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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
第四話「ミチルの間違った恋」
39/60

遠慮のない召し使い

***


 誕生日の三日前。

窓がない美しい部屋に朝の訪れを告げるのは、時計の文字盤から飛び出す、機械仕掛けの鳥の囀り。目を覚ましたミチルは寝台の上で上体を起こす。半覚醒のぼんやりした頭がやけに重く感じられて、ミチルは項垂れるように両手に顔を埋めた。掌にひんやりと冷たいものが触れて、顔を上げる。頬を濡らしていたのは、幾重にもなる涙の筋だった。ごしごしと頬を擦り、眼頭に浮かんだ涙を拭う。まだ熱い滴は指先から手首を伝いシーツに染みる。ミチルは暗い色の染みを眺めて、小首を傾げた。


(とても怖い夢を見ていた気がする。どんな夢だったのかは、覚えていないけれど)


 すっきりと目が覚める頃には、涙はすっかり乾いていたが、あの夢はミチルの胸を締め付けた。どんな夢だったのか、覚えてもいないのに。胸は張裂けそうに痛み、そうして不気味なほど甘く疼くのだった。

 その朝も、ウェンディの手で身支度を済ませたミチルは、ウェンディの給仕で朝食をとる。ウェンディが退室すると、いつも通りに一人になった。


 ミチルはドレッサーの上に載せられた金の鍵束を手に取ると、扉を解錠した。誕生日まであと三日しかない。ミチルは積極的に外へ出かけ、青い鳥を悦ばせ、幸せな妻にならなければならないのだ。時間は限られている


 ミチルが怖々と扉を開くと、目の前に見知らぬ男がぬっと現れた。男は高い背を丸めて、ミチルの顔と同じ高さにおろした顔を、ミチルの鼻先にくっつけるように近づけている。驚いてかたまってしまったミチルに、男は能天気に笑いかけた。


「おーくーさまっ。ひとりでお散歩ですかい? かわいいお嬢さんをひとりにしといて、悪い虫がついちゃ大変だ。俺がついて行こうっと」


 この男は一体何者だろう、馴れ馴れしい。体の自由を取り戻したミチルが急いで扉を閉めようとするが、男が差し入れた爪先に阻まれて扉を閉めることが出来ない。ミチルは両手でドアノブを握りしめると、自重をかけて扉を押した。顔を真っ赤にして力むミチルの耳元で、男が「ちょっと、奥様! やめてやめて、痛いから、マジで痛いから!」とマヌケな悲鳴を上げる。どうしていいのかわからなくなって、おろおろしていると、隙間から男の顔がのぞいた。男は細い目をさらに細くしている。ふわふわと風に飛ばされそうな軽い声で言った。


「大丈夫、大丈夫。心配ないない。俺も悪い虫には違いねぇけど、たいしたことない虫だから。虫除けにくっつけとくのにちょうどいいですよ?」


 そんな理屈があるのだろうか。あったとしても、嫌だ。ミチルはぶんぶんと頭を振った。


「結構ですわ、間に合っております」

「またまたぁ、そんなつれないこと言わないでぇ! 俺は安全な男です、旦那様のお墨付きですよ」


 あやし過ぎる。また力を込めようとした時、ミチルは男の声に聞き覚えがあることに気が付いた。あまり自信がないので、確かめる声はか細い。


「あの……もしかして、テルなの?」

「おっ、嬉しいなぁ。姿は変わっても俺の声、ちゃんと覚えててくれたんですね。俺って忘れられないほどいい男? なーんてね」


 この軽佻浮薄な物言い。やっぱりそうだ。西の別棟の食糧庫で出会った、下働きのテルだ。ミチルがドアノブから手をはなすと、扉が緩やかに開け放たれる。

均整のとれた体躯をジルと同じようなお仕着せに包んだ青年が、へらへらして立っていた。短髪はくすんだ麦の穂色で、瞳の色がわかりにくいくらい目が細く、面長で、いかにも人が好さそうに見える。屈託なく歯を見せて笑うと、人畜無害な印象を裏切るほど、尖った犬歯が目をひいた。

