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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
裏側の一話「彼の記憶」
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過去の決意

いつもおどおどしているカイが見せた気概は、彼の目にひどく不遜で不快なものとしてうつった。叩きのめしてやりたいと言う衝動のままに、彼は唇を笑みのかたちにゆがめた。


「自慢のつもりか? そんなこと、しかるべき教育を受けた子女なら、お前の年頃にはとっくに知っている簡単な計算だ」

「ぼ、ぼくは」


 カイは、彼の険のある眼差しにたじろいで後ずさりしたが、踏みとどまった。縋るように鞄を抱きしめている。カイは歯の根が合わなくても、なんとか反論の言葉を絞り出した。


「き、昨日、まで……僕は、その、あの、て、定理を……ちっとも、り、理解できて、いません……でした。でも、今日は、理解できました。今のぼくは、昨日のぼくより……多くを学んでいます」


 カイはそう言って、彼の目を真っ直ぐに見返した。睨み返した。


「確かにぼくはばかかもしれない。でも、たとえ蝸牛のあゆみのようでも、進歩はあります。進歩がある限り、ぼくは今より、より良い人間になろうと思います。その為に努力していたい」


 彼とカイは無言で睨みあった。彼は身に染みついたアルカリックスマイルを崩さなかったが、腸は煮えたぎっていた。

 

「わかったよ、カイ。うるさく言って、悪かったね」


 彼があっさりと折れたのが予想外だったのだろう、カイの肩から力が抜ける。それを見計らって、彼は貼り付けた笑顔を保ったまま毒づいた。


「精々、がんばると良い。がんばればがんばるだけ、己の無力を思い知ることになるだろうけどな。だが、それもいいだろう。無駄な努力をするゆとりが、恵まれたお前にはいくらでもあるんだろうから。だがなぁ、カイ。僕はいたたまれないよ。あのヒステリックな年増に、お前が怒鳴りつけられるのを見るのは」


 カイの顔がさっと青ざめる。彼は大げさに嘆いて見せた。


「ひどい女だ。お前をそんな風に生んだのは、自分の癖に。認めたくないんだろうな。能無しの子は能無しってことを」

「お母さまを侮辱するな! ふしだらな女の息子の癖に!」


 散々喚き散らしてから、怒りのあまり青ざめていたカイの顔色が、とうとう土気色になる。言葉が過ぎたと、思っているのだろう。カイには、常日頃、継母とカイに執拗な嫌がらせを働いている彼にさえ、かける情けがあるようだ。そういうところが、血統の良さからくる余裕を見せつけられるようで、癇に障る。だから、それを突き崩してやりたいのだ。彼は軽く微笑んで言った。


「やっぱりね。大人しいふりをして、お前もあの女と同じことを思っていたわけだ」

「お、お兄様、ぼくは、こんなこと……」


 言うつもりじゃなかった、のだろう。思ってもみなかったとは言わせない。心にもない言葉が、咄嗟に口をついて出るわけがない。

 彼は肩を揺らして笑った。


「許して欲しいな、若旦那様。なにせ僕は下品で下劣な娼婦の子なもので。どんなに気取ったって、生れついた低俗さがどうしても抜けないんだよ。まるで、毒のようにさ」


 そう言って、彼は言葉を失っているカイと別れた。

 カイが妙に強気なのは気に食わないが、カイの本音を引き出せたことに、彼はある程度、満足していた。


(ようやく、あの性悪女の息子らしく、尻尾を出してきたな)


 彼は泥を似たようにくつくつと嗤った。どうしようもなく憤ってもいた。


(恩知らずのクソガキめが、母さんを侮辱しやがって)


 カイは知る由もないが、彼の母はカイの命を救ったのだ。彼は立ち止り、右の掌に目を落とす。花瓶の破片を強く握りしめたことでついた深い傷が、十年以上たった今でも、くっきりと浮かび上がるようだった。

