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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
裏側の三話「彼はこうしてすべてをなくした」
37/60

本当は、本当のことは

チルチルは飾り窓の通りで、一つ一つ窓を確かめ歩いた。母を探していたのだが、当然、存在しない人間を見つけることなど出来ない。

挙句の当てに、挙動不審な客がいると娼婦たちに密告された。用心棒の酒焼けしたどら声で怒鳴り散らされ、こてんぱんにやられて、貧民街に転がされた。チルチルは性懲りもなく、何度も何度も飾り窓の通りに引き返し、その都度、用心棒に痛めつけられた。鞄は何処かにおとしてしまったのか、それとも用心棒に盗られてしまったのか、チルチルの手元から消えていた。


とうとう力尽きて、チルチルは貧民街の汚らしい路地で転がったまま動けなくなった。行き倒れているのは、チルチルだけではなかった。飢えて干からびて、ほとんど動かず細い息をする者。危ない薬に手を出したのか、こことは別の世界を見ている濁った目玉をぎょろぎょろ動かし、時々、思い出したように奇声を発する者。腐臭を発し蠅にたかられながらも、たまに顎で蠅を払う者。

まともに動ける人間はいない。折り重なるようにしながらも、お互いの存在をほとんど認識できていない。ここにいる全員が、孤独の中で死につつある。


そんなとき、かつかつと、毅然とした靴音が聞こえてきた。どんどん近付いて来る。チルチルの目の前で立ち止まると、チルチルを苦労して抱え起こしたのは、暗い色の質素なワンピースに身を包んだマリだった。マリはチルチルの薄汚れた頬をぺちぺちと叩く。チルチルが緩慢に瞬きすると、ほっと笑み崩れた。


「見つけたわ、チルチル様。ふふ、驚いた? 私、かくれんぼは得意なの」


 チルチルはマリをじっと見上げた。ひび割れた唇が辛うじて動く。鉄気臭い喉から、ざらついた声が出る。


「どうして、ここが?」

「あら、思い上がっちゃいけないわ。長いことここを離れていたあなたより、私のお友達は、ここをずっとよく知っているのよ」

「なんだ、ずるしたんだ」

「ふふ、なんとでも言いなさい。とにかく、私の勝ちでお遊びはおしまい。一緒に帰りましょ」

「……マリ」

「なぁに?」

「僕は、そんなに哀れか?」


 マリが僅かに目を瞠る。チルチルは瞑目し、ゆるゆると首をよこに振った。


「君は、可哀そうな奴に情けをかけるのが好きなんだ。だからジョシュアや、カイみたいな、情けない連中に肩入れする。そうすれば、自分がなんだかすごく上等な人間になった気がして、気分がいいんだろ」


 チルチルは、淡々と彼が思うところの事実を突き付けた。マリの心を読めた訳ではないが、少なからずあたっていたのだろう。青ざめたマリの顔を見上げて、チルチルは追い打ちをかけた。


「違わないよな」


 マリは傷ついただろう。その為に言葉の刃を突き立てた。もうマリの機嫌をとる必要はない。とにかく、今はマリの存在が鬱陶しい。母と妹のことだけを考えながら死にたいのに、マリが目の前にいると、そう言うわけにはいかない。

 マリは長いこと目を伏せていたけれど、やがて、絞り出したような細い声で言った。


「自己満足のおせっかいだって、自分でもわかっているわ。あなたはきっと、喜ばないだろうってことも。でも、あなたに会いたかったの。今、あなたを探し出さないと、もう二度とあなたに会えない気がして」

「どういう風の吹きまわし? 君は僕を嫌っているんだ。僕がいなくなれば、君は僕と会って苛々せずに済むし、婚約はなかったことになる。良い事づくしじゃないか」

「そうね。私はあなたを嫌っていた。だから遠慮なく嫌な態度をとったし、遠慮なくあなたを責めたわ。それなのに、あなたはジョージが私を悪く言ったとき、私の為に怒ってくれた」


 チルチルの頭の働きが鈍くなっていなくても、すぐにはぴんとこなかっただろう。マリは、チルチルがジョージと一緒になってマリの悪口を言ったと、誤解しているのではなかったか。

