていた。


星屑のようにきらめくシャンデリアを見上げて、ミチルは、ほうっと溜息をついた。十年前、野に解き放たれたミチルが、幸せの青い鳥に出会い、望む前に全てが叶う生活を手に入れたのは、神の御恵みとしか言いようがない。

 

メーテルリンク一家が暮らしていたのは「統合国家ハルメーン」という、北東の連峰に囲まれた小国だった。

美しい部屋に閉じこもっていたミチルには知るよしもなかったが、あそこは人種と宗教の坩堝であり、内乱の絶えない争いの地だったらしい。さかのぼること十年前、戦禍はついに、メーテルリンク一家が居を構える中央都にまで及んだ。


その頃、ハルメーンの貴族たちの間では、獣を敷地内で飼うことが流行していた。凶暴で美しい獣ほど、良いステータスとなったそうだ。戦争が激化し戦火が迫ったことで、かわいそうな獣たちは一斉に殺処分にかけられた。

その中には『人喰い』と呼ばれる、人によく似たかたちをした美しく禍々しい獣もいたらしい。人喰いは恐るべき力をもっていた。数体が処分を逃れ街に放たれたことで、中央都は人獣問わぬ殺戮の舞台となってしまった。


 ハルメーンの大勢力である貴族たちの心臓部、中央都は破滅し、混沌の渦は国を飲み込んだ。ミチルのような、戦争孤児が大勢出た。


 そこで、北の大国『自由都市群使徒座十二席』から、天使「青い鳥」がやってきたのである。


天使とは、使徒座の至尊として君臨する特権階級の呼称である。天におわす神が使わした者、天使。

青い鳥は、篤志家として名の知れた天使だったらしい。政情が不安定な異国に遠征しては、不幸な人々に救いの手を差し伸べてきた。

青い鳥は、異国のハルメーンの孤児たちにも手を差し伸べた。寄る辺のない子供たちを使徒座に連れ帰り、手厚く保護したのである。

 ミチルもまた、青い鳥に保護された子供の一人であった。


 ミチルは、青い鳥の養女となった。他の子供たちもきっと、ミチルのように何不自由なく暮らしているのだろう。


ミチルの手元に戻らなかったもの。銀の鉄格子とご主人様の窮屈な視線、そして優しかったチルチル。それだけだ。しかし、心の大部分を占めるものだった。

 胸にずしんと鉛が落ちる。ミチルは、鉛の存在を忘れようとした。ミチルは、幸せでいなければいけない。くよくよしているより、あっけらかんとしていた方が、チルチルは喜ぶ。


戻ってきたジルに渡された濡れタオルで、顔の右半分を拭う。肌に優しい柔らかいタオルだった。左目の瞼をしっかりおろし、瞼の上から触れない気を付けて、顔の左半分も丁寧に清める。


さっぱりとすると、次は着替えである。誰に会うわけでもないが、メーテルリンクの娘として、常に美しくあることは大切な義務だ。

ネグリジェを脱衣し、コルセットを絞める。慎ましい胸のせいで、ミチルにとってこの作業は、苦行になっていた。ジルがうまいこと、寄せて上げて谷間を作ってくれるのだが、苦しくって仕方がない。

ドロワーズの上にペチコートを重ね、漣をイメージした不思議な模様が織り込まれた水色のドレスを着る。繊細な刺繍が水面に映る花のように、あちらこちらに咲いている。

ジルに促され、ドレッサーの前に移動する。ジルは、櫛で優しくミチルの髪を梳かしている。ミチルは、毎朝の恒例となった感嘆のため息をついた。


「今日のドレスも素敵ね」

「お気に召して頂けて、嬉しゅうございます」


節度ある喜びの笑みを浮かべて、ジルは手を休めずに答えた。


ジルを筆頭に、この屋敷の使用人は、一流の仕事をする。


ハウス・メイドは、マットレスにしっかりブラシをかけ、カーテンはゆすって叩き、吊り棒は刷毛で埃をはらい、窓ガラスは磨き、床はよく擦り洗いしている。だからどんな隙間に指を滑らせても、屋敷には塵ひとつ落ちていない。

もちろん、ベッドの仕掛けの角はきっちりと折り返してあるし、水差しは冷たい水で満たされている。石鹸、ろうそく、清潔なタオル、便箋が切らしてあるなんてことは、考えられない。

 料理人は、三度の食事を、絶妙のタイミングで仕上げて出してくれる。新鮮な食材を生かした、目にも鮮やかな一皿には、単調になりがちな三度の食事に、それぞれ異なる趣向を凝らしている。


