彼を嫌うわけ2
ダオン伯爵が顔色を変える。
「マリ、やめなさい。今、その話は関係ないだろう」
「いいえ、お父様。チルチル様は聡明なお方だもの、きっとよく覚えておいでだわ。ねぇ、チルチル様。ジョシュアは、あなた方と同じ貴族学校に通っていたのですけれど、第三学年に上がる頃、退学してしまいました。同窓生にむごい目に合わされて、耐えかねて」
「やめなさい、マリ。そんな恥ずかしい話、チルチル様のお耳に入れることではないだろう!」
とうとう、ダオン伯爵が声を荒げる。マリはびくりと肩を竦ませたが、胸の前で両手を握り合わせると、自身を鼓舞するように声を大きくした。
「何が恥ずかしいと言うの? ジョシュアが気持ちの優しいひとだから? 苛められても仕返しが出来ずに、だからと言って誰を責めることも出来ずに、自分を責めて責め抜いて、心を壊してしまったから? それが恥ずかしいって、お父様はそんな酷なことを仰るのですか?」
マリはチルチルを正面から見据え、語気鋭く言い放った。
「チルチル様は、御存じではないのでしょうね? チルチル様のような立派な方が、ジョシュアのような可愛そうなひとを、見殺しにする筈が御座いませんもの。ぞっとしませんこと? あの学校には無抵抗の者を嬲り者にした卑劣漢が、のうのうとのさばっているのですわ。もしかしたら、思いがけず近くに潜んでいるのかもしれません。天使の皮を被った悪魔が」
「マリ、つまらない話はよせと言っている!」
チルチルは、苦虫を噛み潰したようだった。ダオン伯爵の様子から察するに、マリのみならず、ダオン伯爵も知っているらしい。ジョシュア・カールストンをマリ曰く「嬲り者にした卑劣漢」の中に、チルチルが含まれることを。
ダオン伯爵はものすごい剣幕で怒鳴り付けてマリを黙らせると、とりなすように曖昧な微笑みを浮かべ、意味のない薄っぺらな賛辞をぽんぽんとチルチルへ放ってよこした。そうすることで、娘の失言を隠そうとしているようだ。
しばらく、ダオン伯爵は一人で喋り倒した。そうして、喋っているうちに落ち着きを取り戻していった。
「これ程の美男子ならば、美の女神も放っておかないでしょうな。聞いているか、マリ。婚約者のお前がそうやってもじもじして恥ずかしがっていたら、他のレディたちがこれ幸いとチルチル様を取り囲んでしまうだろう。社交界にいるのは、婚約者がいるからと言って遠慮してくれるような、優しいレディばかりではないんだぞ。これほどの紳士だ、結婚した後とて引く手数多だろう。婚約したからと言ってお前、うかうかしてられん」
ダオン伯爵が冗談めかしてマリを窘めると、マリはぶっきらぼうに言った。
「ごめん遊ばせ、私は変わり者ですから」
チルチル様のような御立派な紳士には、興味が御座いませんの。とまでは、流石に言わなかったが、彼女の態度が如実に語っている。
これはまずいと、ダオン伯爵はようやく気がついたらしい。引き攣った笑顔でチルチルに暇乞いをすると、マリを急き立てて立ち去ろうとする。
エントランスまで見送りに出たチルチルは、去りゆくやせぎすの後ろ姿を呼びとめた。
「レディ・マリ」
呼ばれたマリより、ダオン伯爵が驚いて、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。チルチルは
「レディ・マリともう少しお話がしたいのです。大変申し訳ないのですが、伯爵はお先に馬車にお戻り頂けませんか。お時間はとらせません。すぐに済みます」
と丁寧に頼んだ。
ダオン伯爵は逡巡したが、断りきれずに承諾する。何度も振り返りながら馬車の方へ歩いて行った。
伯爵が馬車に乗り込んだのを見届けたマリが、ゆっくりと振り返る。マリの険しい双眸を、チルチルは正面から射ぬくように見返すと、唇を開いた。
「ジョシュアのことは、よく覚えています。彼と僕は、似たような境遇に育った者同士だった。ですから、彼が挫けてしまって、とても残念でした。今になっても、時々考えます。どうして彼は、闘うことが出来なかったんだろうと」
マリは痛みに堪えるように眉を顰めた。短く調息すると、噛みつくように言った。
「闘って誰かを傷つけてしまうくらいなら、痛いのも苦しいのも、自分が我慢すればいい。そんな風に考える、儚く優しい人間もいるのです。お強いあなたにはご理解頂けないでしょうけれど」
チルチルは微笑した。マリがぎょっとして目を瞠る、悪い微笑だったのだと思う。しかし、それを失策だとは思わない。遠慮なく言いたいことを言ってやろうと、ダオン伯爵を追い払ったのだから。
チルチルは嘲りも露わに言い放った。