 まんじりと見つめられたマリは、決まり悪そうにもごもごと言った。


「断っておきますけど、最初から立ち聞きするつもりじゃなかったのよ。ただ、あなたが登っている梯子をひっくり返したのは、流石にやり過ぎだって反省したの。謝らなきゃいけないと思って、訪ねて行ったのよ。あのジョージと顔を合わせるのは嫌だったけれど、こういうのは、後回しにすると、伝え難くなるものでしょ」


 マリはいったん言葉を切ると、チルチルの顔を覗き込む。チルチルの額に落ちかかった前髪を指先で払い、言葉を紡ぐ。


「あなたが私を庇ってくれたこと、とても意外だったわ。あなたなら、ジョージに調子を合わせるに違いないと思っていたから。それに、私はあなたに嫌われるようなことばかりしていたもの。ねぇ、どうしてなの?」


 マリの仕草は、泣きたくなるほど優しい。チルチルはマリの揺れる瞳を見上げ、眉を潜めた。唾を吐くように、顔を背けて言い捨てる。


「僕に君は特別だと言わせたいんだろうけど、残念だったね。君は特別じゃない。僕の中では、君たちは皆、平等だ。同じように、どうでもいい。その他大勢のひとりでしかない。君を庇った? そんなことあったかな。あったとしても、それはほんの些細な気まぐれさ。僕自身が忘れてしまう程度のことだ。君は考え過ぎている」

「どうでもいい人間……でも、ジョシュアは違ったのね」


 マリの慎ましく伏せた顔は、凪いだ水面のように静謐だった。マリに頬を撫でられたが、チルチルは抵抗することを忘れていた。


「あなた、ジョシュアに会って来たんでしょう?」


 マリは知っている。しらばっくれたって、意味が無い。何の考えも無くした行動だ。嘘のつじつま合わせなんて考えていないのだ。チルチルは少し逡巡してから、力なく苦笑した。


「耳が早いね。ああ、そう。行ってきたよ。行かなきゃ良かったと後悔したがね。あのメイド、彼の母親なんだろう? 顔を合わせるなりひっぱたかれた。君の家のひとたちには、つくづく、笑いものにされてばかりだな」


 チルチルは学校に戻るふりをして、反対方向に向かう列車に乗った。カールストン男爵邸を訪れると、驚きつつも腕を広げて歓迎しようとしたジョージの横をすり抜けて、近くにいた若いハウスメイドをつかまえ訊ねた。


「ジョシュア君にお会いしたい」


 若いメイドは困惑して、なかなか応諾しなかったが、硬直状態が続くと、ジョージが間に割って入った。ジョージは挑戦的な目でチルチルを射ぬき、顎をしゃくった。


「どういうつもりなのか知らないけど、いいぜ、案内するよ。こっちだ」


ジョシュアの部屋はまるで牢屋だった。囚人のように縛りあげられたジョシュアは、理性が閃かない濁った目玉をぐりぐり動かし、絶え間なく続く軽い恐慌の視線を、虚空に遊ばせている。口枷が嵌められた口からはだらだらと涎を垂らし、発するのは喃語のような、言葉になり損ねた声だった。

 

「哀れなもんだろ」


 ジョシュアは排泄も一人ではまともに出来ないのだろう。刺すような臭気に、鼻先に皺を寄せたジョージは、鼻をつまんだことでくぐもった声で言う。


「びっくりだよな。人間って、ちょっとしたことで、落ちる処まで落ちるんだぜ」


(ちょっとしたこと? ちょっとしたことだった? 罵倒、侮蔑、的外れな嘲笑。辱め、理不尽な暴力。孤独。ちょっとしたことだった。ジョシュアが、俺が、ぎりぎりのところで耐えていたのは、そんな、ちょっとしたことだった)


 チルチルはよろめくように寝台の傍らに跪く。ジョシュアはきょろんとした目で天井を見上げている。黒目が少しずつせり上がり、上瞼の裏に半分程隠れた。

 ジョシュアはかつて、この羊のように朴訥な瞳でチルチルを見つめた。汚水に塗れるチルチルの髪をタオルで拭きながら、彼は痛みを堪えるように唇をかみしめていた。

 

