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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第五話「ミチルと過去の亡霊」
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悪夢の真実

 ***


 十二年前、崩壊したハルメーン。火葬される街。


チルチルに抱かれて、美しい部屋から連れ出されたミチルは、マリ・ダオンと引き合わされた。チルチルがマリを婚約者だと紹介した時、ミチルの心を支える、大切なものが折れた。


ミチルは背骨から生えた無数の肢を石畳に突き立て、横転した馬車に覆いかぶさるようにして、マリを見下ろしていた。その姿はきっと、獲物をとらえる蜘蛛のシルエットに似ていた。


マリは震えあがっている。歯ががちがちと鳴っていた。泣き崩れそうな顔。なんと無様なことか。ミチルは冷笑した。


ミチルは絶対優位に立っている。マリの生殺与奪権はすべて、ミチルに委ねられているのだ。痛快だ。じわじわいたぶって、嬲り殺してやったら、すっとするだろう。ミチルはにっこりと微笑んで、猫撫で声を出した。


『言ったでしょう、レディ・マリ? わたくしはお腹が空いているの。助けてくださる?』


 お腹が空いている。ミチルはここ数日、何も食べていない。火の臭いでも誤魔化せない、外の人間たちの美味しそうな匂いにあてられて、空腹の限界だった。


 喰らってしまおう。邪魔な女だ。喰らって、あとかたもなく消してしまおう。


 ミチルは肢が鞭のようにしなる。空気を唸らせ、マリを串刺しにしようとする。


「だめだ、ミチル!」


 ミチルの肢は、マリの前に立ちはだかったチルチルの体に、ぎりぎり刺さらないところでぴたりと止まった。


 馬車が転倒したときに負傷したのだろう。チルチルの額は切れて流血している。けれど、顔が青ざめているのは、そのせいばかりではない。


 ミチルは咄嗟に両手で鼻から口にかけて覆った。チルチルの血臭はあまりに魅惑的で、蜜を求める蜜蜂のように、ふらふらと吸い寄せられそうになる。ミチルはありったけの理性で欲望を律しようとした。


(いけないわ、ミチル。絶対にだめ。お兄さまだけは、絶対にだめよ)


 チルチルを傷つけないように、細心の注意を払って、肢をそろそろと引く。チルチルは、油汗と血に濡れた額をぐいと乱暴に擦ると、少し上ずった声で言った。


「もうよそう。君は、恐ろしいことが出来る子じゃない。君は、僕らと一緒に生きていけるんだ。お腹が空いているのはわかる。だけど、もう少しの辛抱だよ。ここを出たら、君の好きな豚肉をお腹いっぱい食べさせてあげられる。さぁ、それをしまって、戻っておいで」


チルチルは優しい。チルチルに怪我をさせてしまったけれど、ミチルのことを怒っているわけではなさそうだ。

チルチルの胸に飛び込みたい。けれど、その後ろで祈るようにミチルを見上げているマリがいる限り、それは無理だった。


チルチルはミチルの返答を、固唾をのんで待っている。彼が肩で息をすると、ぬるりと流れた血が頬を伝い、顎から滴った。もったいないと、ミチルは思った。

ミチルは肢の一本をゆっくりと、チルチルの顔へ近づける。チルチルの髪に触れたとき、チルチルの肩が跳ねあがった。


ミチルは下手を打ってしまったと後悔した。こんな肢で触れようとするから、驚かせてしまった。ミチルは体を支える肢をたわめて、ぐっとチルチルに近づいた。ミチルの小さな手がチルチルの額に触れる。触れたとき、わかってしまった。チルチルが小刻みに震えていることに。


ミチルの一挙手一投足に戦慄くチルチルを、ミチルは愕然として見下ろした。


『お兄さま、わたくしが怖いの?』


 チルチルは刮目した。間髪いれずに頭を振る。


「そんなことない。僕は君の兄さんだ。君のことを怖がったりしない」


 ミチルは見逃さなかった。ミチルに指摘された瞬間、チルチルはぎくりとした。ミチルは的確にいたいところをついたのだ。恐らく、図星を。


『お兄さま……』


 チルチルとマリはぴたりと寄り添い合っている。それに比べて、ミチルは遠い。チルチルから遠くかけ離れてしまっている。


あってはならないことだ。チルチルはミチルのものだった。ミチルだけのもの。ミチルにはチルチルしかいない。


 めらめらと、炎が街を舐める音が聞こえる。静寂を破ったのは、乾いた破裂音だった。


立て続けに何発も打ちこまれる、銀色の弾丸。ミチルは肢で体を庇う。固い輝殻の肢は痛みを感じないが、ぱちぱちと弾ける銀の炎の臭いは、本能的な恐怖を煽った。


ミチルは過去のことをほとんど覚えていない。幼かったせいだとチルチルは言うから、そうなのだろうとミチルは思う。けれど、一つだけ、鮮明な記憶がある。


大きな黒い鳥が、おかしな風に身をよじり、大きく羽根をばたつかせながらミチルを追いかけてくる。抵抗した時に触れた鳥の体は不自然なほど柔らかく、穴という穴から、銀色の流体が流れている。それがミチルの体に入った瞬間、この世のものとも思えない激痛がミチルを襲った。

