出会いは最悪
カイは殉教者のように静かな悲しみを背負って、硬く閉ざされた扉の前に跪いている。忠実な犬ならばいじらしいが、知性のある人間がこうしているのは、単に怠惰で無気力だ。許しを得たいのなら、もっと能動的な方法が、或いは効率的な方法が、いくらでもある。
「よっぽど床に這いつくばるのが好きなんだな、カイ。神様がご覧になっていれば、次に生れ変わるときはきっと、お前を痴れた這い虫にしてくださる」
カイは彼が近寄っても気がつかず、彼が毒付いてからやっと、はっとして彼を見上げた。大げさにびくついて目を伏せたカイは、前髪の影に隠れ窺うように彼をちらちらと見上げてくる。物言いたげなカイの様子から、彼はカイの気持ちを察したが、素知らぬふりで小首を傾げた。
「どうした、カイ? 言いたいことがあるのなら、言ってみろよ。……なんだ、またお得意のだんまりか?」
「お、お兄さま……さっきは、口が過ぎました。あんなひどいこと、言ってはいけなかった。お兄さまのお母上は、お優しい、立派なお方でした。ごめんなさい……」
「謝るなよ、偽善者」
カイが鞭打たれたように竦み上がる。彼は「心の底から悔いている」ことが明白である打ちひしがれたカイを眼下に蔑視した。
「あの女のヒステリーは異常だと思うが、お前に辛くあたる気持ちはわからないでもない。お前を見ていれば誰だって、むしゃくしゃするだろう。心にもない癖に、好いこになろうとするの、やめてくれないか。健気なふりをされるのが、一番癪に障るんだ」
カイはしばらくの間ぽかんとしてから、大きく目を見開いた。指摘されたが、まるで心当たりが無いのだろう。自覚が無いのだから、なおさら性質が悪いのだ。
継母は嫌な女だ。しかし正直者だ。ある意味では正々堂々としていて、自身のあさましさを隠そうとしない。隠すだけの頭が無いとも言いかえられるが。
しかしカイは違う。カイは表向きには、やさしいふりをする。カイは母親とは違い、物の道理を弁えていると、彼も昔はすっかり騙されて、そう思いこんでいた。
貴族学校に入学した彼が家をあける間、彼の妹はいつの間にかカイと仲良くなっていた。面白くはなかったが、彼は無粋に二人を引き離そうとはしなかった。しかし、妹の信頼は無残に裏切られてしまった。
メイドから聞いたところによると、カイは彼の妹と屋敷を探検した日のディナーの席で、継母に報告していたそうだ。彼の妹が如何に無学で無教養で、公爵家にふさわしくない呆れた娘であるかと。それを聞いた継母が満足そうに勝ち誇るのを、あの荷駄を引く家畜のような愚鈍な目を細めて、カイは嬉しそうに見ていたと言う。
伝え聞いたとき、彼は腸が煮えくりかえった。優しいふりをして得た信頼を平気で裏切るカイのやり口は、痛烈な罵倒よりも残酷なものだ。
何処へでも連れて行ってくれるカイのことが大好きだと、妹は同じ年頃の子より少し拙い言葉で、一生懸命に彼に話していた。ひとよりも言葉が遅れていた妹が、カイと遊ぶようになってから、見違えてお喋りになったと、母も喜んでいたのに。
思い返すだけで猛烈に腹がたつ。カイは、彼の怒気に圧倒され、しどろもどろになりながら言いわけをしようとした。
「お兄さま、ぼ、ぼくは、そんなつもりじゃ」
「へぇ? じゃあ、どんなつもりだったっていうんだ?」
