ミチル、彼の愛しい妹
チルチルはメーテルリンク公爵邸の自室で療養することになった。不登校、家出、失踪と、チルチルの突然の反抗と非行は枚挙にいとまがなかったが、チルチルは罰せられることはなかった。メーテルリンク公爵は息子のことには相変わらず無関心だった。さらに、公爵は、彼を夢中にさせる素敵な何かを見つけたらしく、そちらにかかりきりで、暇を見つけてはふらりと何処かに消えていた。
チルチルがメーテルリンク公爵邸に戻ってから初めて、チルチルを訪ねてきたマリは、開口一番にこう言った。
「あなた、もう生きる意味なんてないと言ったわね? 急いで死ななきゃいけない理由はあるの? ない? それなら、あなたのこの先の時間を、私に預けてくれる?」
この時に、綾取られた人形のように頷いてしまったことを、チルチルはこの後、ずっと後悔することになる。
マリは頻繁に顔を出すようになった。新学期は始まっているのに、マリはいつ学校に通っているのかあやしくなるくらい、足しげくチルチルの許へ通ってくる。
「君、本当に友達がいないんだね」
とチルチルが皮肉ると、マリはこともなげに首肯した。
「私ね、ふつうに友達が出来たことがほとんどないの。ふつうって言うのは、お話したり、遊んだりしているうちに、自然と仲良くなるって意味よ。お母様がとりもってくれなきゃ、ダウンタウンの子たちともきっと、仲良くなれなかったわ。いいえ、とどのつまり、あの子たちの親愛だって、お金や物で無理に引き出しているだけなのかもしれない。ジョシュアとは一番の友達だけど、それだって、ジョシュアが気の毒な生い立ちを理由に迫害されていたから。そうじゃなかったら、きっと彼にはもっと素敵な友人がたくさん出来たに違いないもの」
「そんなに自分を卑下するのはおよしよ。少なくとも、カイの奴は君のことが好きなんだから」
チルチルは同情や憐憫ではなく、嘲りも露わにせせら笑う。それなのに、マリはにっこりと微笑んだ。
「私もカイのこと、好きよ。カイはとてもいい子だわ」
最初の頃とはまさしく逆だ。
チルチルはつっけんどんにマリをあしらうが、マリは懲りずにチルチルを構おうとする。誰もがチルチルを腫れ物扱いするので、おのずと関わるのはマリだけ。
マリはこれまでと別人のように穏やかで寛大になった。その変化はチルチルの目にはとても薄気味悪いものとしてうつる。チルチルはある日、いたって大真面目にマリに言った。
「そんなにご機嫌とりに精を出さなくても、君の体の秘密は誰にも明かさない。婚約だって、破棄したっていいんだぜ? 僕はこんな有様なんだ、誰も君を責めたりしない」
しかし、マリは「あらあら、この子ったら何を言い出すのかしら」とでも言わんばかりに含み笑うと、チルチルの投げ出された左手を両手でぎゅっと握った。
「私はあなたと結婚するわ。あなたに立ち直って欲しいの。社交界にでなくてもいい。学校に通わなくてもいい。ただ、たまに外の空気を吸ったり、風や陽の光にあたったりして。そうしていつか、笑顔を取り戻してくれれば、それでいいのよ」
チルチルは具合が悪くなった、と仮病を使ってマリを追い出し、悶々としていた。
(俺に情けをかけているつもりなのか、マリ・ダオン。嫌な女だ!)
いっそのこと、死んでしまおうかとは何度も考えた。何度か実行にうつそうとした。しかし、その度にマリとの約束が決心を鈍らせる。
(俺の残りの人生は彼女に預けてしまった)
チルチルは気だるく寝がえりをうつ。代わり映えのしない天井の模様を眺めることに疲れて、目を閉じた。
(どうしてこんな、軽はずみな真似をしたんだろう)
とんとん、と控え目なノックがして、チルチルは薄らと片眼を開けた。アロンソかと思い、短く「入れ」と告げる。
おずおずと入室して来た人物を見て、チルチルは目を丸くした。鈍い色の目をしょぼつかせたカイだった。カイはチルチルに凝視されて、途方に暮れたように体を揺すっていたが、やがて自分の分嗜みにはっと恥じ入り、慌てて挨拶をした。
「お久しぶりです、お兄さま」
カイは頭を上げると、チルチルの返礼を待たずに、まくしたてるような、おっとりした彼らしくない喋り方で言った。
「マリとの婚約が正式に決まったそうですね。おめでとうございます」
チルチルは何処となくしょぼくれたカイの、萎縮した肩を見て、顎に手をやり考えた。
(そんなことを言う為に、わざわざ俺の部屋へ?)