『君は強いひとだ、チルチル君。僕は君を尊敬する。これからも、決して彼らに負けないで欲しい』


 チルチルは弾けるようにジョシュアに掴みかかっていた。ジョシュアが枷を噛みながら悲鳴を上げる。そんなことお構いなしに、チルチルはジョシュアを揺さぶった。


「ジョシュア、君、なにしてるんだよ。なぁ、なにしてるんだ。こんなところで、なにしてるんだよ! なんでだ、俺は負けなかったのに、君は負けたっていうのかよ!? そんなバカな話があるか!? おい、なんとか言えよ!」


 そこに飛び込んで来たのは、げっそりと痩せたメイドだった。メイドはこけた頬を憤怒に歪め、チルチルをジョシュアから引き剥がし、チルチルの横面を張った。


「この人殺し!」


 メイドは金切り声でそう叫んだようだった。

 ジョージが騒ぎ立てたので危うく騒ぎが大きくなるところだったが、チルチルは適当に言い繕ってその場を収めた。チルチルは怪訝そうなジョージに見送られ、カールストン邸を後にしたのだった。


 追想から意識を戻すと、チルチルに膝枕をしたマリが、まるで母親のようにチルチルの額を撫でている。


「ジョシュアはあなたを気にかけていたわ。彼はまるで僕みたいだ。彼はもう一人の僕だ。彼を支えたいって。ジョシュアは、あなたの手助けをしようとした筈よ。表だってあなたを庇うことは出来なかったかもしれない。それでも、彼は勇気を奮い起して、自分に出来ることを、あなたの為にした筈なの。それなのに、あなたたちはどうして、こんなことになってしまったの?」


(どうしてこんなことになってしまったかだって?)


 チルチルは鼻先で笑った。自嘲だった。


(そんなの、わかりきってる)


「ジョシュアが憎かった。僕は、僕を辱めた奴らよりジョシュアが憎かった。この気持ちがわかるかい」


 マリは物憂げな溜息をひとつ落とすと、ふるふると頭を振った。チルチルはマリを見上げて、小首を傾げた。


「君は僕の気持ちがわかるとは、言わないんだな」

「わかりたいとは思うけれど」


 マリが真摯な気持ちでそう言ったことがわかったから、チルチルは適当なことを言って誤魔化そうとは思わなかった。上手いことを言ってやろうと、頭を使うことが今の彼には出来なかったということもあるけれど、一番の理由は、全てを受け入れようとするマリの決意に応えたかったから、だと思う。チルチルはマリの顔の向こうに広がる、忌々しい程の青空を見上げた。


「辛かった。貧民街の飾り窓の通りに母と棲んでいた頃も、父の邸に引き取られた後も、辛かった。だけど、誰も助けてくれないことを、僕は既に知っていた。世の中の人間はみんな、僕と同じだ。自分と愛する家族が大切で、その他はどうなったっていいんだ。自分たちのことは、自分たちでどうにかするしかない。それなのに、ジョシュアが初めて声をかけてくれた時、僕は本当に嬉しかった。嬉しくて涙が出たんだ。バカみたいだね」

「だったら、どうして」

「たったそれだけのことで、僕は彼を信頼した。僕はバカだったのさ。ジョシュアが僕から目を背けて、僕を蹴る奴らに微笑みかけて横を通り過ぎたとき、僕は自身の愚かさを呪ったよ。たったそれだけのことで? って、君は思うだろうね。ジョシュアだって、自分の身を守らなきゃならなかった。仕方のないことだ。そうだ、僕だって、理性では理解出来る。でも、荒れ狂った感情はもう、どうにもならなかったんだよ」


 あなたは間違っている、と糾弾されると思ったのに、マリは切なく顔を歪めただけだった。


「だから、あなたはカイのことも憎むのね。カイが言っていたわ。お兄さまが僕に辛くあたるのは、僕の自業自得だ。僕がお母様の歓心を買いたいばかりに、お兄さまの大切な妹を裏切ったせいなんだ、って」


