そんな、まさか
翌々日。ダオン伯爵から茶会に招かれたチルチルが伯爵邸に赴くと、伯爵はわざわざエントランスまで迎えに降りてきていた。そこにマリの姿がない時点では気にならなかったが、案内されたテラスにもマリの姿が見えなかったので、チルチルはダオン伯爵に訊ねた。ダオン伯爵は鷹揚に頷き
「チルチル様がいらっしゃることを、マリは知りません。本日お招き致しましたのは、マリの父親として、チルチル様にお話しなければならないことがあるからです」
(それならそうと早く言ってくれれば、こんな花束なんか抱えて馬車を乗り降りせずに済んだんだがな)
そんなこどもっぽい文句をつけない分別がチルチルにはある。それに、ダオン伯爵のまるまるとした顔に漲る緊張感に気がつかないほど、鈍くも無かった。チルチルが無言で先を促すと、ダオン伯爵は枕なしに、単刀直入に切り出した。
「マリは銀のものを身に宿しています」
驚くべき告白だった。銀のもの。チルチルの妹に寄生し、チルチルと妹を引き離す原因になった諸悪の根源。
(マリも、銀の病にかかっているというのか!)
狼狽するチルチルに、伯爵は端的に語った。
マリは彼女の母親と同じく、体が弱く生れついてしまった。病気がちで、遊びたい盛りのほとんどを、床に伏せて過ごさざるを得なかった。ダオン伯爵はマリを不憫に思い、寂しそうな様子に心を痛めていた。
そうして、マリの母親が亡くなった。風邪をこじらせ、肺を悪くしたのである。
「私は嘆き悲しみ、そして恐怖しました。マリの病弱は母親譲り。私はマリさえも、早くに亡くしてしまうのではないかと」
そんな矢先。高名な遺物収集家のダオン伯爵に是非お目通りしたい、とせがまれたという知人が、ダオン伯爵に一人の男を紹介した。
「彼こそ、ドクター・オズ。銀のものの研究の第一人者でいらっしゃいます」
銀のもののライフサイクルは寄生と分裂からなる。幼体は芽胞を形成し、近くに動物の雌が現れるのを待ち、その子宮に寄生する。そこである程度育つと、宿主の肉体を食ってさらなる成長を遂げる。特筆すべきは、銀のものは宿主の肉体を食った分を、己の肉体で補うということだ。
「銀のものはそうやって、宿主を内側から少しずつ浸食します。やがては脳まで己のものに作り変え、宿主の体を乗っ取ってしまうのです。たいていは、肉を食らい尽くせば宿主の皮を捨て、分裂してまた寄生するというサイクルを繰り返すことになります。ですが、人間のような、理性をもった動物に寄生した場合に限り、例外が生じるケースがあるそうです。人間の脳を模倣することで、知性を手に入れた銀のものは、人間に擬態して生きていくことがあるとか」
メーテルリンク公爵が言った「人間でなくなる」という言葉の意味は、こういうことだったらしい。ダオン伯爵は続ける。
「その場合、体をのっとられた宿主はそこにはいません。宿主の姿、記憶、同じような趣味趣向をもっていても、それは人ならざるものでしかない」
しかし。ダオン伯爵の目がきらりと光った。
「浸食が脳にまで及ばなければ、宿主の意識にも人格にも、何の影響も及ぼしません。それどころか、銀のものの体は強靭で、物理的損傷はほぼ完ぺきに修復され、病理的には完全な健康体となります。夢のような体を手に入れることが出来るのです」
「待って、待ってください」
チルチルは大きな声でダオン伯爵の話を遮った。ダオン伯爵の、熱に浮かされたような瞳に背が泡立つ。
(まさか、まさか。そんなこと、万が一にもないと思うが、ないと思いたいが……この話の流れは、まさか……)
「まさか、伯爵。あなたはマリさんを病から守る為に、銀のものをマリさんの体に寄生させた……なんてこと。あり得ませんよね?」
絶対に否定して欲しかった疑惑を、ダオン伯爵はすんなりと肯定した。
「ドクター・オズは、銀のもののユニークな性質を医学に利用できないかと、ずっと研究を重ねてこられました。研究はもう臨床段階に入っていた。私は娘を、被験者として志願させることにしました。それは正解だった。マリは見違えるほど元気になりました。投薬により、マリに宿った銀のものは成長をとめています。マリは脳を侵されることなく、いつまでも若々しく、健康な体を手に入れたのです」
ただ、と前置きして、ダオン伯爵は項垂れた。
「この素晴らしい成果にはひとつだけ、どうしようもない副作用が付きまとうのです。銀のものを宿した女性は、子を産むことが出来なくなります。マリと結婚するにあたり、チルチル様には、それだけはご理解いただかなくてはなりません」
チルチル様さえよろしければ、しかるべき女性を妾として迎え入れ、その子供を養子として迎え入れる用意も当方には御座いますが……云々、言いつらねるダオン伯爵の言葉が右の耳から左の耳に抜けていく。チルチルは頭を抱えていた。
(わからない……わからないことが多すぎる……だが、つまるところ、たぶん、ドクター・オズって医者は……銀の病の進行を制御する薬を開発した。少なくとも、それがマリには効いている。ってことは……ドクター・オズに預けられている、あの娘も安泰ってことだよな?)
