テルの初恋
「えっ……あー……そうね。にがーい初恋でした。何も面白い話じゃありませんよ」
テルの無理につくった笑顔を見て、ミチルは落ち込んだ。どうやら、話題選びを、思いっきり、間違ったようだ。ミチルは己の不甲斐なさに唇をかみしめ、俯いた。
「……話したくないのね。ごめんなさい。わたくしはなんて無神経なんでしょう。とほほ、だわ。自分が嫌になるわ……」
「いや、そんな、奥様は悪くないですって。そもそも、俺が悪いんだし……あー……参ったなぁ……降参、降参です! 話します、話したくなりました! 聞いてくれます? だめな俺の初恋の話!」
えっ? と驚いたミチルが状況を飲み込めないうちに、テルはごほん、ともったいぶって咳払いをひとつする。不自然なほど明るい声色で、テルは語り出した。
「俺、いいとこのボンボンだって言ったでしょ。おまけに嫡男だったんです。でも、もうどうしようもなく出来が悪くって! 優秀な兄貴とよく比べられました。母親は兄貴と犬猿の仲だったもんだから、それがどうにもこうにも我慢ならないみたいで。俺の無能っぷりが露見するたびに、母親はヒステリーを起しちまうんです。あんたはなんでそうなの! ってね。もう大変! ……俺が責められるのはしょうがないんですけどね。気位の高いあのひとが、俺を追い出した部屋で、一人ぼっちで泣くのは可哀そうだったな」
テルが暗い顔をしたので、ミチルはテルの話しを遮った方がいいような気がした。しかし、ミチルの気遣わしげな気配を察したテルが、すぐさま陽気を装う。
「おっと、話が逸れましたね。とにかく、俺は何処に出しても恥ずかしいバカ息子でした。勉強も行儀作法も、うっかりミスが多いこと多いこと。ちっとも身につきゃしません。少しもマシな奴になれないんですよ。落ちこぼれだから、学校の皆にバカにされて相手にして貰えない。それでも母親を喜ばせたくって、卑劣な真似をしたら、今度は兄貴にいびられるようになったんです」
そう言った直後に、テルがミチルをちらりと見た。ミチルが目をぱちくりさせると、誤魔化すように笑い、額に滲んだ汗をさりげなく拭う。
おっかなびっくり、怖いものを避けて歩いているみたいだと、ミチルは思った。テルは何事もなかったように話を続ける。
「この兄貴ってのが、なかなか陰険で。結構、堪えたなぁ。もともと俺が悪いから、どうしようもねぇし。そんなこんなで、もう、何処にも身の置き場が無かった。誰もいない場所を探して、図書館の、滅多に人がこない第二書庫で時間を潰してました。そしたら、一人の女の子が声をかけてきた。彼女こそ、俺の初恋の相手ですよ」
ここにきて初めて、テルの顔色が明るくなった。頬にはうっすらと血の気がのぼっている。目は眩く輝き、恋する少年のそれだった。
「彼女は俺より七つ年上のお姉さんで、とにかく優しいひとだった。覚えの悪い俺に根気強く勉強を教えてくれて、ちょっとでも進歩があったら自分のことみたいに喜んでくれて。俺のつまらない話に耳を傾けてくれて、親身になって相談にものってくれた。時には、俺をバカにする奴らに立ち向かってくれましたよ。
俺、こんな優しいひとがいるのかって思いました。この人は、天使なんじゃないかって。俺に優しくしなきゃならない理由はないのに、ひとりぼっちでさびしそうにしてる俺を放っておけなくって、一緒にいてくれる。俺のことを好きだって言ってくれる。俺はすぐに彼女のことが好きになりました。……ところが、ですよ。彼女は兄貴の婚約者だったんです」
ミチルの息がつまる。テルは、陰鬱な自嘲の笑みを浮かべて、話を続ける。
「親同士が決めた婚約ですから、絶対です。彼女は最初こそ、兄貴のことが気に食わないって、兄貴に煮え湯を飲ませましたが、そのうち兄貴に夢中になって。兄貴は一筋縄じゃいかない捻くれ者ですけど、異性に対する特別なカリスマ性があった。平たく言えば、斜に構えた影のある良い男なんですよ。結局、彼女は望んで、兄貴と正式に婚約したんです。兄貴が辛い時期も、傍に寄り添って支えて。でもね、兄貴は彼女を愛してないって言ったんです。
