彼女に夢中1
アロンソが用意した、冷たい水に浸して硬く絞ったタオルを頬に当てながら、チルチルは頭を抱えていた。
(まずいことになったぞ。俺としたことが、信じられねぇバカをやっちまった)
溜息で幸せが逃げるのなら、チルチルの幸せなんてもうとうに、尽きてしまうのではないか、というくらい、チルチルは溜息を吐いていた。
チルチルがちょっとした悪戯心でキス ―― 小鳥が啄ばむような、可愛らしいキスだ ―― をすると、深窓の伯爵令嬢マリ・ダオンは、烈火のごとく怒り狂い、チルチルの大事な甘いマスクを細腕の何処に秘めていたか知れない力で張った。平手が襲ってくることくらい予想していたのに、避けることが出来なかった。チルチルはどうしたことか、またしても、器量よしとは決して言えないマリの質素な顔に目を奪われてしまっていたのだ。
マリが脱兎のごとく駆けて行く後ろ姿を、チルチルは無様にも、ぽかんと口を開けて見送ってしまった。
物陰に潜んでいた召使の囁き声にはっとしたチルチルが、まず最初に感じたのは、よりによって使用人の前で恥をかかされた屈辱。次いで感じたのは、よりによって、これから誑し込まなければならない未来の妻に ―― ただでも嫌われている未来の妻に ―― さらに追い打ちをかけてしまった後悔。
(別に彼女が「チルチル・メーテルリンクに唇の純潔を奪われた」って騒いでも、俺は一向に困らん……そんなことで騒ぎたてたら、困るのはむしろ彼女の方だ……そうじゃなくってだな)
家に帰る度に、愛してもいない女といちゃつくのは面倒だが、だからと言って、いがみあってぎすぎすするのは勘弁願いたい。どうせ結婚するのなら、楽しい方が良いに決まっている。
マリがチルチルを毛嫌いする理由がはっきりしたのだ。あちらは迂闊にも、ゲーム中に手札をオープンにした。こちらはいくらでも手立てを講じることが出来るようになった。
それなのに、彼は軽挙妄動で、有利に進められる筈のゲームの難易度を、ぐんと跳ねあげてしまったのである。
チルチルははぁーっと、魂まで抜けてしまいそうな長い溜息をついて、自室の机に突っ伏した。
(あーあ。やっちまったね、色男。ここからあの頭の硬い暴力女を懐柔するのは、至難の業だぞ)
頬にのせたタオルの上から頬を押える。頬は熱をもち、タオルは生ぬるくなっていた。チルチルはタオルをひろげて、ごしごしと強く顔を擦った。
(いーや、チルチル、お前ならうまくやれる。今からでも巻き返せる。今まで、どんな修羅場もこのマスクと口先で、うまく乗り越えてきたじゃねぇか。お蚕くるみのお嬢さんをよろめかせるなんて、ちょろいもんだ。そうだろ?)
チルチルは、よっしゃ、と気合を入れて両頬を挟むように叩く。マリに打たれた左頬が痺れるように痛み、チルチルは再び机に沈んだ。
翌日から早速、チルチルはマリ・ダオンの心を射止める為に、彼女に猛アプローチをかけた。その結果たるや、散々だった。
婿入りを約束した婚約者という看板を掲げてダオン伯爵邸を訪問すれば、ダオン伯爵はにこにこ笑顔で迎え入れてくれたのだが、肝心のマリの部屋の扉は彼女の心と同じく固く閉ざされてびくともしない。ダオン伯爵が「チルチル様がお前を訪ねてくださったんだ、顔を出しなさい」と呼びかけると「いないってお伝えして!」というありがたい返答があり、青くなったダオン伯爵と見つめあってしまった。
その翌日は、ダオン伯爵からマリは白い花が好きだと聞いたので、白い花で一抱えもある花束をつくらせ、それを土産にマリを訪ねた。やはり、会って貰えなかったのでダオン伯爵に預け、帰りの馬車に乗り込もうとした時、マリの部屋の窓から、白い花束が身投げしたところを目撃してしまった。
さらにその翌日は、ダオン伯爵からマリは甘い砂糖菓子が好きだと聞いたので、城下で評判のパティスリーの焼き菓子を土産にマリを訪ねた。やはりやはり、会って貰えなかったので、帰ったふりをしてマリが部屋を出るのを待ち伏せし、マリが出てきたところを突撃した。砂糖菓子の包みを渡すことは出来たが、憤慨したマリに「お毒見してくださる!?」と砂糖菓子を口いっぱいに突っ込まれ、噎せこんでいるうちに逃げられてしまった。
