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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第四話「ミチルの間違った恋」
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ミチルの実らない恋

***


 誕生日二日前。

身支度と朝食を終えたミチルの許へ、テルは約束通り訪れた。


「おーくーさまっ! 今日も来ちゃいましたよ。ありゃ、ひょっとして、お待ちかねでした?」

「ええ、待っていたわ、テル」


 テルはノックもなしに扉を開け放ち、大きな声で言ったのだが、ミチルは驚いていない。テルの訪問に備えて鍵を開けておいたのだ。時計を見上げ「遅いわね。今日は都合が悪いのかしら?」と独り言を呟きながら。


 ミチルがそわそわとテルを待っていたことに、テルはちゃんと、感づいたようだ。あっちゃーと天井を仰いで、テルはすまなそうに言った。


「そりゃ、悪いことしちまいましたね。ちょっと、出かけに揉めまして」

「お仕事?」

「いえね、そっちは話をつけてあるんで、大丈夫。新しい奴もしっかり、ちゃっかり、やってくれてます。俺の後釜を狙ってるそうですよ。それはいいとして……問題は、ベティなんですよ。あいつ、俺が奥様に粉かけてんじゃねぇかって、勘ぐって、うるさっくて。俺が、美女とみれば手当たり次第に手をつけると思い込んでるんです。信用がねぇんだよなぁ、なんでだろ」


 テルがぶつくさぼやいている。ミチルは膝に載せていた本をシェルフにしまいながら、テルとベティのやり取りを思い出した。くすりと笑みがこぼれる。テルの顔にうっすらと浮かぶ疲労の色を見つけて、つい噴出してしまった。テルがくすべ顔をつくって呻る。


「おーくーさーまー……人の不幸は蜜の味ですか、おーくーさーまー」

「ふふ……ごめんなさい。でもね、あなたはもっと誠実になるべきだと思うわ。ベティという恋人がありながら、冗談で他の女を口説くのだもの。ベティだって、それは怒ってしまうわよ」


 ミチルはもっともなことを言ったのに、どうしてかテルはひどく驚いたようだ。素っ頓狂な声でミチルの推察を否定する。


「あいつは友達です。友達に手ぇ出すほど、俺は見境なくないですよ」

「まぁ……」

「……ん? なんです、鳩が豆鉄砲食らったような顔して」

「あなた、ベティのことを恋愛対象として見ていないの?」

「ですからぁ、俺たち友達なんですってぇ。あいつだって、そのつもりですよ。だから俺に遠慮しないんです」

「そうなの……わたくしはてっきり、あなたたちは好い仲なのだと思っていたわ」

「本当に!? 奥様、親しい男女の間には、すべからず恋情が芽生えると思ってるんじゃないでしょうね? わぁお、恋愛小説の読み過ぎだぁ!」


 テルはミチルを指さしてけらけらと哄笑している。ミチルは納得がいかない。テルとベティは、特別親密な男女に見えた。わかってないのは、テルではないだろうか。

 釈然としないながらも、世間知らずの自覚はある。あまり強くは言えない。ミチルは折れて、テルの意見を尊重しようとした。


「そういうもの?」

「そういうもの。奥様だって、親しい男、みんなに恋しちゃいないでしょ?」

「それは……」


 そうでしょう。と言いかけて、ミチルは口を噤んだ。打てば響く返答があって当然だと思っていたらしいテルが、怪訝な顔をする。


「えっ、なに? どうしたの?」

「……恋って、ひとを好きになることよね?」

「はぁ」

「わたくしは、お兄さまのことも、ジルのことも、ディル様のことも、好き」

「ふえぇ?」

「あなたのことも」

「ふわぁ!?」


 テルは驚愕しているが、ミチルだって、テルのおかしな奇声に度肝を抜かれた。テルは、及び腰になるミチルの肩をがしりと掴むと、ミチルを揺さぶった。


「ちょ、ちょっと待ちましょう、奥様。なんか、勘違いがあるみたい。好きって言ったって、色々種類があるじゃないですか。家族の好き、友達の好き、尊敬できる好き、憧れる好き。奥様は今名前を上げた男をみんな、同じように好きなんですか?」

「わ、わかったわ。考えてみるから、揺さぶるのをやめて頂戴。頭がぐわんぐわんして、考えられないわ」


 揺さぶりから解放されたミチルは、ふむと考え込んだ。

ジルのことは、父親のように慕っている。テルのことは、こんなに話しやすいのだから、たぶん、友達として好きなのだ。青い鳥は理想的な夫だ、尊敬している。そうして、チルチルは……。


