青い鳥の愛
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「……ということがあったのです。おかしなウェンディでしょう?」
夕食を終え、ウェンディが食器を片づけて退室したのを見計らって、ミチルは青い鳥に事情を説明した。
ミチルは青い鳥の同調と、あわよくば、テルへの助け船を期待していた。主人と下級召使でありながら、二人で会話をする機会があるくらいだ。青い鳥とテルは、それなりに親密なのだろう。
青い鳥の嘴から、廃墟に反響するような笑声が漏れ出す。青い鳥はミチルの訴えを深刻には受け止めてくれず、のんびりと笑っていた。
「我が妻ヨ、ウェンディをあまり責めテくれるナ。彼女ハお前ノ高貴な青い血に魅せられテいる。サベゲテル・ラニマーテルにお前ヲとられたような気がしテ、不貞腐れてしまったのダ」
おっと、これはウェンディには内緒だぞ。と青い鳥は長い指を嘴の前に突き出して、二つの月の双眸を瞬かせた。微笑ましいと目を細める温顔。ミチルは釈然とせず、ぽつりと呟いた。
「ウェンディのことを、よくおわかりなのですね」
落とした言葉が思いのほかとげとげしかったので、ミチルは慌てて、新しい言葉を上塗りした。
「けれど、テルが気の毒です。ディル様。どうかテルがウェンディにいじめられないように、お心配りをなさってくださいましね」
「ウェンディに苛められているのハ、なにモ、サベゲテル・ラニマーテルばかりでハなイ。他ならぬ私も被害者ダ。この家の誰よりモ、彼女ノ厳しい言葉二いじめられている」
「ディル様ったら。わたくしは真面目に申しておりますのよ」
ミチルはこどもっぽく、むっすりと頬を膨らませてしまう。さては、青い鳥までテルを「ネーム・レス」「色濁り」だと軽んじているのだろうか。ミチルの恨めしい上目づかいに応え、青い鳥はミチルの顔を覗き込んできた。鉤爪の手が不器用にも優しく、ミチルの髪を撫でる。
「わかっているとも。お前はサベゲテル・ラニマーテルの為ニなることヲ、夢中になっテ考えテいる。この私との時間デさえ」
きょとんとするミチルを、じっと見つめる青い鳥の双眸。黄金の丸い目を見上げていると、夜空を見上げているかのような錯覚をしそうになる。月が二つ浮かぶ、異界の空をひとりきりで見上げているような。
ミチルの髪を撫でる手付きは優しいが、青い鳥の声には詰るような響きがあった。
「ウェンディが嫉妬する気持ちハ良く分かる。愛しの我が妻よ。私も妬かないわけデハないのダよ」
ぽかんと口まで開けて呆けていたミチルは、我に返った。声が裏返る。
「も、申し訳ございません! わたくしったら、テルのことばかり話しておりましたわね。近頃、テルとたくさん話しをするものですから、どうしても、テルのことを考えてしまいますの。テルはとても思いやりがある優しいひとで、わたくしの慰めになってくれますわ。わたくしも、テルに何かしてあげたくて……」
青い鳥はフクロウのように、ほう、と低い声を出す。ミチルはぶんぶんと首を横に振った。淑女にはあり得ない所作だが、そこまで気が回らない。頭は沸騰したようで、顔は湯気がたちそうな程真っ赤だ。
(もしかして、これは嫉妬……? ディル様、嫉妬してくださっているのかしら? わたくしは、愛されている?)
ミチルは不貞を疑われた妻にしては、緩み過ぎた頬を隠すように押さえ、ぺらぺらと言い訳のような言葉を並べたてた。
「いえ、その、テルを異性として意識しているとか、恋しているとか、そんなことはないのです。テルとの時間は穏やかで心地よくて、ひだまりで過ごすようですわ。テルは、どこか似ているのです。わたくしのジルに」
しゃらりと、涼やかな音がしたかと思うと、ミチルは固く冷たい青い鳥の胸に頬を寄せていた。
驚いて身動ぎすれば、背に回された翼に阻まれる。抱き寄せられたのだと、やっと気が付いて、ミチルはぎくしゃくと顎をあげる。
石膏の化面のような白い顔から伸びた嘴が、ミチルの耳のすぐ横にある。青い鳥が言葉を紡ぐと、嘴がかちかちと鳴る音が耳元で聞こえた。
「ジルハお前の何なのカ?」
「ジルは、わたくしの執事です」
わかりきっている答えを返して、ミチルは青い鳥の顔色をそっと窺った。固い顔には表情が浮かばないが、目を見ていると、青い鳥の気持ちが、少しだけ、わかる気がする。
ミチルは少し考えてから、ぬき足差し足で歩く様に、慎重に付け加えた。
「けれど、わたくしはジルのことを、お父様のように慕っております」
「……そうダ。お前二とってジルは父親。絶対の愛情ヲお前二注ぐ、決してお前ヲ裏切らない父親」
「ディル様?」
『我が妻よ、お前を愛している』
青い鳥の言葉が、頭の中に直接響いて来る。嘴のぶつかり合う音はしない。不自由な嘴を介さない青い鳥の声は、甘くまろやかにミチルの心に染みわたった。
