青い鳥の愛2
ウェンディは時折、思い出したように「そろそろお休みになっては如何ですか」と遠慮がちに勧めるが、ミチルは頑として首を縦に振らなかった。青い鳥の無事を確かめるまで、眠れそうにない。長椅子の上で膝を抱えて、啜り泣きながら、辛い時間をやり過ごしていた。途方にくれるウェンディの背後で、時計の針だけがくるくる回る。
青い鳥がミチルの部屋を訪れたのは、いつもならミチルが起きだす時刻だった。ドアが開かれた時、ミチルはぱっと顔を上げた。青い鳥の体は完全無欠だ。ウェンディの言った通りだった。
ミチルは泣き腫らした顔を恥じる余裕もなく、顔をぐしゃりと歪め、こどものようにわんわんと泣いた。青い鳥はミチルを慰める為に近づいてきたが、ミチルが塩にまみれ、背中に穴のあいたドレスを着たままだとわかると、梟のように頭だけでくるりとウェンディを振り返った。
「これはどういうことダね、ウェンディ。我が妻ヲこんな状態のまま、休ませモせず、ただ夜ヲ共に過ごすことガ、君の仕事かね」
職務怠慢はまぎれもない事実。さしものウェンディも、返す言葉がない。平謝りするウェンディの旋毛を見下ろし、青い鳥はやれやれと溜息をついた。
「神の寵児たる我が妻ノ前でハ、流石の君モかたなしダな」
青い鳥はウェンディに、ミチルの身を清め、着替えさせ、休ませるように指示した。ウェンディはいつもの彼女のように、きびきびと働こうとしたが、ミチルは青い鳥にひっしと抱きつき離れようとしなかった。
青い鳥はまた溜息をつく。その溜息には愛情がこもっている。同じやれやれ、でも、さっきのやれやれとは、まったくニュアンスが異なっていた。
青い鳥はウェンディを下がらせると、何も言わずにミチルを膝に座らせた。青い鳥の胸に背を預けたミチルは、頭を撫でる青い鳥の右の手羽根を両手でとり、頬ずりする。ちゃんと右手があることに、ミチルは歓喜のあまり声を震わせる。
「よかった……ディル様がご無事で、本当によかったぁ……」
「あの程度ハ、傷のうち二入らぬ」
青い鳥はそう言うと、ミチルの体を反転させる。向かい合うかたちで膝に載せたミチルの手を、青い鳥は宝石の羽毛に覆われた胸に差し入れた。羽毛を掻きわけ、胸の中央に埋まった深紅の石に触れさせる。石は血潮のように熱く、どくんとどくんと脈打っている。これが青い鳥の心臓なのだと、ミチルにはすぐにわかった。
青い鳥はミチルの手に、彼の最も重要で弱い心臓を委ねているのだ。怖くなったミチルが手をひこうとするのを、青い鳥は許さない。戸惑うミチルを、青い鳥は静かな目で見つめる。
「この青い鳥ヲ殺すなら、この心臓を抉り出すノだ。肉体ヲ失えば、私二なすすべはない。心臓を銀ノ炎で焼き融かせバ、私ハ死ぬ」
ミチルは愕然とした。青い鳥は何を言っているのだろう。その言い方じゃあ、まるで、ミチルが青い鳥を殺そうとしているみたいだ。
「でぃ……る、さま……? どうして、そんなことを仰るのです? わたくしは、ディル様を……」
殺そうなんて、考えていない。そう言おうとするのを、チルチルが遮った。そしてあろうことか、彼は悪魔の言葉を囁く。
(殺そう、ミチル)
チルチルは繰り返す。
(殺そう、ミチル。今がチャンスだ。やられる前にやらなければ。この化け物を、今ここで仕留めるんだ)
ミチルにはわからない。青い鳥は、ミチルを愛してくれている。それなのに、どうして殺さなければならないのか。
チルチルは、ミチルが愛され、幸福な結婚をすることを望んでくれていた筈だった。それなのに、チルチルは殺せ殺せとミチルを凶行に駆り立てようとする。ただの無力な少女は、兄の狂気に震えた。
(や、やめて、お兄さま……なんて恐ろしいこと)
(どうしたんだい、ミチル? 初夜を迎えた処女のように、びくびくしているな。大丈夫さ。何も、初めてじゃない)
初めてじゃない。そんな筈がない。ミチルは虫も殺したことはない。肉を裂く感触も、血潮の熱さも、甘美な勝利の味も、何も知らないのだ。
知らない筈だ、その先にあるのが、虚無感であることも。後悔であることも。絶望であることも。
知らない筈なのに、ミチルは知っている。しかし、知っていてはいけない。思い出してはいけない。ミチルは耳を塞いだ。
(やめて、それ以上何も仰らないで)
(黙らないよ、言わせておくれ。ミチル。君はもう、両の手で数え切れないほどの人間を殺めているんだ)
(そんなの嘘! 酷い……どうして、そんな酷い嘘をつくの。お兄さまは嘘つきよ。やっぱり、嘘つきなのよ……。お兄さま、そんなに、わたくしが憎いのですか?)