「ぼくは……ぼくは、ただ……ひどい事を言ってしまったと、心から反省して……」
「反省して? 謝って? それでどうなる? お前に心にもない謝罪をして貰ったところで、僕はちっとも嬉しくないってことが、わからないのか? それとも、お前はそれを弁えた上で、僕に謝ろうというの?」
「ゆ、許して頂けなくても……謝らないと、いけませんから……」
「そうしないと、お優しいカイ様のお気がすまないんだろう? それは自己満足だよ、カイ。そんなことも、わからないんだな。お前がどうして、たいして成果もあがらない努力を続けるのか、わかったぞ。それでもひたむきに頑張る、健気な自分に酔っているからに違いないね。夜な夜な、自己憐憫の涙で枕を濡らしちゃいないか?」
言葉に詰まるカイの前にしゃがみこみ、彼はカイの頭に手を置いた。項垂れるカイの頭髪を鷲づかみ、顔を上げさせる。揺れる瞳と視線を会わせて、にっこり微笑んだ。
「お前って奴は本当に、グズでとんまな能無しだな」
カイの唇が戦慄く。瞳の輪郭を、湧いた涙がぼかした、その時。凛とした女の声が、廊下に響き渡った。
「おやめなさい!」
声のした方に視線をうつす。廊下の突き当たりに、見知らぬ少女が肩を怒らせ立っていた。
まず目についたのは、癖が強い錆色の頭髪だ。きちんと結いあげていても、ところどころ解れてしまっている。
さして小顔と言うわけではないが、顔のパーツは全てこぶりで、のっぺりとしためりはりのない顔立ちをしている。雀斑と、正義感に燃えた緑色の双眸が際立っていた。
赤毛の少女は淑女らしからぬ大股で廊下を渡ってやって来る。彼が少女の気迫に気圧されて一歩後ずさると、少女はカイの隣に躊躇いなく跪き、気遣わしげにカイの顔を覗き込んだ。
「カイ、大丈夫?」
どうやら、カイの知り合いらしい。それなりに親密な仲のようだ。仕立ての良い深緑のドレスを着こなせているかどうかは別にして。身形からして、どこぞの御令嬢だ。それにしては、随分と無作法ではあるが。
彼は一歩ひいたところから、寄り添う二人を眺めてみた。少女は、カイよりも年上だろう。彼と同じ年頃に見える。大人しそうな顔立ちをしているが、内面は間違いなく外見を裏切っている。
彼はひとつ咳払いをして、カイを気遣う少女の注意をひいた。
「ああ……失礼。ちょっと、よろしいですか?」
彼はちょっと言い淀んでしまった。少女の視線が錐の先端より鋭かったからだ。彼は内心、かちんときた。
(なんだ、この女。人の宅にずかずか上がり込んどいて、この態度かよ。どう考えても無礼だろうが)
それでも彼は悪魔で紳士的に対応しようと心がけ、控え目に微笑んだ。
「お初にお目にかかります、レディ。僕はカイの兄で、チルチル・メーテルリンクと申します。どうぞ、お見知りおきを」
彼が ――― チルチルが名乗り一礼すると、少女は仏頂面で立ちあがり、カーテシーもせずに腰に手をあてた。
「はじめまして、チルチル様。お噂はかねがね伺っております。お陰さまで、噂話が如何に無責任で当てにならないものなのか、痛感しましたわ」
少女のつっけんどんな言い草に、チルチルは怒りや呆れを通り越して、可笑しくなってきた。
(おやおや、随分と嫌われたもんだ。まさか、マジでカイの女なのかね?)
