ウェンディの敵意
定刻、ウェンディがミチルの部屋にやって来る。ウェンディは黙々と化粧台の前に座ったミチルの髪を梳っていた。
ミチルは、ぼんやりと物思いにふけっていた。考えるのはテルのこと。今日の別れ際にテルが見せた、怯えたような様子をミチルは気にかけていた。
考えながら、見るともなく鏡にうつるウェンディを見ていると、鏡越しに視線が絡む。ウェンディの、眼差しの強い美貌に見返されると、腹の底でどす黒い火が燻るのを感じる。ミチルよりずっと美しく、強い女性。劣等感が嫉妬に油を注ぎ、炎はめらめらと燃え上がる。
瞬きで誤魔化して目を逸らしたミチルを、ところが、ウェンディは凝視し続ける。慎み深い召使らしからぬつけつけとした視線が奇妙だ。ミチルが見つめ返すと、ウェンディは端的に言った。
「お顔のお色が優れません」
「そうかしら?」
指摘されて、ミチルは鏡に映り込む自分の顔をしげしげと見つめる。情けない顔を青い鳥に見せるわけにはいかない。青い鳥には、出来るだけ美しい自分を見せなければいけない。ただでさえ、醜い左目というハンディキャップがあるのだ。
ミチルは虚像と睨めっこしてから、小首を傾げた。
「いつも通りだと思うけれど」
ウェンディはふるふると首を横にふる。ミチルの薔薇色の頬に触れるか触れないかのところに手を翳した。
「何かご心配事がおありですか? サベゲテル・ラニマーテルがなにか粗相を?」
「まさか、違うわ。テルはよくしてくれるの。くれぐれも勘違いしてテルに辛く当ることのないようにね」
「心得ました」
ミチルが慌てて釘をさすと、ウェンディは恭順した。けれど、なんだか浮かない顔をしている。見ようによっては、不貞腐れたように見えた。ウェンディはやはり、ミチルがテルと過ごすことを、快く思っていないようだ。
テルの言うとおり、ウェンディは筋金入りの男嫌いなのだろうか。あるいは、テルのこと特別に嫌っているのだろうか。
いずれにせよ、テルは青い鳥に頼まれ、ミチルの相手をしている。ウェンディがそのことを面白くないと思うのは勝手だけれど、不満を態度に出すのは如何なものか。
この分だと、ウェンディはテルに対しても同様の、もしくは、もっと正直に、悪態をついていかねない。元々、ウェンディはテルに厳しかったのだ。
(テルは優しい気持ちでわたくしを励ましてくれるわ。わたくしのせいで、テルが辛い目に合っているのなら、それを黙って見過ごしたり出来る? 出来るわけがないわ)
ミチルは臍を決めて、ウェンディに話しかけた。
「ウェンディ、その……テルのことなのだけれど」
「はい」
「わたくしの思い違いかしら……あなた、テルのことを嫌っているのではなくって?」
「仰る通りです、奥様」
ウェンディはきっぱりと言い切った。ミチルは面食らってしまう。返答に困ったり、誤魔化したり、少しは遠慮すると思っていたのに。
ウェンディがテルに好感をもっていないことは、予想がついていた。ミチルはひとつ咳払いをすると、気を取り直して言った。
「それは、なぜなの?」
「あれは、真名をもたぬ、名無しの者。神に愛されぬ者だからです」
聞き慣れない単語がぽんと飛び出す。ミチルは目を丸くした。
「なんですって?」
「真名をもたぬ、名無しの者でございます。奥様」
「テルにはちゃんとした名前があるじゃないの」
「サベゲテル・ラニマーテルの名は、旦那様がおつけになったものです」
ウェンディが何か言うたびに、ミチルの頭にぽんぽんと疑問符が浮かぶ。青い鳥に名前を貰ったなら、それで十分でないか。ミチルの名だって、チルチルに貰った。大切な名だ。名付けてくれるひとがいれば、名無しなどではない筈だ。
(……ちょっと待って。ウェンディは今、真名と言ったわね? テルの名は真名ではないということ?)
「真名……あなたたちのような、天使が皆、もっているもの?」
ミチルの問いかけに、ウェンディはこっくりと頷いた。
「はい、奥様」
「真名って……いったいなんなのかしら?」
「真名は神に与えられるものです。我々は神の砕かれた心臓をもつもの。言葉を解せるようになれば、心臓が持ち主に真名を教えます」
「それじゃあ、あなたの名は、神に頂戴したものなのね?」
何気なく投げかけた問いかけに、返ってくるのは沈黙。ミチルは、自分がなにかとんちんかんなことを言ってしまったのかと不安になって、重ねて問うた。
「ウェンディと言う名は、あなたの心臓があなたに教えた名なのでしょうと、聞いているのよ?」
「……申し訳ございません、奥様」
「どうして謝るの?」
「この名は借り物です。真名は神に返上しました」
「そう……ええと、どういうこと?」
「……今の私には、真名を名乗る資格がないのです、奥様」
ウェンディは、ミチルが天使の事情に明るくないことを、わかっていないのだろうか。ウェンディの説明では、知識のないミチルの疑問は何ひとつ解消されず、頭はこんがらがるばかりである。
しかし、だからと言って、沈痛な面持ちで押し黙ってしまった相手に、うるさくなに? なぜ? の追尋を仕掛けるのは、気が進まない。たとえ、相手がウェンディであっても。
ミチルは脱線した話しの軌道を修正することにした。
「う、うーん……? ええと、とにかく……テルはその真名を持っていないと、あなたはそう言いたいのね?」
「はい、奥様。あれは交じりものの色濁りです。心臓の声を聞くことはできません」
ミチルははっとしてウェンディを見つめた。「色濁り」という言葉は、聞いたことがある。テルは色濁りを自称し、それを聞いたベティは凍りついていた。二人のやりとりから「色濁り」は許されない侮蔑の言葉だと推察できる。テルの輝殻の色がそう蔑称されるものなのだろう。
テルへ対する、ウェンディの風当たりは強い。ミチルは、なんとかしてそれを緩和してやりたくて、ウェンディを窘めようとしていた。一方で、ウェンディの事情も考慮しなければならないと考えていたのだ。生真面目なウェンディが、テルの奔放さを疎ましく思っているのなら、それはそれで仕方がないことだから。
しかし、ウェンディが「色濁り」だとテルを差別してテルに辛く当っているのなら、話しは別である。
生れついたものを、努力ではどうしようもないものを、貶めるなんて、最低で卑劣な所業だ。ミチルは眦を吊りあげた。
「よくわからないけれど……テルを愚弄することは、わたくしが許しません。言葉を慎みなさい」
髪を結うウェンディの手がぴたりと止まった。
ウェンディは唇を固く引き結んでいるが、目は口ほどに物をいう。ウェンディの鳶色の双眸には、反発と苛立ち、そうしてそれらに蓋をしようとする、何らかの葛藤がひしめき合っていた。
結局、ウェンディは何も言わず、項垂れるように顔を俯けた。抑揚のない謝罪の言葉を口にする。
「申し訳ございません、奥様」
それ以降、ウェンディは無駄口を一切叩かずに仕事を終え、退室した。




