水晶の棺に眠るのは
階段を上ることが出来ない。食糧庫に近づくのが恐ろしい。
(食糧庫で飼われている家畜が、人間?)
階段を一段上がる度に、恐ろしい妄想が牙を剥く。ミチルは進むことも退くことも出来ずに、立ち往生していた。金色の鍵束を強く握りしめる。
ミチルには、確かめる術がある。ベティが去るのを待ち、食糧庫に忍び込むだけで良い。この邸の扉はすべて、ミチルが望めば開かれるのだから。
(もし万が一、食糧庫で人間が飼われていたとしたら、天使様は……人喰い)
その昔、神が奢り高ぶった人間を罰するべく、人を愛する心を砕き、つくり落としたとされる怪物。お伽噺に登場する、怖い悪魔のような存在。
(だとしたら、わたくしも食べられてしまうのかしら?)
考えて、ミチルは失笑した。
(バカなミチル。そんなこと、ある筈がないじゃない。ディル様は、いつでもわたくしを食べてしまえた。ディル様が人喰いなら、わたくしはおいしいこどもの頃に、ディル様のお腹に収まっている筈よ。そもそも、食べ物を愛して、結婚までするひとなんて、いる? いないわ、そんなおかしなひと)
さっきのベティの言葉は、少々悪趣味な冗句だろう。ミチルは世間知らずだから、いちいち真に受けてしまうのだ。
猜疑的な思考を軽く笑い飛ばして、一段上に踏み出そうとした、その時。
懐かしい声に呼び止められた。
「ミチルお嬢様」
頭で考えるより先に振り返った。いつの間にかすぐ後ろに、懐かしいひとが立っている。
すぐには信じられなかった。黙ってミチルの許を去ってしまったジルが、再びミチルの前に姿を現したという、夢みたいな現実を。
「ジル」
ミチルがその名を呼ぶと、ジルは仄かな笑みを浮かべて応える。眼鏡のレンズの奥にある愛情深い黄金の双眸は、まるで、ずっと見守ってくれる月のよう。
ミチルは感極まって、ジルに抱きついた。ジルの体は確かにここにある、幻ではない。ジルの肩口に額を押し付けると、涙がとめどなく湧いた。ジルの仕着せに深い色の染みが広がる。ミチルはジルの背にしっかりと腕を回し、涙交じりに言った。
「会いたかったのよ、ジル。あなたが恋しくて仕方がなかったわ」
「不自由をなさったのですか? 後任のウェンディはよく気が付くでしょう?」
「わからないの? ウェンディはよく尽くしてくれるけれど、それとこれとは、お話が別。わたくしは百人の完璧な使用人より、たった一人だけの、あなたがいいの」
ミチルは洟をすすり、潤んだ目でジルを睨み上げた。青い鳥と言い、ジルと言い、肝心なことがわかっていない。ミチルは自分一人では何もできない、手間のかかるお嬢様だろうが、世話をしてくれるなら誰でも良いわけではないのだ。
ジルは愉悦、困惑、もしくはそれらを半々に含んだ、曖昧な表情をしている。
「恐悦至極に御座います、お嬢様。けれど、私はもう、お嬢様とご一緒することは出来ないのです。私の仕事はもう、終わりましたから」
ミチルは耳を疑った。凪いだ水面のように、ちっとも動揺しないジルが、信じられない。せっかく再会出来たのに、ジルはまたミチルの前からいなくなろうと言うのだ。平然として。
ミチルの大切な執事は、こんな薄情者だったのか。ジルを失ったミチルが、どれだけ心細い思いをしたか、わからない筈がないのに。
ミチルは縛めるようにジルを抱きしめる。溺れながら藁を掴むように、必死に縋りついた。
「いけません! 二度とわたくしから離れることは、許さないわ」
「奥様には、青い鳥がいらっしゃるでしょう?」
「だから、それとこれとはお話が別だと言ったでしょう! ディル様がいらっしゃるから、あなたがいなくて良いなんてことにはならないわ」
ミチルは嫌嫌と頭を振りながら、ジルの抑揚のない声音に失望しつつあった。
(わたくしの気持ちなんて、どうでもいいの? あなたにとってわたくしとの時間は、ただの仕事に過ぎないと言うの?)
体が震える。温かい血のめぐりが体の末端からひいていく。
(どうしてなの? わたくしのなにがいけないというの? どうしてわたくしを愛してくれないの?)
