まるで、悪夢みたいな
努力が実るまで要した時間は、決して短くはなかった。けれど、愛する母と妹の為に、一心不乱に研磨研鑽に励む彼には、冬の日々は瞬きの間に過ぎ去ってしまったように感じられた。
父は、十一歳になった彼を寄宿制の貴族学校に入学させることに決めた。入学手配は、彼が知らない間に済まされていた。彼はもちろん、反発した。母と妹を、性悪魔女が支配するこの魔窟に残していくなんて、考えられない。彼が立派な紳士を志すのは、一重に母と妹の為。母と妹と引き離されては本末転倒である。
しかし案の定、父は彼の言葉に耳を貸さない。父は彼に決定事項を伝えたのであって、相談はしていないのだ。彼は断固として拒否し、継母は猛反対した。彼と継母の利害が一致したのは、過去にも未来にも、この一度きりだっただろう。しかし、父が翻意することはなく、二人の不可抗力による結託は徒労に帰した。
どうにかして、入学を回避できないものか。頭を悩ませる彼は、思いもよらぬ逆風を受ける。あろうことか、母が入学を勧めてきたのだ。戸惑う彼の強張った肩を抱き、母は語りかけてきた。
「お前は立派な紳士になるんだろう? その為に、ずっとがんばってきたんだろう? 貴族学校は、未来のハルメーンを担う紳士を育成する、すごい学校だって聞いたよ。願ってもないことじゃないの」
母は彼の努力をちゃんと見てくれている。しかし、彼が紳士を目指すのは、悪魔で手段なのだ。何より重要である目的を、母は気付いてくれない。彼は失望していた。
(顎で人をこき使ってふんぞりかえりたくって、おれが偉くなろうとしてるとでも思ってんのかな? 母さんは何もわかってない)
母は椅子に座る彼の右隣に跪き、彼の顔を覗き込もうとする。彼はついと顔を背けた。
何にかえても守ろうと誓った母に裏切られたと感じて、傷ついていた。彼は頑なに沈黙して、膝の上で握りしめた拳を睨んだ。その拳に、小さく柔らかい手が置かれる。
妹が母の真似をして、彼の膝先に跪いていた。マシュマロのように柔らかい頬を彼の膝にのせて、彼の震える拳を解こうと腐心している。彼と目が合うと、大きな目をくりくりと丸くした上で、眉を顰めた。
「ぎゅってしちゃだめよ。おててがいたいいたいって。かわいそう」
彼はぽかんとして妹を見つめた。妹のなすがままに拳を開くと、掌に薄らと白い爪痕がついている。妹の温かな手でさすられると、すぐに消えた。妹は満足そうに小さな乳歯を見せてにっこり笑う。
母は無邪気な妹の髪を撫でて、掌をしげしげと見つめる彼の髪も同じように撫でた。
「お前が戻るまで、この娘は母さんがしっかり守るから。お前は何も心配しないで、お勉強しておいで」
彼はぱっと顔を上げた。母の能天気な笑みを見ると、苦いものが胸からせりあがってきた。
「それじゃあ、母さんのことは誰が守るのさ」
彼は真剣に言ったのに、母はぷっと噴き出した。彼はむっとしたけれど、母はごめん、ごめんと言いながら、まだ笑っている。母は拗ねてしまった彼の頬を両手で挟み、額と額を合わせた。
「お前は本当に優しい子ね。一人で背負いこもうとしなくていいんだよ。お前がそう想ってくれているのと同じように、母さんだって、お前たちを守りたいの」
母はそう言うと、妹を抱きあげて彼の膝にのせた。きゃっきゃとはしゃいで足をばたばたさせる妹は、はしたないが可愛い。妹は彼の胸に凭れかかり、首を逸らして彼を見上げ、にっこりと微笑む。目に入れても痛くないとはこのことだ。
母は彼と妹を纏めて抱きしめた。
「お前だけが頑張ることじゃない。私たちは家族だよ。助け合って、支え合って生きていけばいいの」
「おかあさん、ぎゅってしないで! くるしぃ」
母の胸に顔を埋めた妹がむずがる。母は声を上げて笑い「お母さんはお前たちのことが大好きだから、ぎゅってしたくなっちゃうの。ぎゅーって!」とますます力強く彼と妹を抱きしめた。
彼は貴族学校に通うことになった。身分があることで好き放題してきた貴族の子弟たちの怠惰や驕慢さを正すことを目的とした、上下関係の厳しい規律だらけの生活で、新入生たちの鬱憤は、たちまち破裂寸前まで貯めこまれた。
教師は厳格に、上級生は理不尽に新入生を鞭打つ。冗談ではないと、彼は思った。教養と品格を身につける為に、断腸の思いで母と妹を残してまで、やって来たのである。痛い目を見る為ではない。
彼の下町の訛りと粗野な振る舞いは、鞭打ちの格好の餌食になる。貴族社会に張り巡らされた情報網に、彼の出自はとうにひっかかっていて、皆が彼を見下していた。同窓生さえ、彼は自分たちよりヒエラルキーの下のものだと認識して、彼を虐げた。
下町の訛りを矯正しても、所作に気をつけても、体にも持ち物にも、傷と汚れが絶えない。トイレの個室に閉じ込められ、汚水を頭から被った彼は、これでは教養も品格も身に付けることなど出来ないと悟り、爪の剥げかけた五指を握りしめた。
これまで母と妹以外の人間とは、必要最低限の関わりしかもたなかった彼が、ここに来てはじめて、処世術を身につける必要性に迫られたのだ。
