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チルチルハミチルーー私たちと青い鳥ーー  作者: 銀ねも
裏側の一話「彼の記憶」
24/60

継母のサロン

意識を失ったミチルが見た夢は、ミチルがこれまで見てきた中で、最も不思議で奇妙な夢だった。

夢の中で、ミチルは別人になっていた。ミチルの意識が、誰かの心の隅にひっそりと宿っているのである。ミチルが見るもの、聞くものは、ミチルの意識の宿主に完全に同化している。風に乗って漂ってくる胸がすくような香りを「潮の香りだ」と認識する宿主の思考も読み取れた。彼の住む海岸線からほど遠い屋敷にも、風向きによっては、この好ましい香りが届く。


屋敷は高い塀に囲まれている。馬車の御者が首を反らしても、生い茂る装飾的に刈り揃えられた生垣を垣間見ることはできないだろう。馬車は錬鉄つくりの門扉を潜って、広々とした芝生を裂いて通る私道ドライブを並み足で進む。上流階級の為だけの特別な陽光が音もなく輝き、芝のダークグリーンをいっそう鮮やかに照らしている。彼は見事な腕をもつ庭師の働きの成果を、冷めた目で眺めていた。


 車回しまであと少しというところで、彼は一段掘り下げられた庭園に目をとめる。四隅の噴水がきらきらと輝かせる白亜のゲートには、小さな天使の飾りがついている。優雅な柱石の上で睨みをきかせている胸像に囲まれて、女性だけの優雅なガーデンパーティーが催されていた。

薔薇の生垣を挟んで、パーティーの主催者の女と、彼の目が合う。お気に入りの取り巻きたちを上機嫌に持て成していた女は、彼を見た途端に眉を吊り上げた。きつい顔がよりきつくなる。女のご機嫌とりに慣れている筈の取り巻きたちの腰がひけるくらいに。

 

女は彼の継母だった。国王の従妹にあたる彼女は、公爵夫人としてこれ以上ふさわしい血統の持ち主はいないとされ、嫁いできた。彼の父はこの継母との間に息子をもうけており、その息子が爵位を継ぐことが決まっている。爵位を継ぐにふさわしい血統の持ち主だからだ。

長男である彼は、血が賤しい者とされ、はなから後継者の候補に挙げられなかった。


彼は亡き母と共に、この屋敷に連れられて来た日のことを思い出していた。彼の記憶の中にある母は、息をのむほど美しい。眩い白金の髪と魔法にかけられるような碧眼、抜けるように白い肌に、人魚姫のように美しい足。美人にありがちな、人を遠ざける冷たいところのない、優しく柔らかい希有な美貌は、まさに女神のようだ。粗末な襤褸を纏い、淀んだ夜の雨にうたれていても、彼女のいる場所だけがぱっと明るく見える。

屈強な男たちに周囲を固められ、まるで罪人のように連れて行かれることに不安を覚えた幼い彼が縋るように見上げると、母は綺麗に微笑んだ。


『なにも心配しなくていいの。これからはお父さんが守ってくれるからね』


 そう言った母の笑顔には青あざが浮かび、握りしめた手は傷だらけだった。


 彼の意識は追想を渡り、現実に戻る。彼の目に映るのは優しい母の愛情ではなく、継母のむき出しの憎悪だった。

彼は軽く手を上げた。彼の望みを察した従僕がすぐさま業者に命じて馬車を止めさせる。彼は継母の取り巻きたちの視線が集まるのを意識して、颯爽と馬車を降りた。


「どうも、みなさん、お揃いで」


 刺し貫くような激しく険しい目をしているのは、継母だけだ。彼女の取り巻きたちはおおむね、彼に好意的な関心を寄せているように見える。

 継母を取り巻いているのは、うら若き良家の娘たちだ。最も年嵩でも、彼より二つ三つ上なくらいで、皆、未婚である。継母は花嫁修業にかこつけて、このような毛並みの良い令嬢を集め、女王のように君臨するのが好きなのだ。

 せっかくのお楽しみを、よりにもよって彼に邪魔された継母は不機嫌だった。もっとも、彼は機嫌の良い継母を見たことがない。見たいとも思わない。こんな風に、継母の顔を醜くゆがませることに、得も言われぬ喜びを感じる。

 彼が肩を揺らして失笑すると、継母は彼を睨みつけた。幼い時分、この一瞥に恐怖を感じていたこともあったけれど、今となっては脅威ではない。継母にもそれがわかっているのだろう。継母は憎々しげに彼を睥睨し、つっけんどんに言った。


「なんです。にやにやして気持ちが悪い。年頃のレディを前にして、失礼ですよ」

「申し訳ございません、お継母様。自分の思い違いがおかしくて、つい」


 母と呼ばれることを嫌う継母が、顔をひきつらせる。彼は軽く肩を竦めると、興味津津と身を乗り出しているひとりの少女にウインクした。水を向けられた少女は、ぽっと顔を赤らめる。悪い意味の恥じらいではないだろう。その証拠に、継母の顔色を窺いつつも、少女は誘いに乗って来た。

 

「それはどんな思い違いですの?」

「妖精のサロンに出くわしてしまったんじゃないかと。うららかな日の木陰で開かれる、可憐なレディのサロンといったら、真っ先にそれが思い浮かんだものだから」

「まぁ」


 取り巻きの少女たちがさざめくように笑う。彼とさほど面識がない少女たちは頬を赤らめ、彼とある程度面識のある少女たちはうっとりと彼に見入る。そして、既に彼の魅力に絡め取られてしまった少女たちは、周りに同調して見せつつも、詰るように彼を見つめていた。