カイは信じられないものを見るような目で少女を見上げている。茫然として少女に訊ねた。
「……ど、どうして、ここに……?」
「これ、間違って持ち帰ってしまっていたから、届けに来たの。提出は明日までだと言っていたでしょう?」
少女は皮羊紙を筒状に丸め紐で留めたものを鞄から取り出し、カイに手渡すとにっこり微笑んだ。あまり美人ではないが、笑うとそれなりに見えるものだと、チルチルはうっかり関心してしまう。
小心者のカイには、こういう姉ご肌の女が合うのかもしれない。なんて俗っぽいことを考えているとは気取られないポーカーフェイスで、チルチルは苦笑した。
「恥ずかしい兄弟喧嘩をお見せして、申し訳ない。カイ、お客人がいらっしゃるなら、そう言ってくれないと困るよ」
話しを振られたカイの肩が強張る。少女は仔猫を庇う母猫が毛衣を逆立てるように、カイを庇ってチルチルをきっと睨みつけた。
「兄弟喧嘩ですって? 私には、あなたが一方的にカイを苛めているように見えましたわ。それも、昨日や今日に、始まったことではないでしょう」
「苛めるなんて、そんな。確かに、僕にはかっとなると、語気が荒くなる悪癖があるかもしれません。酷い言葉が口をついて出て来てしまうこともあるのかな。ですが、それは決して本心ではないのです。カイ、そこのところは、お前もわかってくれているよな?」
ぎくりとしたカイは、蚊の鳴くような声で
「は、はい、お兄さま……」
と答える。誰がどう見ても無理やり言わされているが、言質をとったもの勝ちである。
少女は怯えきったカイを痛ましそうに見つめている。振り返ると、チルチルを見る目は座り、怒りから雀斑が散った頬が紅潮している。いけしゃあしゃあと罪を認めず、泰然自若とした体を崩さないチルチルへ対する苛立ちが感じられた。
少女は深呼吸をしてなんとか心を落ち着かせると、鋭くチルチルを揶揄する。
「それは、お気の毒ですわね。少し意にそまないことがあったからと、我を忘れて取り乱されてしまわれるなんて、お心を病んでしまわれているのではないかしら? 私の父のご友人には、優秀なお医者様が大勢いらっしゃいますの。父に相談して、御紹介してさしあげましょうか?」
不覚にも、唇の端がひきつった。
(この女……!)
チルチルはすぐに完璧な笑顔をつくりなおしたが、つい言葉がとげとげしくなる。
「御心配して頂き、どうもありがとう。こうして親しくお話をさせて頂いているのだから、そろそろ、貴女のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうね?」
少女は腰に当てていた手を臍の前で合わせた。低い鼻をつんと上向かせると、慇懃無礼に言い放つ。
「申し遅れました。私はマリ・ダオン。セントラル貴族学校付属女学院第七学年生です。カイ様とは学校で親しくさせて頂いておりますの」
チルチルは虚を突かれた。意図せず、言葉が唇からこぼれ出す。
「君が、マリ・ダオン……僕の婚約者?」
「お互いにとって不幸なことにね」
マリの眼差しは雄弁で、最悪の初対面を果たした婚約者を軽蔑しきっている。もしも、婚約破棄がマリの一存によって行えるのならば、彼女は間違いなくそうしただろう。
重く凍りつく場の空気。そんなことに構わず、カイは弾かれるように立ち上がり、ひっくり返った声で叫んだ。
「マリ……本当なの? お兄さまと、婚約って……?」
マリはくるりと踵を返しカイに向かい合う。チルチルにはその表情はわからないが、つりあげっぱなしだった目尻を下げているだろうことが、その声音から想像するに難くなかった。
「黙っていてごめんなさい。私の口から、ちゃんと話すわ……場所を変えましょう」
マリはカイを促して歩き出す。カイが戸惑ったような視線を肩越しに投げかけて来て、チルチルは我に返った。
「ちょっと待って、君は……」
マリはぴたりと歩みをとめた。冷静になったのだろう、肩越しに振り返るなんて無作法はせずに、体ごと振り返る。行儀よくカーテシーをするマリと見つめあい、チルチルは息をのんだ。
「それでは御機嫌よう、チルチル様」
後になって考えれば、マリがあんなにもチルチルを敵視していたのは、カイからチルチルのことを聞いていたからだろうと、容易に想像がつく。本来ならば、去っていく二人の背を見送りながら、女に泣きつくなんて情けない奴だとカイを嘲笑い、願っても無い婚約に暗雲がさしたとカイを恨んで歯ぎしりしている筈だ。
けれど、彼は何も考えられなかった。別れ際、カイ贔屓の不遜な女の、強い意志を宿した不器用な顔が、脳裏に焼き付いていた。




