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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
裏側の三話「彼はこうしてすべてをなくした」
34/60

あの頃のりんごは

ダオン伯爵が目をぱちくりさせる。馬車がじょじょに速度を落として静かに停車すると、戸惑い顔でチルチルを見つめるダオン伯爵に、チルチルは微笑みかけた。


「このあたりには土地勘があるんですよ。十年以上前の土地勘になりますが。ダウンタウンは、そう目まぐるしく変わる町じゃないでしょう? きっと大丈夫」


 言いながらチルチルはジャケットを脱いだ。ベストも脱いで、タイも抜き取る。脱衣した衣類を綺麗に畳んで座席に置くと、チルチルはダオン伯爵に、腰をかがめた窮屈な姿勢で、最も見栄えが良いだろう角度で一礼した。


「預かって頂けますか」


 チルチルが扉に手をかけると、ダオン伯爵は慌ててチルチルをとめた。


「ちょっと、待ってください、チルチル様。あの、いったいどうして……」


 チルチルは軽く肩を竦めた。


「情けないことに、武道はからきしなんです。絡まれたら最後、自分の力ではどうにも出来ません」

「あの、それでどうして、服を置いていかれるのです?」


 チルチルは目を丸くした。素晴らしい篤志家の妻と娘をもつダオン伯爵は、他の貴族に負けず劣らず、世間知らずのようだ。妻と娘を溺愛する割に、彼女たちがご執心の活動には、あまり関心がないらしい。思わず知らず、失笑を漏らしてしまう。出来るだけ感じよく聞こえるように気を使って、チルチルは説明した。


「こんな上等な服を来て、一人でうろうろしたら、「私は好奇心でちょっと立ち寄った、世間知らずのお金持ちです」って触れまわっているようなものです。あっと言う間に取り囲まれてしまいます」


 ダオン伯爵は、感心した様子でぽんと手を叩く。短い首をよじり振り返ると、前方の座席に控える二人の屈強な男たちに声をかけた。


「お前たち、チルチル様のお後に続きなさい」


 男たちが腰を浮かせる。チルチルは手でそれを制した。訝しげなダオン伯爵に、マリをまねて悪戯っぽく告げる。


「いいえ、伯爵。こんな強面の男性をぞろぞろ引き連れて来た僕に、マリさんが会って下さいますか? それと、伯爵。マリさんにしているように、彼らに僕を尾行させても、僕は気付いてしまいます。さっき、伯爵が種明かしをされましたから。護衛に尾行されているマリさんを追いかける僕を護衛が尾行しているなんて、ややこしいことはやめましょう」

「それはそうかもしれませんが、しかしチルチル様にもしものことがありましたら、私は公爵様に顔向けが……」

「それなら、御心配には及びません」


 チルチルは扉を開き、颯爽と馬車を降りる。ダオン伯爵を見上げて、にっこりして言った。


「僕にとっては学校も、はじめは結構、危険な場所でした。でも、なんとか今日まで生き延びています。ちょっと、悪知恵を働かせましてね。……マリさんと一緒に戻ります。すみませんが、それまでお待ちくださいませんか」


 チルチルは笑顔のまま告げると、有無を言わさず扉を締めた。ぴかぴかに磨き上げられた皮靴に土埃を纏わせて、きっちりととのえた髪を無造作に乱して、チルチルは歩き出した。


 『飾り窓』の通りはちっとも変わっていなかった。相変わらず、安っぽい化粧を施した不健康そうな女たちが痩せた体をくねらせて、窓から通行人に媚を売っている。女たちのいっそ哀れな程に険しい流し眼をかわして、チルチルは道の真ん中を、饐えた匂いに息を詰めて足早に進んだ。


 繁華街の高級娼館で働くことの出来ない不器用な者、病や加齢で娼館を追われた者が集うのがこの、町はずれの飾り窓の通りだ。幼いチルチルが母と共に暮らしたのも、ここだった。