いや、違う。とチルチルはすぐさま考え直す。
大方、継母に様子を見て来いと、偵察に出されたのだろう。カイはチルチルの醜態をつぶさに継母に報告し、継母を大いに満足させたいのだ。妹をだまして、そうしていた時と同じように。
そうあたりをつけると、チルチルの態度はおのずと厳しいものになる。チルチルは上体を起こすと、腕組をして威圧的にカイを睥睨した。
「何がめでたい。彼女とあの男が勝手に決めたことだ」
そう答えると、なぜかカイは目を剥いた。
「……なんです、その仰り様は!」
チルチルは不覚にも、予期せぬカイの大声にびくついてしまった。悔しさを押し隠すように、チルチルは殊更怖い顔と声色をつくる。
「お前こそ、なんだい。嫡男ってのは、やっぱりすごくお偉いんだな」
「僕のことは、今は放っておいてください! それより、お兄さまのお気持ちのことです。お兄さまは、あんなに尽くしてくれるマリを愛していないのですかっ?」
カイの握りしめた拳が小刻みに震えている。チルチルは遅ればせながらぴんときた。口元が嫌な笑みに綻ぶ。
(ははぁ、そうか。やっぱりこいつ、マリに惚れてるんだな)
チルチルはカイから目を外し、読みかけの本を開く。本の字面を追うふりをしながら、疎ましそうに言った。
「彼女との結婚に異存はない。あっちはすっかり僕に夢中らしいからね。あんなに鬱陶しい女だとは思わなかったが。まぁ、便利ではあるよ。さっきなんて、俺は笑っててくれれば、このまま好き勝手怠けていていいって言ってたんだぜ。あれは、男で身を滅ぼすタイプだな」
チルチルはちらりとカイを盗み見た。カイは案の定、怒り猛っている。もしもカイにもう少しだけ気がいがあったら、カイはチルチルに殴りかかって来ただろう。
情けないカイにはそんな大それたことは出来る筈もなく、カイは食いしばった歯の隙間から、押し殺した怒声を絞り出した。
「やっぱりそうだ。あなたは結局、ご自分と血が濃く繋がったひとしか、愛せない」
カイはポケットから金色の鍵束を取り出すと、乱暴にテーブルに叩きつけた。驚くチルチルを見る目が、いつになく冷淡な色をしている。
「地下室へお行きなさい。あなたの愛する妹が、そこにいます」
そう言い捨てると、カイは出て行った。残されたチルチルは、あけらぼんとして、カイの残した金の鍵束が、きらきらと月光を跳ね返すのを眺めていた。
彼は決して、カイの言葉を鵜呑みにしたわけではなかった。平素の彼なら、カイの言葉には何か裏があるはずだと、疑ってかかったことだろう。
けれど、彼は弱っていた。最愛の妹を失った彼は藁にもすがりたかった。悪魔が不当な契約を持ちかけてきたとしても、彼は妹に会えるなら、喜んで魂さえ売り飛ばしただろう。
彼は冷静ではなかったのだ。
地下へ続く、湿っぽく黴くさい階段を降りる。壁の窪みにおかれた蝋燭の頼りない灯りを頼りに下へ下へと降りて行く。瘴気を含んだような、胸騒ぎを起こす風が吹き上げてくる。長い廊下を渡る。しんと静まり返り、ネズミの気配すらない。まるで墓場のようだ。突き当たりに、美しい部屋があった。
銀の鉄格子に囲まれた、陽の光も月の光も届かない部屋。スコンスの揺らめく灯りが部屋を淡く照らし出す。
シルエットがほっそりとした、華やかな意匠の、女性的な家具や調度が揃えられていた。銀の格子の外側から見て、それぞれが最も美しく映える場所と角度に安置されている。
ちょうど正面にある、二人影の長椅子に、美しい少女が腰かけていた。
すべてが完璧に整えられた少女。晒し飴の髪だけが、洗いたてのように背に流されていて、人形めいた少女の美貌に奇妙な野性味を添えていた。
少女は焦点の曖昧な美しい目にぼんやりとチルチルをうつしている。
チルチルは膝から崩れ落ちた。少女はまぎれもなく、チルチルの最愛の妹だった。
「ミチル……! ミチル、無事だったんだな、ミチル!」
名を呼ばれたミチルは、こてんと小首を傾げた。まるで遠い異国の言葉を聞いているかのように、彼女の右目には理解の色が浮かばない。
衝撃と感動にもみくちゃにされ、涙を流していた彼は、ふと不安になった。ミチルの様子がおかしい。ミチルは本来、ちょっとお転婆なくらい元気の良い女の子だった。それなのに、今はまるで人形のように動じない。
チルチルは銀の格子に縋りつき、必死になって呼び掛けた。
「ミチル、僕だ、君の兄さんのチルチルだ! わからないのか、ミチル!」
ミチルは答えない。紅玉の左目は、今は右目と同じ、魔法にかけられたようなブルーに輝いていた。