(愛しているとも、ミチル。僕の愛しい妹。君には、世界で一番、幸せな女の子でいて欲しい)
だから、と言ってチルチルはミチルを抱きしめた。彼の体は冷たい。あの日、血と一緒に熱を失ったチルチルの体は、もう、優しかったあの頃のように、温もりをもたないのだ。
(この夢は君には優しい。醒めることのない夢の中で、君を守ってあげたいんだ。ミチル、僕とひとつになろう)
(いや……いやよ、もういや……わたくしはもう、あんな思いをしたくない……)
(君は僕と一つになることを、望んでくれたよね。だから君は、僕を)
(やめて!)
ミチルは渾身の力でチルチルを振り払った。チルチルが透きとおっていく。消えかかる声で、チルチルは言った。
(明日が待ち遠しいね、ミチル。君の誕生日が、僕らの誕生日になる。素晴らしい日だ。……その化け物を殺すのは、それからでも遅くない)
ミチルはがちん、と震える奥歯を噛みしめた。ミチルは、青い鳥の胸に寄りかかり、喘ぐように息をしている。
ミチルは霞む目で懸命に青い鳥を見上げた。彼は何も言わずとも、その目は、ミチルが愛しい、愛しいと言っている。
ミチルが求めてやまない、ミチルだけの愛。ミチルは青い鳥の胸に顔を埋めた。心臓の鼓動を頬で感じる。
「ディル様……わたくしを愛して。わたくしを、世界で一番、幸せなお嫁さんにしてください……さもなければ、わたくしはお兄さまの憎しみに囚われてしまう……」
そんなの、嫌だ。やっと手に入れたのだ。ずっと欲しかった。ミチルだけを愛してくれる誰かが。一番欲しいものは、永久に手に入らない。この際、代用品でも構わない。
愛が欲しい。愛されなければ、ミチルはいったい、何のために生きているのだろう。
青い鳥は、ミチルの髪を優しく撫でてくれた。
「可愛そうに、辛いのダな、かわいそうに」
ミチルは涙ぐむ。そう、ミチルは辛いのだ。わけもわからず、辛い。どんどん辛くなっている。そして、こうして憐れみ、慰めてくれるひとがいることの幸福を、ミチルは噛みしめていた。
青い鳥はあやすように、ミチルに語りかける。
「いましばらく、耐えておくれ。今のお前ハ、繭の中で一度、溶けているのダ。その混乱と苦痛二耐えれば、お前ハこの世界で最も美しい、青い奇跡になれル。そうなったお前ヲ、私ハかならず、幸せにする」
青い鳥はミチルの顎を掬い取り、顔を上げさせた。ぽろぽろと零れる涙を、爪が器用に拭い去る。
「お前の涙ハ宝石のようだ。美し過ぎて、とめどなく流す二は惜しい。さぁ、泣くのは止めて、入浴し、着替えを済ませ、少し休みなさい。それから、サベゲテル・ラニマーテルを探すのダ。彼は今日、お前に会いにハ来ない」
ミチルは目を瞬かせた。
「なぜ、ですか? わたくしは、テルを怒らせるようなことをしてしまったのかしら?」
「怒ってなどいないサ。彼は滅多なことでハ怒らない。だが、思いつめやすいのダ。探して、見つけ出して、慰めてやると良イ。お前ハ彼の為に何かヲしてやりたいのだロウ?」
促されて、ミチルはこくりと頷いた。青い鳥は満足気に笑い、言った。
「西ノ別棟二居る、ケキーク・ベディグルルを訪ねてみては如何ダ。彼女は、サベゲテル・ラニマーテルのことヲ、気にかけテいるからナ。彼の居所ヲ知っているかモしれん」
青い鳥はそう言うと、ミチルの鼻先を嘴でかるく啄ばんだ。ミチルはびっくりして目を見開き、それからくすくすと笑う。青い鳥も笑いながら、ミチルの笑顔を愛しそうに見詰めた。
「安心して行っておいデ。お前の帰る場所ハ、この胸にある」