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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
裏側の一話「彼の記憶」
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腹違いの弟

彼がまだ幼く、母がまだ存命だった冬。母子には濠の黒い水面に浮かぶ白鳥にパン屑を投げ与える習慣があった。

彼は見当違いのところに餌を投げ入れてしまったり、時には白鳥の頭の上に餌を投げ入れてしまったりして、母と顔を見合わせて笑い、束の間の楽しい時間を過ごした。雪と戯れ遊んだ彼の手から濡れた手袋を外し、母は温かい息を吹きかけて彼の手を温めてくれた。照れくさいが、嬉しかった。しかし、そこに通りかかった下働きの若い男たちが母を指さし「あの悩ましい吐息!」と母をからかったので、彼は母の手を振り払ってしまったのだった。

母は苦境に屈しないしたたかな女性だったが、自身が蔑まれるせいで、息子が恥ずかしい思いをしていることを心苦しく思っていた。彼は彼で、そんな母の心遣いを心苦しく思っていた。母がここに来てから、季節を問わずに顔の下の素肌は全て隠してしまうようになったのは、肌と共に過去を覆い隠そうとしているためだと、当時の彼は確信していた。彼は自身が他人の目を気にしてしまうせいで、母が窮屈な思いをしていることを心苦しく思っていた。

 彼は心ない人々に「ふしだらな女の息子」と嘲笑されるたびに、奥歯が砕けそうなほどに屈辱を噛みしめた。いつも穏やかな笑顔で彼を迎える母が、この倍の屈辱を味わっているだろうことは幼い彼でも想像に難くなかった。


 転機は、彼が七歳になった冬に訪れた。意地悪な正妻が身籠ったのだ。十月十日後に生れたのは珠のような男の子だったと、使用人たちの噂に聞いた。盗み聞きする彼を見つけた身の程を弁えない小間使いたちは、せせら笑ってこう言い放った。


「可愛そうにねぇ。これで、お前たち母子はお払い箱だわ。……どうしてって、わからないの?」

「バカね。お前たち母子が呼び寄せられたのは、公爵様の篤志とほんの遊び心からなのよ。けれど、待望のご嫡男がお生れになったのですもの。公爵様もお遊びに興じていらっしゃれないでしょう」

「お坊ちゃまはきっと、立派な紳士におなり遊ばされるわ。旦那様と奥様の間にお生れになった、正真正銘の公爵家の跡取りですもの。お前のような野良猫とは違うのよ」

「清々するわ。公爵様のお指図だから、仕方がなく世話をしてあげていたけれど、我慢がならないのよね。あんたらに染みついた、下町ダウンタウンのドブ臭さが」


地響きが轟き揺らぐ野面に、茫然と立ち尽くしているようだった。うんともすんとも言わない彼を鼻先で笑った小間使いたちが去って行って少し経ってから、彼はあたりを見回した。目に付いた花瓶を床にたたきつける。破片をひとつ握りしめ、彼は駆けだした。近寄ることを禁じられている、父と正妻の寝室を目指して。


 彼はこの立派な屋敷に住まう、心の腐り切った人々のことが大嫌いだった。しかし、ここの生活にはいいところがある。ここに居る限り、飢えることも寒さに震えることもなく、母は薄汚い男たちの暴力にさらされることはないのだから。

 気がついたら、彼は父と正妻の寝室の前に立ち、肩で息をしていた。いつもなら、注文の多い正妻に呼び付けられた使用人の誰か彼かが出入りしているから、彼はすぐさま見つかって、野良猫のように追い払われていただろう。ところが、今に限って人気がない。

 これは大いなる意思の導きかもしれない。花瓶の破片を握りしめた手から淋漓と血を流しながら、彼は思った。

扉に耳をくっつけてみる。扉の向こう側から聞こえてくるのは、生れたばかりの赤ん坊の泣き声と、あの正妻が歌う子守唄だった。

 彼は驚愕した。あの性悪女に、こんな優しい声を出せるなんて、と。そうしているうちに、彼を追ってきた母が彼の手から破片を奪い取り、彼は生れて初めて、母に頬を張られた。


 十年が経った今、父の正妻であり唯一の伴侶となった継母の部屋から聞こえてくるのは、継母の金切り声と、彼女に頬を張られたらしい、十歳になる彼女の息子の押し殺した悲鳴だった。


「あなたは、どうしてそんなに不束なの! どうして何ひとつ、あの妾腹に勝てないの! どうしてお母様を落胆させてばかりなの! カイ、あなたはお父さまとお母様の、たった一人の息子なのよ!」


 彼は偶然、正妻の部屋の前を通りかかったのではない。ガーデンパーティーの邪魔をされた継母が、不甲斐ない我が子、カイに八つ当たりするのを鑑賞しにやって来たのである。今となっては、彼に正面切って無礼を働き、邪魔をするバカな使用人は誰もいない。

 カイは黙っている。継母とそっくりの、キツネによく似た顔を伏せて、ウサギのように怯えて震えているのだろう。この目で見ることが出来ないのが、実におしい。

カイはあの知性の閃きが見られない、濁った沼のような瞳はちゃんと伏せているだろうか。でなければ、きっと

 