チルチルはあの手この手で、マリの機嫌をとろうとしたが、マリは頑固にも一切応じようとしない。おろおろするダオン伯爵に身守られながら、チルチルはマリにより、ありとあらゆる恥をかかされ続けた。最初の訪問では、チルチルにぽうっと見惚れていたダオン伯爵邸のメイドたちは、今となっては、マリに手ひどくやりこめられるチルチルを見て、笑いを噛み殺すのに苦労している始末だ。
その日、ダオン伯爵のアイディアで、バルコニーに上がろうとして立てかけた梯子に足をかけたところで、目敏いマリに見つかり、梯子を外された。ひっくり返されたチルチルの顔には、赤い梯子模様が出来てしまった。マリの両隣でそれを見ていた、よく躾けられている筈のメイドたちは、肩を震わせなんとか笑いを堪えていた。チルチルは不束な少女たちの顔を梯子の隙間から見上げて、彼女たちとは違う意味で身を震わせていた。
チルチルは梯子を跳ね飛ばすと、がばりと跳ね起きた。目を三角にしてチルチルを見下ろすマリを、こちらも負けずに目を三角にして睨み上げる。チルチルが唇を開こうとした時には、マリはくるりと背を向けて部屋に引っ込んでしまった。メイドたちがぱたんと窓を閉める。チルチルは唖然として見上げていた。
もう一週間も、こんな茶番をくりかえしている。我慢強いつもりのチルチルも、流石に腹にすえかねていた。チルチルは腕をぶんぶん振り回して、喚いた。
「ああ、マリ、悪かった、僕が悪かった! でも、この仕打ちはあんまりだぞ! 僕は君に、謝ることすら許されないのか!?」
マリの返事はない。チルチルはよく手入れされた芝に背から倒れ込み、手足を投げ出した。言葉にならない苛立ち声を上げて、手足をばたつかせた。
窓が開かれる音がして、チルチルはぎゅっと瞑っていた目をぱっちり開いた。開かれたのはマリの部屋の窓ではない。開かれた窓のあるバルコニーからチルチルを見下ろしているのも、マリではなかった。マリとは似ても似つかない黒髪と、マリと同じ緑の目をもつ青年が、チルチルを見下ろして手を振っている。
「やぁ、チルチル! やってるな!」
朗らかに微笑みかけてくる青年を見上げて、チルチルは
(げ)
と目を剥いた。
同じ貴族学校に通う同窓生で、マリの母方の従妹であるジョージ・カールストンが、よりにもよってこんな時に、ダオン伯爵邸に来ていたらしい。
ジョージはずるくて賢い、キツネのような青年だ。だから、チルチルのこの有様を見ても、表だってはバカにしたりしない。内心、どんなに嘲笑っているだろうかと思えば、チルチルは暗澹たる気分になる。
そんなチルチルの心の内を知ってか知らずか、ジョージはいたって気楽に、チルチルを誘った。
「上がって来いよ、お姫様がああじゃ、王子様にも休息が必要だろ?」
ジョージに宛がわれた客間に通されたチルチルは、仏頂面になりそうなところを、努力して苦笑しながら、ジョージとテーブルを挟んで向かい合っている。ジョージは使用人たちから、チルチルとマリの仲の、だいたいのところを聞いているらしい。「ここに来れば君に会えると思ったんだけどさ」と少し気まずそうに頬をかくジョージが、チルチルとマリの婚約を知り、学校では完璧なチルチルの弱みを掴んでやろうと目論んでやって来たことは、チルチルにはお見通しだ。そうして、恐らくジョージは、目論んでいた以上の成果を手にした。新学期からは、これまで以上にジョージに気を使わなければならなくなりそうである。
心配するふりをして、面白がっているだろうジョージに曖昧に相槌を打ちながら、チルチルは髪を掻き乱して叫びだしたい衝動にかられていた。
(俺はこんな三枚目じゃねぇのに……くっそ、それもこれも、マリ・ダオン! 彼女のせいだ!)