みじめだ。いつもそう。ミチルは愛されたつもりになって、自分は特別だと思いあがって、有頂天になって。そうして残酷な真実によって、奈落の底に突き落とされる。
ずるずると崩れ落ちそうになるミチルの体を、ジルが支えた。ジルは、発作的に振り払おうとするミチルを押さえつけ、顎をつかみ持ち上げる。
ミチルは、執事のあまりに無遠慮なやり方に反感をもった。抗議しようと睨み上げた先に待ち構えていた、ジルの表情を見て凍りつく。
ミチルを溺愛して、宝物のように、大切に慈しんでくれる執事が、今はまるで、飢えた獣のようだった。
「お嬢様が最も必要とするのは、誰です。世界でたった一人だけ選ぶとしたら、誰をお選びになるのです」
ジルの迫力は、ミチルによそ事を考えることを許さない。求められるまま、ミチルは想像した。誰もいない世界に、たったひとりだけ、連れていけるとしたら、誰を選ぶだろう。
想像上の不毛な焦土に、ミチルはぽつねんと立っている。ミチルは、一人きりだった。
ミチルは口をぱくぱくさせた。声は出ない。答えも未だ、出ない。
ジルはすうっと目を眇めた。
「まだ、選べないか」
苛立ちを含んだ物言いに、ミチルはびくりと竦み上がる。ジルは、冷静に焦れている。
ジルは、ミチルからそっけなく身を放した。突き放すような態度を、ジルがとるのは初めてのことだ。ミチルは向けられた背に追いすがろうとする。捕まえようと伸ばしたミチルの指先が触れる寸前に、ジルは両腕を大きく広げた。
ジルの骨格が大きく歪む。ジルの両腕は大きな翼に変わった。
ジルが大きく羽ばたくと、轟、と突風が起こる。ミチルは咄嗟に両腕で顔を庇った。
風が止み、ミチルはあたりを見回した。遥か頭上から、ジルの声がする。
「サベゲテル・ラニマーテルの部屋に、お嬢様の失くされた、大切なものが御座います」
ミチルは声のする方を振り仰いだ。渦を巻く階段が吸い込まれる暗闇から、ジルが語りかけてくる。
「青い鳥はあなたを愛しています。青い鳥の愛に報いたいでしょう? ならば、失ったものを取り戻し、完璧なあなたになるのです。青い鳥の為に。そうしなければ、あなたは幸せになれない」
幸せになれない。その言葉に、頭をがつんと殴られたような衝撃を受ける。呼吸が浅く、早くなる。
ジルは暗闇からミチルを見つめている。二つの月のような双眸が、幽やかに浮かび上がった。
「さあ、お行きなさい」
ミチルは踵を返し、階段を駆け下りていた。ミチルはただ一つの脅迫概念にとりつかれた。
(幸せにならなきゃ、幸せにならなきゃ、幸せにならなきゃ! わたくしが幸せにならなきゃ……)
ミチルはテルの部屋の扉に当て身する勢いで飛びついた。どんどんと、扉をたたく。
「テル! テル、いるのでしょう? ここを開けて頂戴!」
ミチルは焦っていた。十八歳の誕生日はすぐそこにまで迫っている。幸せにならなければならない。テルの部屋に入らなければ幸せになれない。ジルがそう言うのだから、きっとそうなのだ。ジルがミチルに嘘を教えたことなんて、一度も無かった筈だから。
ミチルは金の鍵束からぴったりと合う鍵を探す。震える手で鍵穴に差し込んだ。
「テル、入るわ!」
ミチルは扉を開いた。
テルは留守だった。暗い部屋の全貌は、見回すまでも無く視界におさまる。
殺風景な小さな部屋だ。清潔だが、気がめいるような暗い雰囲気の部屋である。窓はない。置かれているのは、寝台と、衣装箪笥と、小さな本棚。そして、中央に置かれた水晶の棺。
ミチルは水晶の棺の前に跪いた。
棺の中で眠るのは、お伽噺に出てくるような、美しいお姫様ではない。顔色の青白い、痩せた少女だ。そばかすが目立つ、決して美人とは言えない、不器用な顔立ち。髪の燃えるような赤が、彼女を囲む白い花に引き立てられ、炎のように鮮やかだった。
「マリ」
唇がひとりでに開き、彼女の名を呼んだ。それが許せなくて唇をかみしめると、鋭い歯が薄い皮膚を突き破り、青い血が流れる。それでも、唇は彼女の名を呼ぶことをやめない。
「マリ」
ミチルはあらがったが、抵抗も空しく膝が折れた。ミチルの腕が勝手に、棺の蓋をずらす。白い花の甘やかな芳香に交じって、懐かしい、彼女の匂いがする。
彼女の顔の横に手をつく。彼女の癖の強い髪をとく。忘れていた感情が、胸にこみあげてくる。
顔を傾ける。ミチルの唇が、薄らと開いたマリの唇に触れた。青い血が唇を伝い、マリの口に入る。唇ははなすと、マリの睫毛がふるりと震えた。
「マリ」
チルチルはマリの名前を呼び続ける。その切ない恋心を感じて、ミチルは心を八つ裂きにされる苦痛に苛まれていた。
わかっている。
チルチルがマリを愛していることも。
チルチルがミチルを憎んでいることも。
なぜなら、ミチルは人の血肉を喰らう化物だから。残酷なやり方で、二人の仲を引き裂いてしまったのだから。