 彼の容姿のどこをとって見ても、輝く殻に覆われた半人半獣のテルの姿を連想することは出来ない。しかし、目の前にいるのはまぎれもなくテルなのだろう。ミチルは安堵半分、呆れ半分で苦笑した。


「そうね、長くご無沙汰しても、忘れないと思うわ。あなたはとても面白いひとですもの」

「ははぁ、さては奥様、俺のこと割と好きでしょ?」


 突然、レディの部屋を不躾に訪問しておきながら、テルは全然悪びれない。いちいち目くじらをたてるのもばかばかしくなり、ミチルは力をぬいて微笑んだ。


「そうねぇ、割と好きよ?」

「本当ですか? それじゃ、もっともっと好きになって貰おうかな。俺、噛めば噛むほど味が出るタイプなんです。んじゃ、行きましょ」


 テルは部屋から出るようと、ミチルを促す。腕を引っ張るような横暴をされたら大声をあげるところだったが、流石にテルも限度は弁えているようだ。ミチルは一歩も動かずに、テルに訊ねる。


「何処へ行くというの?」

「前に約束したじゃないですか? 俺がここを案内するって」

「そんな約束、したかしら?」


テルはあの時、ミチルに自分の仕事場であるボイラー室を案内してもいい、と無礼千万な口ぶりで言っていたけれど、案内する約束まではとりつけていなかった筈だ。しかし、テルはぴんとたてた人差し指を左右に振り、訳知り顔で頭を振った。


「細かいことは気にしなぁい! 暇を貰った俺と、お暇な奥様。二人揃ったら、どうします。楽しまにゃ損でしょ!」

「暇を貰ったですって? まさかテル、あなた、お仕事を干されてしまったの?」


 ミチルはテルを心配したのだが、テルはうんざりと顔を顰め、麦色の頭髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。


「奥様、あんたね、ベティの言うこと真に受け過ぎ。俺、ここじゃそこそこ特別な存在なの。めったなことじゃ、追い出されねぇから。そうじゃなくって。ちょっくら想像してみましょうよ。俺がわざわざこの姿で、奥様のお部屋を訪ねた意味を。そして、あの目敏いウェンディに見咎められて、摘まみだされて、こてんぱんにされずに済んでる理由を?」


 ミチルはウェンディの名前に過剰に反応した。柳眉を逆立て、詰問する口調になる。


「もしかして、ウェンディがあなたに、わたくしの相手をするように申しつけたのかしら?」


 テルはきょとんとしてから、へらへら笑って肩を竦めた。


「ウェンディにそんな権限はありません。旦那様ですよ。ウェンディは旦那様の思し召しってやつを、俺に伝えただけ。だから、そんな怖い顔しないでよ」


 つん、とテルはミチルの眉間をつつく。ミチルはあんぐりと開いた口を、はっとして両手で隠した。あいた口がふさがらない。召使が気安くレディの顔に触れるなんて、あり得ない。

 けれど、テルがあっけらかんとしているので、ここでもやはり咎めだてする気にならなかった。テルはミチルの怒りをいなしてしまう、不思議な空気を身に纏っている。

 ミチルは、テルに不用意に触れられないように一歩下がると、誤魔化すように微笑んだ。


「そうなの。ごめんなさいね。あなた、お忙しいのでしょう? わたくしの相手なんて、している暇はないでしょうに」

「いえいえ、奥様。今こそ、ベティの話を思い出してくださいよ。あいつ、言ってたでしょ? 俺の仕事は時間さえありゃ、誰にだってかわりが出来る簡単なお仕事だって」


 ベティにそう指摘された時はむっとしていた癖に、テルはさらりと自虐する。自虐とも思っていないような口ぶりである。テルは片手を口元に添えると、悪戯の相談をするみたいに声を低くした。