俺は、二人の婚約を知ったとき、ショックだったけど、仕方が無いと割り切ろうとしてました。兄貴には負い目があったし、兄貴は親父と違ってフェミニストだし、優秀だし、彼女を不幸にはしないだろうと思ったんです。俺には、彼女と結婚して、彼女を幸せにすることなんて出来ない。兄貴になら、任せられると思いました。……けど、落ちぶれた兄貴が献身的な彼女を嘲笑ったとき、ぷちんって、俺の中で何かが切れた
俺は二人を引き裂こうとしました。でも、出来なかった。俺が手をこまねいてる隙に、兄貴は本気で彼女を誑し込みにかかりました。兄貴は自分の目的の為に彼女を利用しようと決めていたんです。彼女は兄貴に騙されて、家族を捨てて、駆け落ちしようとまで思いつめてた。俺は彼女をとめました。でも、彼女は聞き入れてくれなかった。それでも食い下がった俺に彼女が投げかけたのは、とても悲しい言葉でした。もう二度と、もとには戻れないと思い知って、それで、俺は……二人に酷いことをしちまいました。とりかえしのつかないことを」
この話しは、これでおしまいです。とテルが結んだとき、ミチルは心の底から安堵した。悲しい初恋を語るテルは、まるで、自らの背に鞭を入れるように、陰惨だった。これ以上傷ついてほしくない。
(取り返しのつかない過ちは、そっと胸にしまっておくだけでもしくしくと痛むのよ。それを曝け出すなんて、鋭い刃を胸に突き立てるようなものだわ。……テルは、わたくしの苦しみを、肩がわりしようとしてくれたのね)
直観だが、間違いない。テルを見ていれば、ミチルにはわかる。なぜだろう、ミチルにはわからないことが多いけれど、テルの思いやりは正しく理解できる、そんな気がした。
ミチルは打ちひしがれたテルの隣に跪く。ぎょっとしたテルが「ドレス! ドレス、汚れますよ! 本当やめて、俺がウェンディにどやされる!」と騒いでミチルを立たせようとするが、構わなかった。ミチルはテルの手をそっと握る。
「ありがとう。あなたって、本当に優しいのね」
テルはきょとんとしている。そうしていたかと思えば、湧き立つように笑いだした。ミチルは大真面目だったものだから、ついぶすりと頬を膨らませてしまうのだが、テルはなかなか笑いの発作をおさめられない。
ひぃひぃと肩で息をして、テルは細い目に浮かんだ涙を拭って言った。
「奥様って、なんか感性が普通じゃないですよね。なんか、ずれてるんだよなぁ」
ひどい言われようだ。ミチルは「勝手に仰い」と言い捨てて、ふいとそっぽをむいた。テルはまだ笑っている。ミチルはテルに見えない角度で、微笑んだ。
(良かった。テル、少しは元気になったみたい)
それから、二人はミチルの部屋でとりとめのない話しをした。テルがふざけて物語を朗読したり、物語の登場人物をまねた滑稽な動きをして、ミチルを笑わせた。一度、お茶を運んできたウェンディに睨まれ、蛇に睨まれた蛙のように萎縮していたが、それを除けば、テルはすこぶる元気そうに見えた。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎてしまう。名残惜しかったが、帰るというテルをひきとめるわけにはいかない。ミチルは扉の前に立ってテルを見送ることにした。ミチルは寂しさを匂わせないように、おっとりと微笑んだ。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
テルがにかっと笑う。右手をひらひらと振りながら、後ろ向きに歩く。歩きながら、別れの挨拶をする。
「それじゃ、また明日」
「ええ、また明日。おやすみなさい。カイ」
ミチルは何気ない別れの挨拶をしただけだった。だから、意味がわからなかった。テルの凄まじい形相の意味も。テルが追われたように、逃げるように、駆けだした意味も。
「テルったら、どうしたのかしら。あんなに慌てて」
そう呟いて、首を傾げるばかりだった。