立ちはだかる影
部屋を出て西の別棟へ赴いたのは、ミチルにとって一世一代の大仕事であった。ドレスの裾に嫉妬という火がついて、追われるように飛び出したのだとしても。青い鳥の愛を得る為に必死になっていたのだ。
西の別棟でミチルが見つけたのは、テルとベティという、賑やかな二人の使用人だった。二人とも青い鳥と同じく天使だった。
青い鳥だけを愛すると心に決めて、ミチルは西の別棟に足を踏みいれた。青い鳥の狙いは、ミチルを使用人たちと引き合わせることだったのだろうか。と、自室に戻りウェンディに世話をやかれながら、ミチルはぼんやり考えていた。
(今思えば、こんなに広いお屋敷に、旦那様とウェンディしかいない筈がなかったのよね。わたくしは、閉じこもったきり一歩もお部屋を出なかったから、誰とも顔を合せなかっただけ。けれど、わたくしたちの為に働いてくれている使用人の名前はおろか顔も知らないなんて、考えてみればおかしなお話だわ。旦那様は、わたくしが自らの意思で部屋を出て、使用人たちの前に顔を出すまで、敢えて引き合わせまいとなさったのでしょう。わたくしがひと前に出しても恥ずかしくない、夫を一途に慕う貞淑な妻になるのを待っていらっしゃったのだわ)
その晩。現れた青い鳥は、昨日のミチルの粗相などなかったかのように、いつもと変わらず紳士的だった。ミチルは嬉々として西の別棟での小さな冒険談を青い鳥に話した。どうせ、ウェンディから既に伝え聞いているだろうけれど。と不貞腐れる気持ちは、青い鳥の双眸が優しく細められれば呆気なく霧散する。青い鳥は嚥下した上質の肉と同じくらい柔らかな声で言った。
「ほう。我が屋敷の住人のなかでも、特二賑やかナふたり二会ったな」
「あの二人は特別でしたのね。わたくしはてっきり、こちらの使用人はみんな陽気なのだとばかり」
「誰も彼もがあの二人のようなら、流石二喧しくテ堪らんよ。ああいう類ハ大勢ノ中二ほんノ一握り居れば十分だ。大人しい仲間たちを、賑やかしてくれるくらいガ丁度良い」
青い鳥が苦笑して言った。周囲に遠慮なく喧嘩するテルとベティには、青い鳥すら手を焼くらしい。それでも追い出すようなことはしないのだから、青い鳥はなんだかんだ言っても二人を好ましく思っているのだろうし、何より寛容なのだろう。青い鳥が可愛らしく思えて、ミチルはくすくすと含み笑った。青い鳥が不思議そうに瞬きをする。ミチルはおかしな娘だと思われないように、すぐさま言った。
「やっぱりわたくしは幸せですわ。ほんのひと握りしかいない楽しい二人と会えたのですもの」
面食らってばかりだったけれど、二人と話すことが出来たわずかな時間を思い返すと、素直に楽しかったと思える。二人とも、チルチルともジルとも青い鳥とも、全然違う。出会いと新鮮な驚きは、ミチルのすさみがちな心を瑞々しく潤してくれるようだった。
青い鳥は上機嫌なミチルの笑顔を見つめている。凝視と言い換えてもいいほど、無遠慮だった。珍しいことだ。穏やかなまなざしに見つめられるならば胸が躍るが、そうではないと不安になってしまう。耐えかねたミチルは、青い鳥におずおずと問うた。
「あの……ディル様? どうかなさいました?」
「お前ハほんの些細な幸福モ見落とさない」
「ええ、そう心がけておりますの」
虚を突かれた一瞬、取り繕うことのできない間が生じてしまった。ミチルはなんとかこしらえた笑顔で答えて、それ以上追及してくれるなと釘をさした。だが、青い鳥は驚いたことに、ミチルの希望をつっぱねて、大きく一歩、踏みこんできた。
「ちょっとした幸運モ捨て置かず拾い集めずにハいられない。まるで厳しい冬ヲ耐えぬこうと焦る晩秋の蟻ノようだ。何ガお前ヲ脅かす?」