 

 錯乱した彼は、生まれたばかりのカイをてにかけようとした

。彼の凶行を未然に阻止した母は、彼を抱きしめて涙ながらに言った。


「ごめん、ごめんね。優しいお前がこんなに思いつめるなんて、母さんのせいだね。本当にごめんね」


 母の腕の中で、彼は扉の向こう側の赤ん坊の泣き声を聞いた。そうして、怖くなった。母と自分を守る為に、罪のない赤ん坊を手にかけることに、一瞬前まで、彼は何の躊躇いも抱かなかった。優しい母の息子なのに、邪魔者は消せば良いだなんて、悪魔のようなことを考えてしまうなんて。


 その後の母子の悲劇は、刹那でも悪魔に魂を明け渡してしまった彼への罰だったのだろうか。そうだとしても、あまりに残酷だった。


 正妻の長男、カイが誕生して間もなく、母が体調を崩した。ひどい吐き気に苛まれていた。彼はひたすら心配していた。母の顔色が優れないのは、体調が優れないせいだと思った。

母は懐妊していた。そのことが周囲にどれ程の波風を立てたのか、彼は知らない。身籠っていることが発覚してからと言うもの、彼は夜になっても母と引き離されることなく、母の顔色も随分と良くなった。


「女の子だと思うんだ」


母は大きくなったお腹を擦りながら、幸せそうに微笑んだ。その透徹した微笑みを見上げ、こどもをお腹に宿した母親には、不思議な力があるのかもしれないと、彼は思った。母に誘われ、母のお腹に顔を寄せる。日に日に、そこに妹が居るのだと言う実感が強くなっていた。母は夢中になって妹の居所を探る彼の頭を優しく撫でた。


「生れてきたら、一緒に遊んであげてね」


彼は張り切って頷いた。

母にも妹にも内緒で、彼は大いなる意思に誓っていた。


(僕は立派な紳士になる。母さんと生れてくる妹は、僕が守る)


 彼の父は冷たい男だった。愛人と、その間にもうけた我が子が、気位の高い正妻に目の敵にされ、使用人たちにすげなく扱われても、関心がないようだった。

それでも、父は母子の衣食住を保証してくれた。彼は食べるものに困ることも、隙間風に凍えることも、娼婦たちの嫌がらせに拳を握りしめることも、目を血走らせた男の乱入に怯えることもなくなった。正妻の罵倒、上級使用人たちの侮蔑、下級使用人たちの嘲弄。それらがまったく平気だったとは言えないが、これまでの生活に比べれば耐えられる。彼は心の貧しい人間たちだと、彼らを迫害するものを軽蔑し、優しい母に寄り添うことで心の安寧を保っていた。

これからは、彼は母と妹を守り、ここで幸せになってみせる。彼は立派な紳士になりたいのだと、ろくに言葉を交わしたことがない父に打ち明け、相談した。父は拍子抜けするほどあっさりと、彼に家庭教師をつけてくれた。

家庭教師の中にも、彼の出自をけがらわしく思い、辛く当たる者がいた。しかし、彼が意欲的に学ぼうとすれば、それを拒むことは出来ない。彼らは仕事でやって来るのだから。

 無学文盲だった彼は、寝る間も惜しんで学んだ。紳士に必要な教養もマナーも、彼には持ち合わせがなかった。何も知らないまっさらな状態で、貪欲に知識を吸収していった。

辛いことは多かったが、苦では無かった。生れて来た妹は、まるで天使のように無垢な笑顔で、彼を癒し支えた。妹は片目に障害をもって生まれたが、母はショックを受けた素振りを見せなかったし、それすらも宝石のように美しいと彼は思った。

父は生れて来た妹に興味を持たなかったが、その分を補って余りあるほど、彼は妹を愛そうと心に決めていた。妹の名前は、彼が己の名を文字ってつけた。妹はまさに、彼の半身となっていた。


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