 チルチルは小さく噴出した。カイは徹頭徹尾、良い子でいることに余念が無いらしい。


「あいつ、わかってるんだな。バカの癖に」

「カイは賢明な子よ」


 マリはそう断言すると、チルチルの目許をそっと覆い隠した。それだけのことで、チルチルはマリがぐっと近づいてきたように感じた。物理的な距離が近づいたわけではないのに、マリの囁き声が近い。息使いまで聞こえるようだ。


「どうしてあなたが、今になって、ジョシュアに会いに行ったのか、考えていたの。あなたは、ジョシュアに助けを求めて、会いに行ったんじゃないかしら。あなたは今、とても傷ついているから」

「……知ったような口をきいてくれるじゃないか。君から聞くまでもなく、彼の頭がおかしくなったことは知っていたよ。この僕がどうして、あんな気狂いに助けを求めるんだ?」

「ジョシュアは、あなたにとって特別なひとなのよ。家族の他で初めて、あなたに優しさをくれたひと。だから、家族を皆失ったとき、あなたはジョシュアに会いに行かずにはいられなかった。ジョシュアなら、きっと助けてくれると、思ったんだわ」 

「助けなんて、俺には必要ない!」


 チルチルはマリの手を振り払い、弾かれたように上体を起こした。最後の力を振り絞ったチルチルは、はずみで汚ない地面に倒れ込む。マリが助け起こそうとしたが、チルチルは鋭い一睨みでマリを凍りつかせた。身を竦ませるマリを見て、チルチルは白けた。ひたすら哄笑する。苦い土の味が口腔に広がる。土を吐き散らかしながら、チルチルは叫ぶように言った。


「母さんもあの娘も死んでしまった! 辛い人生に歯を食いしばって立ち向かう意味は、もうない! その為の助けなんて必要ない! 俺にはもう、生きる意味なんてないんだ!」


 拳を地面に何度も叩きつける。止めようとするマリの手を叩き落として、チルチルはマリを睨み上げた。負の感情の突沸は押え切れなかった。


「どうしてなんだ、どうしてあの娘は死んだ? 君はこうして生きているじゃないか! あの娘と君の、いったい何が違う!? なぜ銀のものはあの娘の命を奪い、君の命を長らえさせる!? 不公平だ、こんなの!」


 マリの顔色が変わった。目に見えて動揺している。マリは両手で口を押えていたかと思うと、身ぶるいするように立ち上がる。踵を返そうとした。

 だが、気が動転しているマリは、地面に転がる汚らしいほう髪の男の体に躓いて転んでしまった。


「うう……いたっ……っ!?」


 肘で身を起こしたマリの背に、ほう髪の男がのそのそと覆いかぶさる。男はマリの耳元で何事かぼそぼそと呟くと、マリの首筋に顔を埋めた。黄色い爪を長く伸ばした不潔な手がマリのスカートをたくし上げようとすると、マリが絹を裂くような悲鳴を上げる。

 

チルチルの脳裏に、閃光のように閃いたいまわしい記憶。夜更けに扉を蹴破った闖入者が、母を殴り、寝台に倒れ込んだ母を荒々しく組み敷く。チルチルは母の言いつけを守り、耳をふさぎ、目を固く瞑って、クローゼットで息を潜めていた。


「うっ……ああ……うわああああ!」


チルチルは抗えない強い衝動に呑まれ、マリを襲う男に躍りかかった。スカートを押えて泣き叫ぶマリから、チルチルと男は縺れるように転がり遠ざかる。


 チルチルの頭の中には、マリに付き従っている筈の護衛のことや、どうせこの女は子供を産めないんだ、という非道な考えがすっぽり抜け落ちていた。チルチルはただ単純に、目の前の女性を、母ではなくとも今度こそ、助けなくてはいけなかった。


ほう髪の男は、吐しゃ物まじりの臭い涎を吐き散らかしながら、チルチルを押さえつけ殴り付ける。チルチルは男の鳩尾につま先を突き刺し、出来るだけ男を遠ざけ、男の顔を無茶苦茶に引っ掻いた。

男とチルチルは、かけつけたマリの護衛に引き離された。チルチルは浮浪者じみていたので、マリがとめなければほう髪の男と一緒に路地に捨てられるところだった。

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