「少しずつ違うと思うわ」


 ミチルが言うと、テルはほっとしたようだった。


「でしょ」

「じゃあ、どういう好きが、恋をしている好きなの?」


 ミチルの質問を受けて、テルは「困ったことになったぞ」という表情になった。腕を組むと、ミチルの部屋をうろうろ歩きだす。


「そりゃ……そうだ、奥様って恋愛小説、お好きでしょ? そこに色々書いてあったはずですよ。ほら、思い出して。そのひとのことを考えただけで、幸せで胸がいっぱいになるとか。そのひとが他の女といるだけで、妬けて気がおかしくなりそうだとか。そのひとと、片時も離れず一緒にいたいと思うとか……どうです、感じだけでもつかめます?」


 ミチルは頷いた。物語からも、そのように教わった。 

物語を読み聞かせるチルチルの顔を見上げながら、ミチルの小さな胸は暖かなもので満たされていた。チルチルが文字から目を上げ、ミチルに微笑みかけてくれると、胸で小鳥が羽ばたいたようだった。あのときめきは、今でも鮮明に思い出せる。


(ああ、だめ。考えてはいけない。いけないのに)


「わたくしは、お兄さまに恋しているのね」


唇からこぼれた言葉が、ミチルの胸にすとんと落ちる。それは胸の奥で燻っていたものを、燃え上がらせた。


「ディル様と結婚して幸せにならなければならないのに。わたくしは、もう決して結ばれることのないお兄さまに、今でも狂おしい恋をしているんだわ……ディル様のことは好き。愛している。ディル様がウェンディと親しくお話をなさっているのを聞いた時、激しく嫉妬もしたわ。だけど、思い出していただけかもしれない。あの時の、あの女への嫉妬心を……」


火葬される街に佇む、憎らしく恐ろしいあの女。ミチルは彼女を憎み、彼女もまたミチルを憎んだ。この憎悪に殺されるのだろうとミチルは悟っていた。それでも、絶対に譲らない。


(あの女が婚約者? 笑えないご冗談はおよしになって、お兄さま。お兄さまの婚約者はこのわたくし。お兄さまはお約束してくださったわ。わたくしが他の方を選ばないなら、わたくしと結婚してくださるって。約束したもの、わたくしを選んでくださるわよね。選んでくださるのでしょう? ねぇ、そうよね、お兄さま)


チルチルは沈黙している。ミチルは耳を塞いだ。チルチルの優しい「愛してる」が聞きたくて。ところが、チルチルはいつまでも沈黙している。ミチルは頭をふった。チルチルには約束を守って貰う。だからミチルも、約束を守らなければならない。ミチルは慟哭した。


「わたくしは、ディル様を愛さないと、愛して幸せにならないといけないの! だってわたくしは愛されたい、愛されたいのよ、わたくしだけが! そうじゃないと、お兄さまとの約束が守れない! わたくしは幸せになるのよ、その為にディル様と結婚したのよ! あと二日なの、あと二日のうちに、わたくしはこの結婚で、幸せにならなければいけない! わたくしは、約束を破ってはならないのだから……!」


ミチルは長椅子に崩れ落ちて咽び泣いていた。チルチルはなにもいってくれない。

ここは何処だろうか。あの美しい部屋ではない。

ここに、チルチルは来てくれない。


チルチルのことを想うと切ない。ミチルの小さな世界のすべて。妹想いの優しい兄。


……決してミチルだけを愛してくれない、残酷なうそつき。


「ねぇ、奥様。奥様には、知らないことがたくさんありますね」


 そう言ったのは、テルだった。テルは長椅子の傍らに跪き、ミチルが固く握りしめた手を包み込む。その手が暖かく、ミチルは怖々と顔を上げた。テルはミチルの顔をそっと覗き込むと、柔らかく微笑んだ。

 

「俺で考えてみてください。俺は今、独り身です。なぜなら、初恋のひとにこっぴどく振られちまって、それ以来、恋が出来なくなったからです。でもね、俺、不幸に見えます? 全然、不幸じゃないですよ。そりゃ、嫌なこともありますけどね。でも昨晩は眠る前にさ。明日奥様に会ったら、どんな話をしようかなって、ずっと考えてて、そうしたらわくわくして、目が冴えて眠れませんでした。実は、今日遅れた原因のひとつは、寝坊だったりして……。ね、奥様。目が冴えて眠れなくなるくらい、次の日が待ち遠しいってことは、幸せなことじゃないの?」


 テルはいひひ、と悪戯坊主のように笑う。そうして、真剣なまなざしてミチルを見つめた。


「あんたの兄貴がなんて言ったか知りませんけど、幸せのかたちなんて、決まってません。いついつまでに幸せにならなきゃいけないって、期限もきられちゃいません。何を焦るんです」