 

 銀の炎の臭いは、その時に嗅いだものと酷似している。ミチルは泣き叫んだ。


いつのまにか、ミチルは取り囲まれていた。ミチルの世話をしていた使用人たちと同じ、赤と黒で肌を覆い隠し、温度も匂いも遮断した人間たちに。ただし、使用人たちと違って、屈強な体つきをしている。

彼らが身に纏うのは、不触衣ふしょくいと呼ばれる、特殊な防護服である。人喰いの嗅覚を誤魔化すものだということを、その時のミチルは知らなかったが、チルチルは知っていた。

 チルチルには、ミチルが人喰い狩り師の集団の襲撃を受けたことが、わかったのだ。人喰い狩り師たちは混乱に乗じて、貴族たちが飼っていた人喰いたちの心臓を狙っていた。


チルチルは憤然と立ちあがると、声を張り上げた。


「違う! この娘は僕の妹だ。人間だ!」


 チルチルの叫びに返されたのは、一発の銃弾だった。

 銃弾はチルチルの右肩に被弾した。チルチルは後ろに吹っ飛び、恐ろしい悲鳴を上げる。マリは倒れたチルチルに駆け寄り、どくどくと流れる血を見て何か叫んでいた。


人喰い狩り師たちは容赦しなかった。この戦乱の中では、人を殺すことも、人喰いを殺すことも、咎めようがない。利益を得る為に殺す。彼らの行動原理は実にシンプルだった。


ミチルはチルチルをまじまじと見つめていた。撃たれた肩を押え、悶絶している。チルチルは血の気の引いた顔を上げた。縺れた舌で、それでも彼は懸命に訴える。


「ミチル……逃げ…………ころされ……」


 ミチルは目を見開いた。小刻みに震える体を抱きしめて、呟いた。


『お兄さま……死んでしまうかもしれないのに……わたくしの為に……』


 ミチルは左目を押えた。そこに埋め込まれた石の心臓が高鳴る。ミチルの体中を青い血が至福とともに駆け巡る。


 ミチルの背が、花が咲いたように弾けた。

背から生えた肢は、枝分かれし、増えていく。年輪を重ねた大樹のように大きくなって、ミチルとチルチルを傷つけた無頼漢どもに一斉に襲いかかった。


チルチルが実を呈してミチルを守ろうとした。その為に傷を負っても、ミチルの身を案じている。その想いはきっと、マリに向けられるものより、深い愛に違いない。


『うふふ……あははははっ! 愛されている! わたくしはお兄さまに愛されているんだわ!』


 ミチルは哄笑しながら、高揚のままに殺した。肢はミチルが意識せずとも当意即妙に殺戮を繰り広げる。人喰いを燃やす筈の銀の炎は、青白い燐光を放つ輝殻の表面で弾けて消えた。

 

ミチルが地面に降り立つと、もう、無粋な邪魔者たちは一掃されていた。そこに存在した痕跡すら残さず、消し飛んでいる。


けれど、一番の邪魔ものが残っている。ミチルは意識が朦朧としたチルチルを抱きしめるマリを、憎々しく眼下に見た。


『お前が一番、邪魔なのよ。この世界には、わたくしとお兄さまだけで良い。お前なんて、いらないわ』


マリの顔が恐怖に歪む。対するミチルの顔は、嫉妬に醜く歪んでいるだろう。


マリの腕の中で、チルチルが身動ぎした。チルチルが意識を取り戻す前に終わらせようと、ミチルは決める。チルチルには、幸せに微笑んでいる顔しか見せたくないから。


ミチルはマリを瞥見し、冷ややかに告げた。


『だから、消えてなくなって?』


 使う肢は一本で十分。目測が狂い、チルチルに怪我をさせては大変だ。


ミチルの肢はその凶暴で鋭利な先端で、憎らしい泥棒猫、マリ・ダオンを串刺しにする。そうして、肢は花が綻ぶように開き、八つ裂きにする。

 