「何よ、その目は。あなたもお母様をバカにするの? あのふしだらな『夜の姫君』にお母様が劣っているから、あなたもあの妾腹に劣っていると言いたいの!?」


 ほら見ろ、と彼は声に出さずに呟く。カイは案の定、継母の怒りを買った。カイは腹芸が出来ずに思ったことが顔に出る一方で、人の顔色はてんで読めない。知性の閃きが見られない、ガラス玉のような愚鈍な瞳は、怒りと嗜虐性をよく煽る。

 カイはワンテンポ遅れて、もそもそと籠った声で、しかし必死に、母に許しを請う。


「ごめんなさい、ごめんなさい、お母様。がんばります、ぼくはもっともっと頑張ります。お兄さまに負けないように、もっともっとがんばります。お母様の自慢になれるように、がんばりますから……」


 怒り狂った継母はカイの懇願に耳を貸さずに、カイを廊下に引き摺り出して、部屋から閉め出してしまった。

 

「お母様……お母様……」


 カイの縋る声は、固く閉ざした扉に跳ね返される。頭の鈍いカイでも、こういう時に彼女を刺激すれば、ろくなことにならないことはわかっていた。カイはのろのろと、己と一緒に放り出された鞄を拾い上げ、あたりに散乱した本と筆記用具をひとつひとつ拾い集めた。

 そこで、彼は廊下の角から姿を現した。偶然通りかかった風を装って、カイのすぐ傍で立ち止まると、わざとらしく目を瞠る。


「やぁ、カイ。どうした? そんなところに野良犬のように這いつくばって。みっともないからやめろよ」

「お、お兄さま……」


 振り返ったカイが、ぎくりと顔をこわばらせる。彼はかちんこちんに固まったカイの手から本を取り上げた。ぱらぱらと頁をめくり、ひょいと片眉を上げてカイを見下ろす。


「んん? お前、その年にもなって、まだこんなものを学んでいるのか?」


 良家の子弟らしく、カイは父が選んだ優秀な家庭教師たちに教育を受けており、勉学の進行度はそのままカイの理解度に直結している。赤面症の気のあるカイは真っ赤な顔を隠すように俯いた。

 彼はカイの惨めな姿を、冷ややかな軽侮の視線で見やる。カイが抱える鞄に本を突っ込んで、彼はカイの力んだ肩をねぎらうようにたたいた。


「あぁ、カイ。お前はすごいよ。すごい、努力家だ。実らない努力を、ずっと続けてきた。でもなぁ、カイ。もう、やめてしまえよ。どうせ、無駄なんだからさ。幸いなことに、僕の父親であり、君のお父さまでもあるあの男は大金持ちだ。公爵デュークなんてたいそうな肩書きまで持っていて、それはいずれお前のものになると決まっている。開き直って、遊び呆けて楽しく暮らせばいいじゃないか。才能も魅力も無いお前だけれど、欲張っちゃいけない。ふつうの人間が喉から手が出るほど欲しがる、財と権力を何の努力もなしで手に入れることが出来るんだからね」


 彼はこみあげる嘲笑をのみくだす為に、一端言葉を切った。

 

(この甘ったれたボンボンが努力家? そんなバカな)


彼は心の中で揶揄する。死に物狂いになっているなら、己の非才を恨んでいじけている暇なんて、無い筈だから。少なくとも、彼にはそんな暇は無い。

 そもそも、カイにはきっと無理なのだ。彼が述べたとおり、カイは恵まれている。死に物狂いになって変わらなくたっていい。だめなやつのままでも、うじうじいじけながらでも、生きていける。

 彼は麦藁色の頭髪を見下ろして、優越感に満ちた声音を使って言った。


「いいか、カイ。才能も魅力も、所詮は財と権力を手に入れる為の手段にすぎないのさ。お前には不要だよ。神様はそこのところをよくご存じだ。だから、お前には何も与えなかった。そうして、僕に与えた。そのうちこの家を追い出される僕には、必要だからな」


 彼にいくら不愉快な嫌みを言われようと、カイは何も言い返さない。カイははじめから脚の間に尾を挟んだ負け犬なのだ。

 彼はカイの頭を二度軽く叩いて、居上がった。背を向けて三歩歩いたところで、カイがゆくりなく口を開いた。


「影を」


 彼が足を止める。カイは鞄を胸に抱きしめたまま、こちらを振り返ることもなくじっとしている。彼が立ち去ろうとすると、カイは言った。


「塔の影を、測りました。太陽の高さは、季節と時間によって違うけれど、方角は変わらない……影の長さで、塔の高さを測りました……」


 肩越しに振り返ると、背を丸め、肩をすぼめて小さくなってはいるが、カイは二本の足で立って彼に体の正面を向けている。

 彼が見つめ返すと、カイの瞳はきょどきょどと逃げ惑ったが、最後にはひたと彼を見つめ返してきた。

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