必要なのは、観察眼と想像力だ。周囲の状況や相手の表情、仕草をつぶさに観察し、嗜虐心の矛先が自分から逸れるように誘導する。彼は試行錯誤を繰り返し、何度も痛い目に合いながら、その術を体得していった。もっとも簡単なやり方は、彼の身代わりになる嗜虐の的を用意することだ。彼は蝙蝠のように狡賢く立ち回った。鬱憤を晴らすことが出来るなら、標的が誰であろうと、どうなろうと、誰も構いやしないということを、彼は学んでいた。そして、サディスティックな暗い悦びを共有することで軽薄で薄情な絆が結ばれることも。
学年がひとつ上がる頃には、彼は第二学年のヒエラルキーにおける最上位に食い込むようになった。必要に迫られ培われた観察眼によって、支配階級の学生たちに気に入られたのだ。傲慢な少年たちのあけっぴろげな顔から感情を読みとることは、その頃の彼にとっては造作もないことだった。
こうして、彼は当初の目的である、学びに専念することが出来るようになった。彼の謀略で苛めの犠牲になり、退学に追い込まれた幾人の学生もいたが、良心の呵責に苛まれることはなかった。彼は最底辺から這い上がった。今の境遇に不満があるなら、自分の力で這い上がればいいだけのこと。彼は退学した少年たちを、それが出来ずに、尻尾を巻いて実家に逃げ帰った負け犬とみなして、軽蔑していた。
選民意識の塊である支配階級の少年たちと行動を共にするようになって、内心鼻白むことも多かったけれど、それをおくびにも出さずに、彼は友好的に振る舞った。自己中心的な少年たちの群れの中で、親切で温厚でよく気がつく彼は自然と慕われるようになり、いつの間にか、グループの中心にいた。
彼は単純な少年たちをバカにしていたが、血統証つきのサラブレットたちから学ぶことは多かった。彼は勉学とマナーを学ぶとともに、貴族社会の不文律をも学んでいった。
学校生活は順風満帆だった。何もかもが思い通りに上手く運んでいて、彼は得意になっていた。進級を重ね、監督生に選ばれることは確実。生れて初めて経験する「持て囃される」境遇に、認めたくはないけれど、浮かれていたのだろう。
だから、虫の知らせなんてものは微塵も感じなかった。それはまさに青天の霹靂だった。
第六学年の進級を控えた冬の日。長期休暇に帰省した彼は、もぬけの殻になった母と妹の部屋を前に愕然としていた。彼の荷物を預かった召使は、気まずそうに母の死を彼に伝えた。明るい窓の外で、白鳥が一斉に飛び立った。
彼は一目散に父の許へ急いだ。召使の制止を物ともせず、ノックもせず、父の書斎へ踏み込んだ。
『母と妹は何処です!? 戻ったら、部屋がもぬけの殻で、母も妹もいなくて、家具さえなくなっていたんです。あろうことか、アロンソは、母が亡くなったと……! 嘘ですよね、母が亡くなったなんて。ねぇ、嘘でしょう? あり得ない、だって、去年の冬に会った時は、あんなに元気だった! アロンソが嘘をついたんだ。そうなんでしょう! アロンソ、なぜこんなひどい嘘を吐く? まさかお前たち、また性懲りもなく母に嫌がらせをしていたんじゃないだろうな! くそっ、もう我慢ならない。お父様! かかわった奴らを全員、屋敷から追い出してください! それが出来ないのなら、いいですか、僕らはここを出て行きます! せっかく僕に投資してくださったのに、残念ですよ、本当にね!』
彼は感情的になって喚き散らした。父は書類に、滑らかに羽根ペンをはしらせている。業を煮やして付き従う召使に食ってかかる彼に、父はようやく視線をむける。父は無味乾燥の無表情で、淡々と言った。
『先月のことだ。お前の妹は難しい病に犯されていたので、知己の医者に預けた。母親は自ら命を絶った』
彼の痩身から、一瞬で血の気がひいた。父の言葉の意味が理解できない。心が理解することを拒否している。絶句する彼に、父は続けて言った。
『その病には名がない。一度罹れば取り除く術はなく、じょじょに体を蝕まれ、やがては人ではなくなる。あの娘の話を聞く限り、濠で野鳥と戯れていたときに感染したらしい。妹に野鳥と戯れる遊びを教えた自分のせいだと、お前たちの母親は自分を責めて、儚い人になってしまったのだろう』
胸が苦しい。息が出来ない。朦朧とする意識をなんとかつなぎとめ、彼は喘ぐように息を吸い込んだ。
『……妹は何処です。妹に、会わせてください』
『それは出来ない』
『感染の恐れがあったとしても、構いません! 妹に会わせてください! あの子はひとりで、どんなに心細いだろう。一人でそんな、訳のわからない病と戦わせることは出来ません。お願いします、どうか……』
『あの奇病は、女性にしか罹らない。動物の胎内に寄生するものだからだ。だが、会わせることは出来ない』
『何故です! なんなんですか、その病は! 人ではなくなるって、どういうことなんだ!』
父はゆるゆると頭を振った。
『説明することも出来ない。わからないことが多すぎるのだ。その為、外部との接触は一切禁じられる。だが幸運なことに、あの娘はまだ幼い。未発達な体では、発症まで猶予があるそうだ。我が友で高名な医師であるオズは、手を尽くすと約束してくれた。オズの研究で、この病の治療法が発見される可能性もある。今は待つしかない』
父は席を立つと、彼の肩を労わるように掴んだ。
『お前に知らせなかったのは、お前には学業に専念して、立派な人物になって欲しいと願う、お前の母親の遺志を尊重した為だ。お前はこれまで通り、研磨研鑽を重ねなさい。それが、亡き母と病床の妹の為になる』
父は初めて父親らしく振る舞った。慣れないことをする手は、冷たく硬く、猛禽の鉤爪を思わせた。