ミチルの肢は、人間の心臓がある胸を、深深と刺し貫いた。


顰めた眉の下、見開いた目が、己の胸に刺さったミチルの肢を凝視している。青い氷柱のような肢に、長い指がそっと触れた。

かたく引き結ばれていた唇をゆっくりと解く。口腔から鮮血がほとばしり、体はがくりと力を失った。


「が……はっ……」


 ミチルは、百舌鳥の早贄のように肢に突き刺さった人間を、焦げ付くほど見つめていた。何度も何度も瞬きをする。何かの間違いだと思ったのに、何度繰り返しても、目の前の惨劇は変わらない。ミチルの肢に貫かれたのは、憎いマリではなく


「おにイ、さマ?」


 ミチルはおぼつかない足取りでチルチルに近づいた。そっと頬に触れると、ぞっとするほど冷たい。


「お兄さま……!」


ミチルの叫びに呼応するように、肢は枯れ萎み、ミチルの背にかえる。支えをうしない、地に膝をついたチルチルを支えようと、ミチルはチルチルに抱きついた。胸に空いた穴からこぼれおちるのは、命だ。ミチルはそれを認めたく無くって、体を密着させた。ミチルのドレスが、熱い血に濡れて重くなっていく。ミチルには、命の奔流を塞ぎとめることができない。


ミチルの背に、チルチルが腕を回した。まだ息がある。ミチルは藁にもすがる思いで、チルチルを抱きしめた。


「お兄さま、しっかり、しっかりなさって」


声が震えた。幼いミチルにも、わかる。もう手遅れだと。体を包むぬくもりが、消えてしまう。

チルチルは、しっかりとミチルを抱きしめた。ミチルもひっしとチルチルにしがみつく。チルチルの傷口から溢れる血と同じように、ミチルの双眸から、心臓から、涙が流れる。

チルチルはあやすようにミチルの頭を優しく撫でる。そして、叫んだ。


「逃げろ!」


どこに、そんな力が残されていたのか。驚き、身じろぎするミチルを、チルチルは放さない。


「ごめんよ、ミチル」


チルチルは、ミチルに耳うちした。


「君を、幸せな女の子にしてあげたかった。でもそれは、僕のひとりよがりだったんだね」


(いいえ、お兄さま。わたくしは、幸せな女の子です。お兄さまがいて下さるもの。わたくしは、お兄さまと二人、いつまでも一緒にいられるのなら、他に何も望みません。

 ねぇ、お兄さま。一緒にいてくださるでしょう? だって、約束したもの。わたくしたちは、ずっと一緒なの。わたくしは、お兄さまをはなさないわ)

 

 チルチルは、浅い呼吸を繰り返している。呼気に絡めて、ミチルの大切なものがどんどん失われていくようだった。それをとめたくて、ミチルは、チルチルの紫色の唇の口付けた。


 甘い。これはきっと、恋の味だ。こんなにも甘美なものを、ミチルは、今まで味わったことがない。

 もっと欲しい。さもしく口づけを深めようとするミチルの顔を、チルチルは引き剥がし、胸に抱きこんだ。むずがるミチルの髪を撫で、チルチルが吐息で囁く。


「僕は、君のことを何もわかっていなかった。僕のしようとしたことは、所詮、恵まれた者の傲慢でしかなかった。お父さまのことを、とやかく言う資格は、僕にはないのだろう。ごめん、ごめんよ、ミチル。許して欲しいなんて言えないけれど、やはり、許して欲しい。君は、僕の愛しい妹だから」


(許します。許します、お兄さま。あなたが喜ぶのなら、なんだってして差し上げたいの。泣きたいくらいに、あなただけが愛しい)


チルチルがミチルを、強く抱きしめる。チルチルの腕は、鎖のように重く硬く、ミチルを縛り付けた。チルチルの掌より硬いものが、ミチルの後頭部に押し付けられる。


「これからは、ずっと、一緒にいる。お兄さまが一緒だから、怖くない。寂しくないからね」


 乾いた破裂音。火薬と、火の臭い。死に至る痛み。


チルチルはミチルの心臓を打ちぬこうとした。心臓を銀の弾丸で打ち抜かれ、銀の炎で焼かれれば、ミチルは死ぬ。


チルチルは、ミチルを殺そうとした。


それでも良かった。二人で逝ったなら、二人はずっと一緒。このまま融け合って逝けるなら、天国でも地獄でも、二人きりでいられない現実より、ずっと良い。


銀色の檻の中。あの美しい部屋にチルチルが訪れる幸せが、ミチルの永遠になる。


 しかし、ミチルは死ななかった。ミチルの肩を貫く銀色の槍が、ミチルをチルチルから引き剥がしていた。

 ミチルを貫いた銀の槍は、へたりこんだマリの、スカートの裾から伸びていた。指の間からミチルを睨みつけるマリの目は、憎悪に燃えていた。



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