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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
裏側の三話「彼はこうしてすべてをなくした」
33/60

ダオン伯爵は語る

 幸いにも、チルチルの鼻は無事だった。帰りの馬車に揺られるチルチルの頭の中では、マリが「なんともなかったの? あら、残念。少しひっこんでしまえば良かったのよ。あなたの鼻って高すぎるみたいだし。そうしたら、少しは謙虚になったに違いないわ」と憎まれ口を叩いていた。チルチルの頭の中には何時の間にか、小さなマリが住み着いてしまっている。

 

 チルチルはぼんやりしていたので、馬車から下りるときステップを踏み外してしまった。それをよりによって継母に見られていたのだが、チルチルは気もそぞろで、いつもは絶対に聞き逃さない継母の嘲笑すら、耳に入らなかった。

 自室に戻ったチルチルは、律義に着替えまで手伝おうとするアロンソを「子供じゃあるまいし」と追い払うと、寝台に仰臥した。一人きりの自室には、彼を煩わせるものは何もない。

母と妹の他の人間は、チルチルを煩わせる者でしかない。だから、母と妹のいない時間のうちで、チルチルが安らげるのは一人になる時だけだった。一人きりの時間は、わずらわしい人間関係のことは忘れて心を休めるようにしている。


 この時も、チルチルはそうしようと思って目を閉じた。瞼の裏に、チルチルとジョージの話を盗み聞きしたマリの姿が浮かぶ。傷ついたような顔をしていた。チルチルはぱっちりと目を開けると、不機嫌に鼻を鳴らして寝がえりを打つ。

 

(なんか最近、マリのことばかり考えてる気がする)


 ぼんやりと考えるのは、マリのこと。どうしたら彼女の気をひけるのだ。せめて、言葉を交わすにはどうしたらいい。もうこの際、罵られてもいいから、声くらい聞かせてはくれまいか。

 チルチルは己の思考がおかしなところに落ち込もうとしているのに気が付いて、げんなりした。


(せめて声が聞きたい、なんて。恋する乙女じゃあるまいし)


 チルチルはマリなんか好きじゃない。マリなんか全然好みじゃない。チルチルの理想の女性は、母のように気高く、優しく女性だ。マリなんか全然だめだ。マリは気高いというより気位が高いし、マリが優しくするのはカイやジョシュアのような、チルチルが大嫌いな連中に対してだけだ。


 マリもきっと、ある種の偽善者なのだろう。カイやジョシュアのような弱い者を背に庇い、強い者に歯を剥く。ただ、カイやジョシュアと大きく違うのは、自らが矢面に立つことになんの躊躇もしないということだ。

 マリはチルチルのように、笑いたくもないのに笑ったり、周りにあわせて黒いものを白いと言ったりしない。マリなら、間違っていることは間違っていると声を上げるだろう。

 

(そんなことが出来るのは、いいとこのお嬢さんだからさ)


 チルチルはまた溜息をつく。そうして、思った。


(なんか嫌だな、この感じ)


また幸せが逃げていった。




***


 チルチルは、怪我の療養なんてもっともな理由をつけて、マリへの訪問をさぼっていた。


同じ言い訳で、社交場へ顔を出すこともしなかった。のべんだらりと過ごしていたのだが、そんなチルチルの優雅で怠惰な引き籠り生活をどう曲解したのか、ダオン伯爵がせっせと見舞いの品を携えて訪ねて来る。煩わしいことこの上無いのだが、無碍にあしらうことなど出来る筈もない。チルチルはダオン伯爵が来るたびに、アロンソに命じて巻く必要の無い包帯をいちいち巻かせなくてはならなかった。

 

そんなこどもだましの偽装はいつまでも通用しない。チルチルは観念して、マリへのアプローチを再開することにした。

ダオン伯爵は感涙せんばかりに喜ぶと、汗ばんだ手でチルチルの両手を握り締めた。


「よくぞ仰って下さいましたなぁ! 馬車はすぐに手配させます。もちろん、優秀な護衛もお伴させますとも!」


 興奮したダオン伯爵の唾を顔中に浴び、誤魔化しようもなく顔を顰めていたチルチル。いったんダオン伯爵にお引き取り頂き、外出の支度を始めた。鏡の前でタイをしめながら、チルチルははてと首を傾げる。


(護衛? マリはいったい、どこに?)


 ダオン伯爵が待つ馬車に乗り込むと、チルチルが疑問を呈するまでもなく、ダオン伯爵は家庭の、デリケートと思われる事情を、ぺらぺらと語り出した。


 ダオン伯爵曰く。マリの母親は、ダウンタウンの恵まれないこどもたちを愛する篤志家だった。施すだけではなく自らダウンタウンへ赴き、こどもたちと触れ合うような、奇特なひとだったらしい。蒲柳の質故に無理がたたり、マリが幼い時に亡くなったのだが、亡くなる寸前まで、ダウンタウンの孤児が集まる教会に足を運ぶことをやめなかった。

 母親と一緒にダウンタウンを訪ねていたマリは、母が亡くなってからも、生前と同じようにダウンタウンを訪ね続けているという。母の遺志を継ごうとしているのだろうと、ダオン伯爵は寂しげに微笑んだ。