 テルは確信を込めて言う。足場が突然ぐらついたようで、ミチルはひやりとした。何かにしがみつこうともがく様に、ミチルは泣きながら、だけど、と訴える。


「わたくしは、お兄さまと約束をしてしまったの。約束は命にかえても、守られるべきでしょう?」

「約束を破った人間と交わした約束なんて、無効ですよ」


 テルが千切って投げるように言い放った言葉が、ミチルの胸をふかぶかと貫いた。

うがたれた穴から、ミチルの体のぬくもりが失われる。氷のような体は、ほんの些細な刺激で粉々に砕けてしまうだろう。

 テルが目を瞠っている。ミチルは己の体を掻き抱いた。高熱に魘されたように、世界があやふやで、危うい。


「違うわ。お兄さまはお約束を守ってくださるわ。お兄さまはここにいる。わたくしとずっと一緒にいてくださる。お兄さまはわたくしを愛しているもの……愛している、愛しているのよ、お兄さまはわたくしを……あの女ではなく、わたくしを選んでくださったの。だから、お兄さまはわたくしを抱きしめて、ずっと一緒だって言ったわ。だから、わたくしは、お兄さまとひとつに……ねぇ、お兄さま! どうして黙っているの、愛していると仰って!」


 ばらばらになってしまいそうな体を必死に掻き抱く。がくがくと震えるミチルを、テルが掬いあげるように抱きしめた。


 熱い胸と腕に包まれて、ミチルは五感を取り戻していた。ミチルを背もたれに押し付けた男は、見ようによっては、ミチルに縋っているようにも見える。ミチルの肩に顔を埋めた男の、くぐもった不明瞭な声と震える吐息がミチルの耳朶をくすぐる。


「ごめん、君は何も悪くない。悪くないんだ、誰も君を責められない。そんな資格は誰にもない。ごめん、本当にごめんよ……僕のせいで……」


 ミチルの体が動くようになった。ミチルはそろそろと両腕を持ち上げる。ミチルを抱く男の背に触れる。熱い背中。ミチルを抱きしめる力強さ。

 ミチルは酩酊したような心地で、呟いた。


「……ジル? 戻ってきてくれたの?」


 男の体がびくりと震えた。弾かれたようにミチルの上から退いた男が、床に尻もちをつく。ミチルはぼんやりかすむ目を擦った。床に尻もちをついているのは、呆然としたテルだった。

 

「……テル」


 その名前を呼んだ途端、ミチルは地に足をつけたように、現実感を取り戻す。と同時に、自分が何やら錯乱して、なだめようとしたテルを突き飛ばしてしまったのだと言うことに思い至り、うろたえた。


「ごめんなさい、テル! どこかぶつけていない? 怪我はないかしら?」

「あっ……いえ、その……平気……」


 テルはもそもそと言うと、ミチルと目を会わせずに立ち上がる。平気なものかと、ミチルは思う。テルの目は濁り、なんだかしょぼくれて見えるではないか。テルは、心配してテルを見つめるミチルに、大丈夫だと微笑みかけた。


「なんか、すみませんね。せっかくの楽しい時間が、湿っぽくなっちまった」

「いえ、わたくしのせいよ。本当にごめんなさいね。わたくしったら、最近こういうことが多くて、ディル様にもご迷惑を」


 話している最中の唇が、テルの掌で塞がれる。目を見開くミチルを長椅子に座らせると、テルはミチルの足元に跪いた。テルは真っ直ぐにミチルを見上げてくる。


「奥様。何も考えないで、ただ俺の言葉を聞いて、信じて、受け止めてくれません?」


 ミチルにはテルの真意がわからなかったが、テルが真剣だと言うことは痛いほど伝わって来た。だから、躊躇いながらも頷く。テルはミチルの両の目の瞼に掌をあてると、ゆっくり下におろし目を閉じさせた。当惑するミチルの耳元で、テルはまるで呪文のように言葉を紡ぐ。


「あんたは、幸せになる。誰の為でもない、あんた自身の為だ。誰もあんたを束縛できないし、誰もあんたを怨めない。あんたは何も知らない、巻き込まれただけ。だから幸せにならなきゃいけない。あんたがこのままでいてくれれば、旦那様はあんたを幸せにする。だから、あんたは罪悪感から解放されてください。……もしも、あんたが旦那様を選ばないなら、俺があんたを必ず逃がします。だから、約束してください」


 約束。その言葉は怖い程の重圧をもってミチルの心にのしかかって来る。ミチルは喘ぐように息を吸い込んで、叫んだ。


「嫌よ、やめて、テル! わからないわ! わたくしには、あなたの言っていることが、よくわからない……!」

「……そう、ですよね。いきなり、すみません」


 ミチルが嫌がると、テルはあっさりと引き下がった。ミチルは怯えていたけれど、ミチルを怯えさせるテルが捨てられた子犬のように悄然としているものだから、理解できない罪悪感がミチルを責めたてる。

 しばらく、気まずい沈黙が続いた。ミチルは話の穂を継ぎ換えようとしたが、何を話していいのかわからない。そもそも、ミチルが知っている話題は限られている。


(そうだわ、それなら、テルになにか話して貰いましょう)


 妙案を閃いたと、ミチルは目をきらきらさせてテルにずいと身を寄せた。


「ねぇ、テル。あなたの初恋は、どんな恋だったの?」

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