 ここの女たちは不幸で、すさんだ心を他人の不幸で慰めていた。かつては夜の姫君と謳われた母の没落は、娼婦たちの飯のタネだった。


『あの恐ろしい青髪公爵に目をつけられたのが運のつき。見ていなさい。彼女は今に捕らわれて、他の可愛そうな犠牲者たちと同じように、血を啜られ肉を食われ、骨の髄までしゃぶりつくされてしまうから。迎えに来ると約束した男も、青髪公爵が相手じゃ、怖気づいて逃げ出したに決まっているわ』


 娼婦たちは聞えよがしに噂話をして、母を嘲笑していた。母が毅然とした態度を崩さないでいることが面白くなかったのだろう。母の目を盗んでは、幼いチルチルを捕まえて、猫撫で声でこう囁いた。


『ねぇ、チルチル坊や? あなたはどっちの子なのかしら? 人喰い青髪公爵の子? それともあなたの母親に愛を誓った詐欺師の子? ふふ、どっちにしろ、女を食い物にする男の子どもよ。ろくなもんじゃないわね!』

 

 もう十年以上も前の話だ。この劣悪な環境で、あの頃にいた娼婦は何人生きながらえているだろう。生きていたとしても、もう花を鬻ぐ商売を続けてはいないだろうか。


 視界の端にちらちらと映り込む、娼婦たちの大きく開いた胸元から覗く浮き出した鎖骨を見たくなくて、チルチルは真っ直ぐ前だけを見つめて歩いた。


 飾り窓の通りを抜けると、町のはずれに出る。人が手をかけることを放棄して久しい、見捨てられた地区である。ひび割れから草を茂らせた石畳。瓦解し蔦草に取り巻かれた廃屋。薄暗い森のような陰鬱で静かな雰囲気が漂っている。チルチルは躓かないように慎重に悪路を進みながら、控え目にあたりを見回した。

 

(さてと……教会はどっちだったかな……)


 あまり背の高い建物では無かった。目印になる特徴的な装飾も特になかった。似たりよったりの、緑に覆われた平屋の廃屋をチルチルがいささかうんざりと眺めていると。


「きゃっ」


 どん、とぶつかった。甲高い悲鳴と衝撃の軽さから、相手が小さなこどもだと言うことは、反射的にわかる。目の前で尻もちをついたのは、まだ幼い少女だった。ちょうど、チルチルの妹と同じくらいの年頃だ。チルチルは少女の前に跪き、少女を助け起こした。


「ごめんよ、けがはないかい?」


 少女のスカートについた砂ほこりを払い落してやって、少女が着ている衣服が仕立ての良いものだということに気がついた。こんなところにいる子供なのに、衣服には穴や継ぎ接ぎがなく、ちゃんと靴も履いている。健やかに丸々と育っているとは言えないが、がりがりに痩せてはいない。


(もしかして、マリが世話をしているこどものひとりか?)


 だとしたら、しめたものだ。チルチルは少女の肩を軽く掴んで訊ねた。


「ねぇ、君。聞きたいことがあるんだ。この辺で、マリというひとを」

「足がいたーい!!」


 少女がへたりこんで喚きだす。チルチルはびっくりして固まってしまった。


「え……大変だ、どこ? どこが痛いの? 見せて」


 チルチルは少女に訊ねたが、少女は「どこが痛いかわかんないくらい痛いのー!」と言って、駄々をこねるように足をばたつかせている。触ろうと伸ばしたチルチルの手を蹴飛ばして、足は元気に動いている。


(……怪我はないみたいだが……)


 本当は足なんて痛くないに違いない。痛かったとしても、もうとっくに治っているだろう。妹もこうして、見え見えの嘘をつくことがあった。それはたいてい、どうしようもなく拗ねている時で、ようするに構って欲しい時だった。

 

『足がいたいの、歩けないの、お兄ちゃん! だっこして、ずーっと行って。お兄ちゃんとずーっと一緒に行く!』


 チルチルは幼い妹の可愛い我儘を思い出して、嬉しいような、切ないような複雑な気分になった。目の前の少女が妹に重なる。少女はなかなか泣きやまない。空を見上げるようにしてわんわん泣いている。