「旦那様から、奥様が昼間、おひとりでさびしく過ごしてるって聞いて、頼み込んだんです。俺に、奥様の話し相手をさせてくださいって。靴を洗わせたり庭の落ち葉を掃かせたり炭を運ばせるより、そうやって使った方が、よっぽどお役に立ちますよってね」


 ミチルは目をぱちくりさせる。素直な疑問が口から飛び出した。


「どうして?」

「そりゃ、決まってんじゃないですか。奥様って、俺の好みにどんぴしゃなんですよ。かったるい仕事をしないで奥様と二人きりでお喋りを楽しめる。こんな役得ってない!」


 ミチルはドアノブに飛びつくと、当て身をする要領で扉を閉じようとした。テルは同じ手を食うものかと、肩を押し入れて抵抗する。ミチルはぱっと身を翻し、部屋の中央まで引き返すと、胸元で両手を握りしめた。精一杯、厳しい顔をしてテルを睨む。


「わたくしが、ディル様の妻だとわかっていて?」

「奥様、恋愛は早いもん勝ちじゃありません。それは、既婚者にだって言えることのはず。気の迷いとか、早まったとか、あるもんです。恋した相手が既に他人のもの? そんなら、略奪しかないでしょ! だって男だもの」

 

 ミチルはテルの言動から、本で読んだ、馬に乗って若い娘を浚ってしまう、盗賊を連想していた。テルが一歩でも踏み込んできたら、大声を上げよう、胸一杯に息を吸い込む。

 テルは動かなかった。面食らったように、細い目を丸くしている。瞳の色は金色のようだ。ミチルが警戒心も露わに身構えていると、テルは肩の高さに両手を上げて、降参だと退いた。


「待ってよ、ちょっとちょっと、そんな、マジに怯えないでください。好意的な冗談です。本当に。奥様のこと好きってのは本当ですけど、異性として意識してるとか、ないですって。奥様は、俺が恋しちゃいけないひとですから」


 ミチルはテルを凝視した。テルの言葉にウソ偽りがないようだと思えたので、ほっと胸をなでおろす。


「そうよね。あなたがわたくしに恋をするきっかけなんて、なかったものね」

「わかってないですね、奥様? 一目で恋に落ちるってこともあるんですよ? 初めて会ったその瞬間、まるで雷に打たれたみたいな、一目惚れ」


 ミチルが警戒を解いたことをいいことに、テルは早速付けあがって、ずかずかと部屋に入って来る。ミチルは困惑したが、無視するのも気がひけたので、とりあえずテルの話に付き合うことにした。


「わかります。人魚姫みたいに、でしょう?」

「まさにそれ!」


 テルはそう言うと、ミチルの隣を軽やかにすり抜けて、シェルフから無断で一冊の本を抜きだした。それが人魚姫の本だったから、ミチルはテルの無体を叱ることなく、目を丸くした。


「人魚姫を知っていて?」


 テルは本の頁をぱらぱらとめくりながら、軽く笑った。


「俺が無学文盲の輩に見えます? 見えるだろうなぁ、実際。でもですね、俺ってこう見えて、いいとこのお坊ちゃんだったんですから。家庭教師もいたし、学校だって通ってたんですよ。頭は悪かったけど」

「あなたも、学校に通っていたの?」


 そう言ったとき、ミチルは己の発言に違和感を覚えて口ごもる。


(あなた、も? どうしてわたくしは、さも学校に通ったことがあるような言い方をするのかしら?)


 深く考えこみそうになったミチルに、テルは猶予を与えない。テルはぱたんと本をとじてシェルフに戻すと、ミチルの前に立った。相変わらずのパーソナルスペースの狭さは、もうこの際、気にしていられない。テルはにこにこしてミチルを部屋の外へ誘い出そうとする。


「俺の話に興味が湧いてきたところで、ちょっと歩きません? 大丈夫、そんな裾を引き摺るような綺麗なドレスを着た奥様を、煤だらけのボイラー室になんてお連れしません。温室を見に行きましょうよ。俺は花には詳しくないですけど、白い花が見ごろで、綺麗なんです」

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