青い鳥は瞬きもしない。白い顔にぽっかりと浮かぶ小さな二つの満月は、空にかかったそれのような引力でミチルの心を波立たせる。
「……わたくしは、幸せでなければいけないのです。幸せでなければ、ここに居られません」
ミチルの唇が解かれ、意図せずに言葉が零れていた。いけない、と焦るミチルの心は、体から切り離されてしまっている。まるで、少し引っ込んだところから体が勝手に動くのを眺めているかのように、思うようにならない。青い鳥は容赦なくミチルに追尋をかけてきた。
「それハ何故」
だめ、とミチルは叫ぼうとした。そのとき、チルチルがミチルの唇を塞いでいることに気がついた。チルチルはミチルの耳元で楽しそうに囁いている。
(隠すことないじゃないか、ミチル。この化け物に教えておやり。君がどれだけ深く、僕を愛しているのか)
ミチルに、チルチルを跳ね付けることはできない。いやいやと頭を振るのが、精一杯の抵抗だった。
(お兄さま。ミチルはお兄さまのことを愛しています。けれど、お兄さま。ミチルには唯一人、わたくしだけを愛してくれるお方が必要なのです)
ミチルはびくりと身を竦ませた。チルチルがミチルを背後から抱きしめたのだ。首に回した腕が、ミチルの細頸を真綿のように絞めている。
ちっとも力はこもっていない。それでも、苦しい。喘ぐミチルの耳元で、チルチルが嘲笑している。
(それはないだろう、ミチル。僕を無理に自分だけのものにしておいて、自分は僕だけのものにはなりたくないなんて。そんな身勝手が許されるとでも?)
胸が押しつぶされた。呼吸が出来ない。ミチルは苦しみに涙し、両手に顔を埋めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……!」
喘ぐように謝罪の言葉をくりかえすうちに、ミチルはしゃくり上げていた。淡い溜息が聞こえ、顔を上げる。溜息をついたのは青い鳥で、チルチルはいつの間にか消えていた。呼吸も楽になっていた。青い鳥はミチルの涙を見て、切なげに目を伏せる。
「お前ハ私の為二勇気ヲ振り絞り、西ノ別棟二足ヲ運んでくれた。お前ノ健気な心ガとても愛しい」
青い鳥が席を立つ。ウェンディが綺麗にメイクアップしてくれたミチルの顔は、涙で化粧が流れ落ち、どろどろになってしまっているだろう。見苦しい顔を隠すことも出来ずに茫然とするミチルの耳は辛うじて、青い鳥の呟きを拾い上げた。
「だが、まだ私だけを愛することハ出来ぬようダ」
ミチルの目頭から、滔々と涙が湧く。突き刺すような熱さと痛みを感じる。ミチルは席を立ち、青い鳥に縋りつきたいと思った。しかし、ミチルの体はチルチルに抱きしめられていて、金縛りにあったように動かない。ミチルはただただ涙するしかなかった。
「……お許しを……」
「お前を責めているノではない」
青い鳥は言葉ばかりでなく、決してミチルを責めようとしなかった。青い鳥は優しい。その過ぎた優しさが、生身の心を覆い隠すヴェールのように思えてしまうほど。
「そんな悲しい顔ヲしないでおくれ、愛しき我が妻よ。憂うことハない。全て私二任せなさい。お前ハ私だけヲ愛し、私の為だけ二生きるよう二なる」
ミチルの胸は、罪悪感の鎖に絞め上げられる。ミチルは青い鳥を見上げた。嗚咽を漏らし青い鳥を呼ぼうとしたミチル唇を、チルチルが強引に奪う。
ミチルの意識はすぐに朦朧とした。ミチルの意思の届かないところで、チルチルが嘲るように言い放った。
「愛しいミチル。君は僕が守る」
青い鳥と睨みあっていたのは、ほんのわずかな時間だった。すぐに、ミチルが昏倒してしまったから。