ぐるぐると廻る思考は、妹の安否に帰結する。彼にとって一番の気がかりは、やはり、妹のことだった。
帰り際、エントランスまで見送りに降りてきたダオン伯爵の顔色はとても良い。肩の荷を下ろしたようだ。ダオン伯爵は、晴れやかに微笑して手を差し伸べてきた。
「御理解いただきまして、ありがとうございます。チルチル様。あなたという紳士に、娘と家の未来を託すことが出来る。これ以上ない幸せを、私は噛みしめております」
無防備な笑顔を浮かべるダオン伯爵をまじまじと見つめて、チルチルは言った。
「なぜダオン伯爵が僕をマリさんの婚約者にとお考えなのか、今日のお話でまず間違いなく理解したと思います。マリさんの夫として、僕程の適任者はそう、いないでしょうね」
チルチルは、ダオン伯爵と握手を交わして別れた。その日、久しぶりに妹のことだけを考えて過ごした。
あくる日、妹が死んだ。
チルチルが悲報に接したのは、ダオン伯爵からまたもや茶会に招待され、やれやれ、と重い腰を上げた時だった。
(なぜ? ドクター・オズが開発した薬は、銀の病の進行を抑制する筈だ。そうでなくてもあの娘はまだ幼くて、進行は遅いって……そう聞いていたのに!)
そこから先のことは、よく覚えていない。ふと気が付くと、すっきりと生理整頓された部屋がひっくり返ったように散らかっていた。ガラス片の散乱する床に、アロンソによって組伏せられていた。
チルチルはハンカチを口に突っ込まれて、寝台に縛り付けられた。チルチルに手当てを施した医者は、チルチルから決して目を離さないようにと、アロンソに言い含めている。
「精神的に強いショックを受けて錯乱している。いつまた自傷行為にはしるかわからない。くれぐれも安静に、決して彼を興奮させないで」
憐れむようにチルチルを一見し、医者は重そうな鞄を抱えて部屋を辞した。
魔法にかけられた泥人形のように、黙々と働くアロンソの適切な看護のおかげで、チルチルの傷は程なくして癒えた。その間、チルチルは夢を見ているようにぼうっとしていた。
妹が死んだと知ったチルチルの心に去来したのは、悲しみでも怒りでもなく、圧倒的な虚無感だった。狂乱する気力も無い。チルチルはただ魂を失ったかのようにぼんやりしていた。
そのうち、拘束を解かれた後も、チルチルは寝台の上でぼんやりして過ごした。面会人は誰もやって来ない。面会を断っているのか、それとも上辺だけの付き合いが招いた、当然の孤立なのか。どちらでもチルチルは構わなかった。チルチルは、母と妹の来訪だけを心待ちにしていた。
チルチルは日常生活に戻った。ただし、今までの暮らしは続けられなかった。チルチルは社交家でまめな以前の彼ではなくなっていた。無気力で、誰と何処で何をするのも億劫がる。ダオン伯爵の誘いも断り、父の言いつけも聞かなかった。起きたままのだらしのない格好で一日を過ごし、継母の陰口も聞き流す。カイが物言いたげな眼差しを向けてきても、無視した。
そうこうしているうちに、休暇が終わった。チルチルは空っぽの旅行鞄に無造作に財布だけを投げ入れて、馬車に乗り込んだ。駅で馬車を降り、いつものホームとは違うホームから、寄宿学校と反対側へ向かう汽車に乗り込む。
その晩、セントラル駅に戻ったチルチルは、駅から出たその足で、ふらふらと宵闇に紛れ歩きだした。