「妻は本当に、心根の優しい女性でしてねぇ。マリは、顔の造作こそ私に似てしまいましたが、妻によく似て、心根の優しい娘なんですよ」


 その心根の優しい娘に、大事な婿殿候補がどんなむごい扱いを受けたのか、忘れた訳ではないだろうな。なんて嫌味すら、メーテルリンク公爵の不興を買いかねないので、口が裂けても言えない。一生懸命に相槌を打って聞き役に徹していると、ダオン伯爵の口はどんどん滑らかになっていく。

 

「あの娘も、ダウンタウンでは随分と、怖い目にあったんですよ。無頼漢に囲まれて、下品な言葉をかけられ、あろうことか、乱暴されそうになったことがあるのです。いえ、もちろん、護衛がすぐさま飛び出しましたから、マリには指一本触れさせませんでしたよ。それはもう、もちろんです。しかしですね、そんな恐ろしい目にあったのにも関わらず、あの娘は護衛をつけられるのを嫌がるんです。『強面の男性をぞろぞろ引き連れた若い娘なんて、こどもたちが怖がって近づいて来てくれないわ』なんて、悪戯っぽく、こう、にこーっとして言いましてね。それでも、ねぇ、おわかりでしょう? 私はこっそりと、護衛にマリのあとをつけさせているのです。あの娘にもしものことがあったら、私は……チルチル様!」


 不意に、がしりと両手を掴まれる。うわ、と凍りつくチルチルに、ダオン伯爵は覆いかぶさるように身を寄せた。いくらゆったりとしたつくりの箱馬車内でも、巨漢に迫られると圧迫感が酷い。ダオン伯爵は洟をたらしている。チルチルがたまらず「は、伯爵、お洟が……」と指摘すると、伯爵は失礼、と前置きして、すさまじい音を立てて洟をすすった。もはや何も言えないチルチルに、ダオン伯爵は泣きながら訴えかける。


「可愛そうな娘なのです! マリは心が優しすぎる。幼い時から親身になって接して来たダウンタウンのこどもたちに肩入れするあまり、彼らを毛嫌いする高貴な人々に馴染めず、孤立を深めてしまいました。おわかりでしょうが、マリには頑ななところがあります。いえ、そこがいいところでもあるのですが……マリは御令嬢たちの、庶民を見下すような考え方に猛反発しまして、女学院では残酷な扱いを受けてしまうのです。ついには、意地悪な御令嬢たちによって、社交界に悪い噂を流されてしまう始末……。もはや、マリに好意的に近づいて来る青年はいませんでした。私は、美しい容姿をマリに与えてやれませんでした。そればかりか、厄介な家付き女にしてしまった……せめて、健康な体だけはと願っても。それすら叶わなかった……それでも私は、なんとしてでも、マリに幸せな結婚をさせてやりたいのです!」


 ダオン伯爵が白熱していく一方で、チルチルは冷静になっていった。ダオン伯爵の鼻孔で、時折膨らむ鼻ちょうちんにさえ目を瞑れば、平静と言っても良い。


パズルのピースがぴたりと嵌り、隠されていた画が浮かび上がったようだ。


(なんだ、そういうことか)


 肩すかしを食ったような、一種の失望のような、空虚な気持。複雑な内心はうまく隠して、チルチルはにっこりと微笑むことが出来た。


「マリさんのお優しいお気持ちに胸うたれました。伯爵は御存じでしょうか、僕の母はダウンダウンの人間で、僕もダウンタウン生れ、幼少期をダウンタウンで過ごしました。ですから、ダウンタウンのこどもたちの苦しみは、僕にとっても他人事とは思えないのです」


 ダオン伯爵の円らな目が輝く。抱きつかれては押しつぶされかねないので、チルチルはさり気なくダオン伯爵を席に押し戻した。


(ダオン伯爵は、後妻を娶れないほど死んだ正妻にぞっこんで、その忘れ形見のマリを溺愛してる。だが親子ともどもあまり賢くないから、婿入りしてくれる手頃の若い男が見つからない。そこで、俺に白羽の矢がたった。下賤な生れ育ちの俺なら、マリの行き過ぎたご奉仕活動にも共感するか……そうでなくとも、頭ごなしに否定するようなことはないと踏んだんだろう。ダオン伯爵にしてみれば、俺が人気者の監督生だろうが、苛められっ子の劣等生だろうが、どっちでもいいってわけだ。俺がお貴族様の水準を満たす、そこそこの男でありさえすればな)


 ダオン伯爵がきょとんと眼を丸くしている。チルチルは自分がくすくす笑っていることに気がついて、詫びを入れた。


「すみません。なんだか、無性に笑いたくなってしまって」


(だって、笑いたくもなる。俺みたいな生い立ちの男なら、誰だって良かったって言うから。カイみたいな能無しの意気地なしでも良かった。むしろ、マリはその方が良かったんだろうな?)


 チルチルは車窓に顔を向けて外の景色を眺めた。記憶の奥底に追いやった、猥雑な街並みがひろがっている。


(このあたり、見おぼえがある。ここから一本奥に入れば『飾り窓』の通りに出る。そこを抜ければ、確か、紙で出来たみたいな、白い教会があった。きっとあそこだ。家のないガキどもの堪り場になってた)


周囲に人気が無いのを確認してから、チルチルはやにわに声を上げた。


「ここでとめて、降ります」

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