ベティのやきもち
「いえ、だからね。わたくしたちは、あなたが勘ぐっているような関係ではないの。神に誓って、テルに恋はしないわ」
「なんでですか! テルの何処が気に食わないっていうんですか!」
ベティがいきなり大きな声を出す。彼女の怒気は空気をびりびりと震わせた。ミチルのものではない、息をのむ音がそこかしこの扉の奥から聞こえる。
興奮したベティは、そんな微かな声を聞き取ることは出来なかっただろう。ベティはヒステリックに喚いた。
「あいつは確かに、いい加減で、全然仕事が出来なくて、やる気のない、本当にどうしようもない奴ですよ!? だけど、それを補ってあまりあるくらい、優しい奴なんです! テルがいなかったらあたし、ここでこうやって、笑ったりふざけたりして、楽しいって感じながら働き続けることは、きっと出来なかった!」
こんな状況でなければ、まぁまぁ、ごちそうさま。と、和やかに返せただろうが、ミチルはただただ、圧倒されていた。
怖い顔で怒鳴り散らしたことで、少し冷静になったのだろう。おろおろするミチルに、ベティはもごもごと詫びを入れると、低い声でぼそぼそと言う。
「あたし、なかなかここに馴染めなかったんです。まわりの使用人たちとは、血統が全然、違うもんですから。普通、あたしみたいな貧弱な血統の奴を、天使様が召しあげることなんて、あり得ないんです。だけど旦那様は、ええと、どこだっけ……そうそう、ハルメーンだ。ハルメーンからの移民だから、他の天使様とは違うお考えをお持ちみたいで、輝殻が青色って理由だけで、あたしを召しあげてくれました」
天使の事情に疎いミチルは、相槌をうつしか出来ない。それで、ちょうどよかった。そもそも、ベティの言葉はミチルに向けられたものと言うより、独白めいている。ベティは遠い目をして話し続けた。
「召し上げの話しを貰ったとき、あたしにもようやくツキが回って来たぞって、万歳して喜びましたよ。これで、両親や弟妹たちに、楽させてやれると思って。
でも、いざここに来て自分がどれだけ場違いで、身の程知らずの小娘なのか、思い知りました。だってまわりは、学も教養もある、上等な血統のひとたちばっかりだったから。同じ言葉を喋ってる筈なのに、言葉が通じてないみたいなんです。遠い国に、ひとりで飛び込んじゃった感じでした。何をやってもだめ。仕事は任せて貰えなって、誰にも相手にされなくって。いつも隅っこでめそめそしてました」
勝気で男勝りなベティしか知らないミチルには、俄かに信じがたい過去だ。ベティはふと笑みを零す。寂しそうに愛しそうに、ベティは過去を振り返った。
「そんなあたしに、優しく声をかけてくれたのが、テルだったんです。最初は戸惑いました。あいつ、最初からあの調子でしたから。バカにされてるのかって思ったら、腹が立って、情けなくって、仕方が無かった。でも、本気であたしのこと心配してくれてるんだって、すぐにわかったんです。
あいつ、あたしのことたくさん笑わせてくれました。あたしがどんなバカなヘマをしても、あいつだけは決して、あたしを責めないんです。誰も気づいてくれない、小さなことで褒めてくれるんです。どんなに落ち込んでても、あいつと話してたら、ふっと心が楽になりました。そのうちに、まわりに叱られるのが怖くて働いてたのが、テルに褒められたくって働くようになって。
そうしたら、だんだんミスが少なくなって、少しずつ、まわりに認めて貰えて。今はもう、まわりに引け目を感じて萎縮してたのが嘘みたいに、馴染んでるんですよ。全部、テルのお陰です」
過去を懐かしんでいたベティの目が、唐突に現実に戻って来る。ベティは主従関係をすっかり失念して、恋敵としてミチルを睨みつけると、語気荒く言い放った。
「あいつはあたしの恩人です。すごくいい奴です。テルに想われて、なんともおもわないなんて、奥様は男を見る目がありません!」
(ああ、ベティ。困った子。わたくしがテルに恋していても、恋していなくても、気に入らないと言うのね。そもそも、あなたは重要なことを忘れているわ。わたくしは人妻なのよ。夫はあなたのご主人さまなの)
ふと、ウェンディも同じように感じたのだろうかと思った。
ウェンディに対する疑惑を完全に払しょく出来たわけではない。けれど、もしウェンディが本心から、青い鳥に恋慕を抱いていなかったとしたら。
ウェンディはあの涼しい顔の裏側で、ミチルの癇癪に頭を抱えたのだろうか。
ベティは高ぶった感情をもてあまし、薄らと涙ぐんでいる。ミチルは優しい声色を使って、噛んで含めるように言った。
「テルはわたくしの良い友人よ。彼と過ごす時間は、わたくしの癒しだわ。それはとても柔らかくて優しい関係なの。恋じゃないのよ。それにね、テルははっきり言ったわ。テルがわたくしに恋をすることは、絶対にないって」
「だったら! なんてテルは奥様のことを話すとき、あんなに切なそうなんですか!」
「それは……似ているからじゃないかしら」
ミチルがそう言うと、ベティは胡乱気に眉を潜めた。
「似てる? 誰と誰が?」
ミチルは迷いなく答えた。
「わたくしとテルよ」
ベティは目を丸くしている。傍目に見ると、ミチルとテルは似ても似つかないだろう。異性だし、外見にも似たところはない。ひょうきんでお調子者のテルと、おっとりしていて世間知らずのミチルに、共通点を見いだせないのも無理はない。