「うーん、困ったな」


 チルチルは少女につられるようにして空を見上げた。そして、頭上に広がる樹冠にいくつか、赤い実が付いていることに気が付いた。


わたリンゴの実だ。赤く熟すと甘く蕩けるように柔らかい。


チルチルは、背の高い木をのけぞるようにして見上げた。てっぺんに近い高いところにほんの少しだけ赤い実が残っている。

わたリンゴは甘くて柔らかいので、実をつけると、たちまち人が群がってきて実をもいでしまう。

 チルチルはすっくと立ち上がると、少女の頭にぽんと軽く手を置いた。


「ちょっと待ってて」


 木登りはあまり得意ではなかった。それでも、母が体調を崩して寝込んだとき、高いところに僅かに残された、わたリンゴの実をとろうとして一生懸命に登ったことがある。何度もずり落ちて、手足が擦り切れて痣だらけになったけれど、諦めずに何度も挑戦した。 

その時の結果たるや散々なもので、もう少しで手が届きそう、というところで足を滑らせて、頭をしたたかに打ちつけしまったのだが。目が覚めると寝台の上で、母が心配そうに覗き込んでいた。


(あの時だって、もうちょっとだった。今ならきっと、手が届く)


 皮靴を脱いで、靴下も脱いで、裸足になった。子供の時より手足は長く、力も強くなっている。木登りのコツは、登っているうちに思い出してきた。するするとはいかないが、それなりの時間をかけて、チルチルはだいぶ高いところまで登って来た。手を伸ばす。赤い実に手が届く。いつの間にか泣きやんでいた少女が歓声を上げた。

 

「わーい、やったー! それ、ちょーだい! はやくはやく!」

「そんなに急かさないで。今降りるから…」


 チルチルは成長したお陰で、わたリンゴをとるところまでは出来るようになった。しかし、成長したチルチルの重さに、細い枝が耐えられなかった。

チルチルが右手で握っていた枝がぽきりと折れて、バランスを崩したチルチルは、何が何だかわからないうちに木から落っこちた。背を強かにぶつけて息が出来ずに喘いでいると、頭上で少女の悲痛な声がした。


「あーっ! あたしのわたリンゴがぁ!!」

「――っ、てて……」


 チルチルがなんとか実を起こすと、わたリンゴは地面に落ちて無残にもつぶれてしまっている。少女は嘆き、また泣きだした。

 チルチルはぐわんぐわんする頭を押さえて、少女をなだめようとした。


「悪かったよ。そんなに泣かないで」

「いやー! 食べたいの、わたリンゴが食べたいのー! もう一回とってきてよー!」

「も、もう一度かい?」


 恐らく、この少女は高いところになったわたリンゴが欲しくて、この木をずっと見上げていたのだろう。とにもかくにも、わたリンゴが欲しいのだ。

 だからと言って、もう一度木登りに挑戦するには、チルチルの気力と体力の残量が厳しい。チルチルは少し考えてから、懐に手を差し入れた。少女の小さな手をとり、銀貨を握らせる。


「はい。これで、好きなもの、なんでも買うと良い。だから、ね? もう泣かないんだよ」


 少女は銀貨をしげしげと見つめている。顔を上げると、小首を傾げた。


「お兄ちゃん、お金でなんでも解決すると思ってない?」


 少女の口から飛び出した辛辣な言葉にチルチルが絶句する。少女はにやりと笑うと、跳ねるように立ち上がった。


「しょうがないなぁ、これはお詫びの印に、貰っといてあげる」

「あ、ありがとう……」


 少女は身軽に駆けていく。道の真ん中で佇んでいる女性の隣で立ち止まり、チルチルを指さして女性に言った。


「ねぇ、あのひとがチルチルでしょ? 金髪で、青い目で、色白で、女の人みたいだもん。でもね、どんくさいけど、マリが言うほど嫌な奴じゃなさそうだよ?」

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