 優秀な使用人たちの姿を、ミチルは見たことがない。当たり前のことなのだと思っている。優秀な使用人は、家人にとって空気となる。ミチルの世話をすべて請け合ってくれるジルを例外として、使用人とは、存在を消すものなのだ。


 ジルはミチルの髪を丁寧に梳っている。ミチルの髪は長い。尻がすっぽり覆われる長さだ。引き摺って、歩く箒になってしまっては、なにかと不便なので、この長さを保っている。

長い髪を扱うジルは、すっかり手慣れたものだ。ミチルがここに迎え入れられたばかりの頃は、こうではなかった。

女の子の世話をした経験がなかったのだろう。ごっそり抜けた髪の束をもったジルと、鏡の中で見つめあい、ぽかんとしたことが、今となっては懐かしい。

 ミチルが昔を懐かしんでいると、鏡の中でジルも、過去を愛しんで目を細めていた。


「愛くるしい六歳のミチル様が、もう、十八歳におなり遊ばされるのですね。ミチル様の小さなお手をひかせて頂き、ご邸宅にお連れしたのが、つい昨日のことのように思い出されます。このように、たおやかな淑女に御成り遊ばれるとは、十二年間お世話をさせていただきましたこの私、感無量に御座います……」


 感激家のジルの潤んだ目を和やかな気持ちで見返して、ミチルは微笑んだ。ミチルの倍以上生きてきたという従僕は、近頃、涙脆くなった。


(ジルはこんなにもわたくしを思ってくれる。わたくしは、幸せ者だわ)

 

十年の歳月を思うと、ミチルの胸にも万感が迫ってくる。しかし、しみじみしてばかりはいられない。ミチルは今の今まで、のんびりしすぎていた。チルチルと約束した期日が、十日後に迫っているのに。

 鏡に映るミチルの白面が、くすんだように顔色を曇らせる。ミチルは、右手を頬に添えて俯き加減に言った。


「幸福な時間は星が瞬く一瞬のようなものね。もう、十八歳になってしまう。そうなる前に是が非でも、素敵な紳士に見染めて頂かなければ、いけないのだけれど……」


 ジルが、打ちひしがれたようによろめいた。


「申し訳御座いません、お嬢様。このジルが不束なばかりに、お嬢様に御心労をおかけいたします」


 ミチルは、話し相手の言葉を受け止めるクッションの時間を置かずに、打てば響くように否定した。


「とんでもないことです。あなたは、よく尽くしてくれるわ。あなたの尽力があってこそ、わたくしはこの十二年間、一切の愁いのない、幸福な年を重ねてこられたのよ」

「ああ、この不甲斐ない従僕に御慈悲を御恵み下さるとは! なんとお優しいのでしょう、ミチルお嬢様」


 ジルは、ちょっとしたことで大げさに感動してしまう。そういう性格なのだろうが、ミチルの世話を一任してきた自負が、彼を親のような境地に連れて行ったのかもしれない。


ジルは櫛を納めると、ドレッサーに置いた化粧箱をひらいた。中には、たくさんの眼帯が入っている。どれも髪飾りのように華やかなものばかりだ。

 ジルはその中から、黄色く小さい造花が束になって咲いた眼帯を取り出した。ミチルの背後に回り込み、左目を覆い隠す為に取り付ける。手付きは丁寧だが、先ほどまでのうきうきした楽しげな様子はなく、何処となく物悲しそうだ。

 

ジルはミチルが眼帯を付けることを好ましく思っていない。ミチルの生来の美を損なうと考えている。しかし、ミチルの考えはまったく逆なのだ。基本的には、ジルの言う通りにするミチルの強い意向に、ジルは逆らわない。不承不承ではあるけれど。

 眼帯を取り付けると、沈んだ声調でジルは言った。


「……ですが、御令兄は左様な思し召しでは、御座いますまい。私の働きが御眼鏡に叶っていたなら、お嬢様のご結婚を急がれるいわれは、ありません

「立派な紳士に見染められ、由緒正しい家に嫁ぎ、珠のような子の母となることが、女性の幸せだもの。仕方がないのよ」


 跪いたジルの手で、アンクルブーツに履きかえる。これで、身支度が整った。鏡に映るのは、贅を尽くし着飾った、幸福な少女の虚像だ。ミチルは幸福な少女らしく、にっこりとほほ笑んでみる。


(今日も綺麗にして貰ったわ。幸せね)


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