『愛している。お前がこの世界に生を受けた瞬間から、禁忌すら超え、ずっと想い続けている。お前が苦難を乗り越え、この青い鳥と結ばれるにふさわしい存在となるのをずっと待っている。お前が目覚め、私に美しい名を告げるその時まで、お前を狂おしく求めるこの激情を縛めていよう』
青い鳥の言葉は甘美な毒のようにミチルを痺れさせる。ミチルは何も考えられず、青い鳥が囁く愛に酩酊するしかなかった。
ミチルは鎖のように冷たく重い腕が、愛だと思った。ミチルが求めてやまない、ミチルだけにそそがれる愛。ミチルは心を震わせ、これが無上の喜びだと感じていた。
(こんなにも愛されて結婚できる……わたくしは、なんて幸せなのかしら)
青い鳥がミチルだけを愛しているのなら、ミチルはもう、あんな思いをしなくていいのだ。心をずたずたに引き裂かれる、脈打つ心臓が憎らしくなる、痛い思いを。
チルチルでなくたって、いい。愛してくれるなら、誰だっていい。愛されれば幸せになれる。本に出てくるお姫様たちはみんな、よく知りもしない王子様に愛されて、幸せになれた。
ミチルは青い鳥の背に腕を回そうとする。しかし、青い鳥は強い腕でミチルを束縛して身動きさえさせない。完全に自由を奪われていると気づいて、ミチルは本能的に怖くなった。むずかるようにもがくミチルをきつく抱きしめ、青い鳥は囁き続ける。
『もう直、お前は目覚める。お前は打ちひしがれるだろうか。しかし、何も心配はいらない。お前には私がいる。お前の涙が枯れるまで、お前をこの腕に抱いていよう。悲しい夢だったと囁こう。これは幸福な目覚めなのだと』
「……夢?」
言ったのは、チルチルだった。
(貴様の仕業が全て、夢だったと? 随分、都合のいいことを言ってくれるじゃないか。それでも構わないさ。だが、この悪夢は貴様を逃がさない)
チルチルの声は憎悪に凍えている。ミチルが恐れ、怯えたのは、一瞬だった。次の瞬間には、チルチルの憎悪はミチルに飛び火した。
「逃がさない」
体をめぐる熱い血潮が背に集まり、剣となって肉と皮膚を破る。憤怒の憎悪は、寒さと激痛を遥かに凌駕していた。
気が付くと、ミチルは赤い雨にうたれていた。白い雪が足元に降り積もっている。小首を傾げたミチルを、青い鳥が左翼で抱きしめていた。右の翼は肩口から消失している。
突如として目の前に広がった惨状は、絵のように現実味がない。優しく背を撫でる青い鳥が、右の翼を失ったなんて、信じられない。
しかし、ミチルは彼の血を頭から被っている。青い翼は塩の粒にかわり、ミチルと青い鳥の足元を埋めている。
ミチルは錯乱し、絶叫した。
「ディル様! なんてことなの、ひどいお怪我だわ……! ウェンディ! お願い、すぐに来てちょうだい、ウェンディ!」
「ただいま」
すぐに駆けつけたウェンディは、片翼を失い、泣き喚くミチルをよしよしと宥める青い鳥を見て、瞠目した。けれど、流石にウェンディは肝が据わっている。慌てず騒がず、青い鳥に「すぐに新しい器の手配をさせます」と告げると、きびきびと動いた。
程なくして戻って来たウェンディは「新しい器の用意が整いました」と青い鳥に告げた。
ミチルは、青い鳥に宥められながら、泣きじゃくっていた。どうして青い鳥が大けがをしたのかわからない。わからないけれど、ミチルは「ごめんなさい」を繰り返して、ひたすら泣いていた。青い鳥は左腕でミチルの肩を抱いて、羽で撫でるように優しく言い聞かせていた。
『いいのだよ。それを含めてのお前だと、私は理解している。それごと、お前を愛している』
青い鳥が部屋を出て行き、ウェンディは部屋に残った。ウェンディは足音もなく長椅子に座るミチルの許に近づく。両手に顔を埋めるミチルの前で、ウェンディは無言で佇んでいる。
泣きつかれたミチルがしゃくりあげながら顔を上げると、ウェンディはミチルの前に棒立ちしていた。ミチルの目尻から涙がこぼれると、ぎくりと肩を跳ね上げる。青い鳥が右翼を失った時より、余程うろたえているように見える。
「奥様……」
しばらくして、ウェンディがおずおずと言った。
「お召替えをなさりませんと……お召し物が破れてしまっております……」
ドレスだけではなく、シュミューズの背まで、刃物で切り付けられたかのように裂けているそうだ。しかし、今は自分の身嗜みに頓着する気力がない。青い鳥が心配でたまらないのだ。
涙にくぐもった切れ切れの訴えから、ミチルの心境をようやく察したウェンディは、こともなげに言った。
「ご安心召されませ、奥様。旦那様は、宿り換えを無事すまされました。明朝にはお身体の機能もすべて元通りになるでしょう」
それを聞いたミチルは、安堵のあまりまた泣きだした。ウェンディはまた硬直し、二人は無為な夜を明かしたのだった。