 継母は、多感な年ごろの少女たちの心の動きを目ざとく感じ取っただろう。性悪だが愚鈍な女ではない。彼が己の花園に忍び込み、無断で花を手折り、蹴散らしていたことを悟ったようだ。継母の憤怒の形相を澄ました顔で観賞しつつ、この顔を見ることが出来るのだから、お高くとまった小娘たちの鼻もちならない我儘を我慢する甲斐があるのだと、彼は内心ほくそ笑んだ。

 やられっぱなしでは済ますものかと、継母は発奮した。小鼻が膨らむのは、興奮したときの継母の癖だ。その滑稽な表情を見て噴出しそうになった彼は、咳払いをして誤魔化す。彼の嘲笑のなごりを睨みつけ、継母はひとつ息をつくと、とりすまして言った。


「みなさん、彼のような殿方にはお気をつけて。お若いあなた方には見分けがつかないかもしれませんけれど、彼は紳士ではありませんのよ」


  継母の言葉には挑発的な響きがある。彼は苦笑しかけた。彼の成績は極めて優秀、スポーツも万能で、いつもひとの輪の中心になるだけの人望があり、おまけに多くの女の子の憧れの的である。彼はこの「非の打ちどころのない青年像」に己をあてはめる為に、必死になって努力を重ねていた。そんな彼を辱めることのできる言葉は限られている。そして皮肉なことに、それは彼が最も嫌う忌語だった。

 案の定、継母は歌うように語り出した。嘆かわしいと、声高に。

  

「あなた方には、彼が魅力的な紳士に見えていることでしょう。無理もありません。彼には特別な魅力があるのよ。異性に対して。彼の母親もそうだったわ。あなた方にはちょっと、刺激的なお話になってしまうのだけれど、許して頂戴ね。彼の母親は夜の姫君と持て囃された、淫らな娼婦だったの。殿方を手玉にとるのがお上手でしてね。お恥ずかしいお話だけれど、我が夫もその一人でしたわ。賢明なあなた方なら、もうおわかりでしょう。彼は母親と同じように、天使のような顔をして、悪魔のように誑し込み、異性を弄んで地獄に突き落としてしまいますのよ」


 継母はつんと鼻を高くし、得意気に彼を見下ろす。その表情を見る限り、彼が鏡の前で練習している完璧なポーカーフェイスは、完璧に通用する程、熟達はしていないらしい。

 彼は心の中で、バカにされまいと封印した汚ない言葉で毒づいた。


(二言目にはふしだらな娼婦の息子の癖に、だ。バカの一つ覚えか、性悪ババア)


 継母は彼が居あわせようと居あわせまいと、彼に話が及べば決まって、彼の母を引き合いに出して彼を貶めようとする。父に一切の遠慮をせずに、秘密が発覚して十三年経った今でも、継母は父の恥ずべき所業を蒸し返し続ける執念深さだ。プライドの高い継母からすれば父ですら、夫である前に、高貴なる自分に恥をかかせた、憎むべき男なのかもしれない。

 そうは言ってもやはり、憎しみの大半はこうして彼と、今は亡き彼の母に注がれることになる。悪いのは全て父なのだから、怨むなら父だけを恨んでくれと、昔は悔しさに涙しながら思ったものだが、今では彼自身、怨まれても当然だと納得するだけのことをしてきた。

 しかし、母は別だ。母に落ち度はない。母を貶められるのだけは、我慢できない。

 だから、継母が母を侮辱したとき、彼は人の目や耳を憚ることなく、容赦なく反撃することにしている。彼は白い歯を見せて微笑んだ。獣が獰猛に牙を剥くように。

 

「愛人って、そういうものじゃないですか? 男は本妻に無いものを愛人に求めるんでしょうから。たとえば、若さ、美しさ、優しさ、なんかを。お父様の場合は、そのどれをも僕の母に求めていたような気がするな。貴女の仰ることが本当ならね。お父様は貴女より、母と共にする時間を楽しみ、望んでいた」


 継母の顔色が変わった。怒気が溢れ、薄い胸が膨らみ、いかり肩が盛り上がる。

 自尊心の塊のような継母にとって、他人と比べられた末に自らが劣っているとされるのは、最も屈辱的な仕打ちだと、彼は知っていた。彼にとって、母をけなされることが最も屈辱的な仕打ちであるのと同じように。


 彼はにっこりとほほ笑むと、取り巻きの少女たちをざっと見まわした。青ざめている少女も、顔を顰めている少女もいるが、俯けている顔でこっそりとほくそ笑んでいる少女もいる。表向きは公爵夫人に阿諛迎合してご機嫌をとっているものの、彼女の傲慢な自慢話に嫌気がさしているのだろう。彼はここに居合わせた数人の少女からは軽蔑されたが、数人の少女からはある種の尊敬を得られたに違いない。

 彼は、彼と同じ思いでいる数人の少女たちに悪戯な笑顔をたむけると、頬を痙攣させている継母を冷然と見下ろした。


「おっと、僕はもう行かないと。この後も予定がぎっしり入っているんです。僕は一緒にいると結構、面白い男らしくて、みんなが放っておいてくれないんですよ。あなたの言うところの、ふしだらな母の血のお陰かな? それでは皆さん、御機嫌よう」


 とどめにせせら笑うと、彼はサックコートの裾を翻して馬車に戻った。腰を押しつけると、継母の恨みの籠った視線がじりじりと肌を焼くのが煩わしくなった。彼は従僕に命じてカーテンを引かせた。

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