「ああ、わからないね。この国に生れた男は皆、ハルメーンの遺志を継ぐ者だと僕は考えている。困難に立ち向かい、闘う。それがハルメーンの誇りで我々の義務だ。高貴なる義務を全うしない男に、貴族の紳士である資格はない。彼は退学して正解だったよ」
ジョシュア・カールストンのことを、チルチルはよく知っていた。娼婦の息子だと苛められていたチルチルを、影からこっそりと手助けしようとしていた、たった一人の少年だった。
ジョシュアは、チルチルが閉じ込められたトイレの個室の鍵を外側から開けたり、汚水にまみれたチルチルに何も言わずタオルを差し出したり、人目を忍んでは、チルチルの世話を焼こうとしていた。
ジョシュアはカールストン男爵が使用人に生ませた子供だ。当然の如く、学内の地位は限りなく底辺に近く、腹違いの兄のジョージにも目の敵にされていた。
ジョシュアは恐らく、己と似たような境遇のチルチルに親近感を抱いていたのだろう。だからこっそりと手を貸し、支えとなろうとした。
そんなジョシュアが、チルチルは大嫌いだった。
周囲の目があるときは、自分に被害が及ばないように息を潜めて隠れる。そして人目がない時だけやって来て、優しく手を差し伸べる。あさましい偽善が、どうしても我慢ならなかった。
ジョシュアのやったことは、慈悲深い己に酔う為の、自己満足に過ぎない。自分より弱く可愛そうなチルチルの信頼なんて、ちょっと優しくしてやれば簡単に勝ち取れる。そう信じて疑っていない愚鈍で傲慢なジョシュアが、当時のチルチルは誰よりも憎かった。
だから、自分の身代わりにジョシュアを差し出すことに、何の抵抗も無かった。それどころか、復讐の愉悦すら感じていた。ざまあみろと、大声で哄笑してやりたかった。
チルチルの言葉に激昂したマリが、手を振り上げるだろうとチルチルは予想していた。しかし、予想していた激情は叩きつけられない。マリは胸許で両手を白くなるまで握り合わせている。
チルチルはおや? と首を傾げた。マリが小さな声でぼそぼそと何か話し出したので、腰をかがめて耳を寄せる。辛うじて聞き取れた。
「ジョシュアは正気でいた頃、私が彼の苦しみの理由を、何度訊ねても、誰の名前もあげなかったわ。心を壊してしまった後だって、魘されてやめてくれと泣き叫んだけれど、恨み事を言ったりしなかった。あなたにもね。どうしてか、あなたにわかる?」
「僕は神様じゃないから、他人の心や苦しみの理由なんて、わからないな。ただ、今、君のお父さま苦しめているのは、間違いなく君の頑なな態度だろうね」
チルチルがまぜっかえすと、マリはたおやかな伯爵令嬢というより、野良猫の俊敏さで手を振りあげる。しかし、振り上げた右手はチルチルの頬を張ることなく、左手に胸元に引き戻された。
「カイと初めて会ったとき、ジョシュアの姿が重なったわ。カイはジョシュアと同じ、優しい子よ。私はあの時、誓ったの。絶対に、カイをジョシュアのようにはさせないって」
マリは顔を上げた。緑色の双眸が涙でうるみ、シャンデリアの光を跳ね返してきらきらと輝く。
「あなたはひどいひとよ。あなたと結婚するなんて、本気で嫌」
チルチルはすぐには言い返せなかった。今更別に、嫌われたことがショックだったなんてことはない。
ただ、すぐそこに見た目の深いグリーンに、一瞬、心を奪われてしまった。
すぐに我にかえったチルチルは、一瞬の沈黙を誤魔化そうと、こどもっぽくマリを小バカにした。
「貴族の結婚は、野良猫みたいに、自由に好き勝手して良いものじゃない。君も貴族のご令嬢だろ? 聞きわけ給えよ」
マリはチルチルが落としたほんの少しの沈黙になど、さらさら興味がないらしい。いまわしげにチルチルを睨み上げて、溜息まじりに吐き捨てた。
「あなたって、すごい野心家ね。ある意味、尊敬するわ。野心の為なら、いけすかない女を妻にすることに、なんの躊躇もしないんですもの」
「それは違うな」
チルチルはマリの顎を掴み、掬いあげた。きょとんとするマリが悪態をつく隙も与えず、年齢の割には豊富な経験で培った早技でマリのキスを盗んだ。キスは一瞬、触れるだけの可愛いもの。
ぽかんとしているマリのあどけない顔と目睫の距離で、チルチルはウインクしてみせた。
「僕は君みたいな女の子、嫌いじゃないぜ。警戒心の強い野良猫みたいで、可愛いよ。刺激的なことを心待ちにしているお嬢様たちより、おとし甲斐があって良い」
マリの顔が瞬く間に真っ赤になったかと思えば、次の瞬間、エントランスにはマリがチルチルの頬を力いっぱい張る、甲高く破裂したような打音が響き渡った。