けれど、ミチルとテルは、目に見えない深いところが似通っている。飾らない素の部分、とても脆いところが、そっくりだ。それは、当人たちにしかわからない、共鳴のようなものだとミチルは考えていた。
ベティはミチルの言葉を、時間をかけて咀嚼していた。少し喉に詰まっていたようだが、あらかたは飲み込めたらしい。ベティはミチルの手をとり、引っ張った。
「テルがいるとしたら、たぶん自室です。こっちですよ」
食糧庫を出るとき、ベティはきちんと鍵をかけた。ミチルがわけを訊ねると、食糧が逃げてしまわないように、施錠は徹底しなければいけないのだと、素っ気なくも一応は説明してくれる。
テルの私室は階下の最下層にあった。
頑丈な錬鉄扉をドアノッカーで叩いて、ベティは大きな声でテルに呼び掛けた。西の別棟にはテルの部屋しかないので、夜遅いと言っても、他聞を憚って声を潜める必要はないそうだ。
「テル、いるんでしょ! 奥様がいらしたわよ。ここを開けな!」
返事はない。ベティはドアノブを握り、ひいたり押したりしたがびくともしない。鍵がかがっている。
ベティは肩越しにミチルを振り返ると、肩を竦めた。ミチルに場所を譲った。
ベティのつけつけとした視線に身を竦ませながら、ミチルは扉の前に進み出る。こほんと咳払いをすると、テルに声をかけた。
「テル? わたくし、ミチルよ。いるのなら、声だけでも聞かせてくれないかしら?」
返事はない。待ってみても、返事はない。ミチルは、がっかりしつつほっとした。ミチルが声をかけると返事があった、なんてことになったら、ベティがいよいよ臍を曲げてしまうところだった。
首を傾げるベティの声は、少し弾んでいる。
「おかしいですね。奥様が声をかけても、返事もないなんて。本当にいないのかなぁ?」
そうかもしれないわね、と相槌を打ち、ミチルはベティと一緒に螺旋階段を上がり始めた。ベティの態度が軟化したので、自然と笑顔になる。
「ありがとう、ベティ。お仕事のお邪魔をしてしまって、ごめんなさいね」
「いえ、奥様。これも仕事ですから」
仕事と言うと、矢張り、青い鳥のおぜん立てがあったということだろう。
(せっかくお心配りをしていただいたのに、わたくしがテルと会えなかったと知ったら、ディル様はがっかりなさるかしら)
肩を落として憂慮するミチルの横顔を盗み見ていたベティが、ぽつりと落とすように呟いた。
「あたしの方こそ、すみません」
「なぜ謝るの? あなたは何も悪いことはしていないわ」
ミチルがとぼけて微笑むと、ベティは面食らったようだ。それから、諦めたように苦笑する。
「それだもんなぁ……奥様の仰る通り、テルと奥様は、ちょっと似てます。そういうところ」
二人は何も言わずに階段を上る。二人分の靴音が反響するのを聞きながら、ミチルはとベティに訊ねた。
「ねぇ、ベティ。ひとつ、聞いてもいいかしら?」
「なんです?」
「あなたさっき、ディル様はハルメーンからの移民だと言ったわよね?」
「そうですよ」
ミチルの聞き間違いや、思い違いではないらしい。ミチルは眉を潜めて、首を傾げた。
「変ね。ジルからは、ディル様は使徒座十二席から篤志の為に崩壊したハルメーンを訪れたと聞いていたのだけれど」
「そんな筈はないです。旦那様が使徒座にいらした時のこと、あたし、まだこどもだったけど、よく覚えていますもん。あのハルメーンを生き延びた天使様の凱旋だって、席中お祭り騒ぎで」
そうだっただろうか。使徒座に連れて来られた時のことを、ミチルはよく覚えていない。ジルの腕に抱かれ二人きり、カーテンが閉め切られた馬車の中の、耳が痛いほど静けさだけ、おぼろげに覚えている。
ミチルは言った。
「そうだわ。わたくしの他に、ハルメーンから連れられてきたこどもたちは今、どうしているの? あなたたちのように、こちらで働いているのかしら?」
こどもたち? とベティは尻上がりに言った。
「旦那様がハルメーンからお連れになったのは、奥様と、ミセス・ジュジュだけだと聞いてますけど」
訊けば訊くだけ、ミチルの思考が縺れていく。ジルは青い鳥を高潔さを演出する為に嘘をついたのだろうか。けれど、疑う以上に、ミチルは己の記憶に自信がない。
(わたくしの記憶違いかしら……)
そうだとしても、さしたる問題ではないだろう。と、ミチルが頭を切り替えようとしていると、ベティがぽんと手を打った。
「ああ、こどもって、もしかして人間のこどものことですか? でしたら、とっくの昔に食べられちゃってますって。肉は若いうちが、柔らかくておいしいですから。生かしといたって役に立ちません、餌代がかさむだけですよ」
ミチルは耳を疑った。否、間違いなく、聞き間違いだ。どうしてそんな聞き間違いをするのか、理解に苦しむ程に、おぞましい聞き間違いをしてしまった。
ミチルは聞き返そうとしたが、一足早く、ベティが慌てた様子で言った。
「あっ、いっけない、餌やりの途中だった! 奥様、あたしはこれで! おひとりで戻れます? お役にたてなくって、すみません!」
ベティは階段を駆け上がって行った。一人取り残されて、ミチルはその場に立ち尽くしていた。食糧庫で聞いた、扉の奥の啜り泣く声が頭の中で警鐘のようになり響いている。