紅茶でかさついた喉とささくれ立った心を潤しながら、チルチルはジョージのお喋りに付き合った。ジョージが「君はマリを怒らせたの?」と聞かれたので「まぁ、そうなんだろうね」と曖昧に肯定する。それから、ついうっかり、本音がぽろりと零れてしまう。
「だけど、あんなに怒ることじゃないと思う」
言ってしまってから、しまったと顔を顰めた。ジョージは思った通り、殊勝な顔をしているが、間違いなく、楽しんでいる。
ジョージはうんうんと、親身になっている風にして頷いた。
「確かにマリの態度は酷いな。だが、あまり気にするなよ。彼女、君みたいな紳士に追いかけられて、舞い上がっているだけさ」
とありていの慰めを口にして、紅茶を一口含む。チルチルの顔色から、彼がマリにうんざりしていることを察知したのだろう。ジョージはぐっと身を乗り出して、ちょいちょいとチルチルを手招いた。チルチルが仕方なく上体を倒すと、いかにも親密そうにジョージはチルチルの耳に唇を寄せた。それにしては、声を潜めるわけでもなく、大きな声で話している。
「それにしても、よく付き合ってやれるよな。あんな、才女気どりで可愛げのないブスのご機嫌とりなんて。たいしたことない女の癖に、不相応に気位が高すぎる。いくら婚約者だって、僕ならごめんこうむるよ。君って本当、まめだよな。あっ、なるほど。それが、女性に好かれる秘訣……」
調子よく話していたジョージが、ぴしりと凍りついた。チルチルが、思いっきりテーブルの足を蹴飛ばしたからだ。
ジョージはぱっと上体を起こすと、のけぞり気味になってチルチルに訊いた。
「ど、どうしたんだ、チルチル?」
チルチルは紅茶の残りをぐいと煽ると、カップをソーサーに戻した。もう大きな音をたてたりしない。ジョージを黙らせることは出来たし、何より、今、彼は怯えている。
チルチルはジョージを見つめた。そうして、語勢が荒くならないように注意しながら、噛んで含めるように言った。
「君が誰の悪口を言おうと君の自由だ。だが、マリの悪口は絶対に、僕のいないところで言ってくれ。本気で嫌だ」
最近、マリのことばかり考えているせいか、喋り方がマリのようになってしまっている。チルチルは溜息をひとつ零して、ふるふると頭を振った。
ジョージは途方にくれたように、びくびくとチルチルの様子を窺っている。世渡り上手のジョージは、高慢ちきな学友がこんな態度をとったとき、どう接すればいいか心得ている筈だ。
しかし、チルチルが相手では勝手が違うらしい。当然だろう。チルチルは今まで、こんな乱暴に友人の話を遮ったことは一度も無い。常に穏やかで微笑を絶やさないため、影で「機械仕掛けの紳士」と渾名されていることも知っている。
普段のチルチルなら、絶対に犯さないミスを犯した。それもこれも、マリのせいだ。とチルチルは歯ぎしりした。
ジョージはマリに我慢出来ないとうんざりしているチルチルに調子を合わせようとして、マリを悪く言ったのだろう。あの言い方だと、常日頃からマリを嫌っているのかもしれない。そうだとしたら、ジョージの気持ちは痛いほどわかる。チルチルだって、あんな強情な女は嫌だ。
だがしかし、ジョージが言うところの「たいしたことのない女」を振り向かせることが、チルチルには出来ないのだ。マリが「たいしたことのない女」ならば、チルチルもまた、「たいしたことのない女を振り向かせることの出来ない程度の、たいしたことのない男」ということになってしまうではないか。
その理屈が、チルチルのプライドを傷つけたのである。
(だが、だからと言って、怒る程のことじゃない。あーあ、もう。俺、なにやってんだろ……)
項垂れるチルチルは、ジョージが素っ頓狂な声で呼んだ名に過敏に反応した。
「……マリ!?」
ジョージに倣い扉に視線を向けると、扉をほんの少し開けて、その隙間からマリが此方を覗いていた。
なんて行儀の悪い女だと呆れる場合ではない。チルチルは天井を仰いだ。
(うそだろ……最悪のタイミング。まずいぞ。マリならきっと、俺がジョージと一緒になってマリの影口を叩いてたって、思いこむに決まってるんだ)
チルチルは萎えそうになる気力をなんとか振り起こして、のろのろと席を立った。
「マリ、あのさ……」
チルチルが近づくと、マリの微妙に焦点のずれた目が、はっと見開かれる。マリはぴょんととび上がると、踵を返して駆け出してしまった。
「マリ、待って! 話を聞いてくれ!」
チルチルは慌ててマリの後を追いかけよとした、が。マリがご丁寧にも扉を閉めていったお陰で、チルチルは顔面をしたたかに扉に打ちつけ、悶絶する羽目になった。
「だ、大丈夫かい?」
恐る恐る声をかけてきたジョージの心配も、今度ばかりは本当のものだっただろう。鼻が折れたかと思うくらい、痛かった。
 




