ミチルとふたりの使用人2
「ここで働く使用人は、あなたたちだけじゃないのね。わたくしは昨日まで、ジルとウェンディしか知らなかったのよ」
すると、ベティがあんぐりと口をあけた。ミチルがなにかしら? と首を傾げると、テルはにやにやしてずいと顔を寄せてきた。
『旦那様を愛称で呼び捨てですか! いやいや、聞きしに勝るあつあつっぷりですねぇ、ひゅーひゅー』
口笛を吹くのではなく、ひゅーひゅーと間の抜けた声を出している。ミチルはテルから距離をとり、誤解をとこうとした。
「違うの、ディル様じゃなくって、ジルよ。ほら、ここの執事のジル。知っているでしょう?」
説明しながら、確かにまぎらわしいわね、とミチルは思った。ディルとジル。発音が少し違うけれど、ほとんど聞き分けがつかない。
ベティとテルは、腕組をして首を傾げる。
『執事のジル、ですか? ここの執事はローブですよ? 見習いも今はいませんし』
『ジルなんてやつ、知りませんねぇ。どんなやつです?』
「うんと……黒のような青のような髪を綺麗に撫でつけていて、面長で、眼鏡をかけていて、お月さまのような瞳の、背の高い壮年の男性よ。ウェンディの前任者で、わたくしの世話をこの十年もの間、ずっとみてくれていたわ」
『それは人型で、ってことですよね? 本当の姿は知らないんですか?』
ベティに訊かれたが、意味がよくわからなかった。
(人型と本当の姿があるの? 天使さまは二つのお姿を好きに使い分けられるということかしら?)
うんうんと呻っているベティの隣で、テルがまたにやにやしている。
『そのジルってひょっとすると、旦那様だったりしてな』
ミチルが虚をつかれて、えっと声をあげると、ベティが軽侮の眼差しをテルに向けた。
『ばかばかしい。上級天使が人型をおとりになるわけないじゃない。真面目に考えなさいよ。奥様が悩んでらっしゃるのよ』
このままだと、また喧嘩になってしまう。そうなってしまうと、ふたりと話しが出来ないので、ミチルはベティを宥めた。
「いいのよ。あなたたちがジルを知らないのも、無理はないと思うわ。ジルはずっとわたくしと一緒にいてくれたもの」
『そのジルさんは、今はどうしてるんですか?』
テルが訊く。ベティも同じ疑問をもっていたようだ。隣で頷いている。
ミチルはふっと目を伏せた。
「去ってしまったわ。つい先日の出来事よ。ディル様は、労をねぎらい暇を出したのだと仰っていたけれど」
既に身に降りかかった悲しみだが、口に出すと別離の辛さがさらに身にしみる。しょんぼりしてしまったミチルの顔を気遣わしげに窺うベティと違って、テルにはまったくデリカシーがなかった。
『ここで一番の事情通の俺ですら、聞いたことありませんねぇ。そんなやつ、本当にいたんですか? 奥様の妄想とかじゃなくって? あんた、いかにも夢見がちな女の子ってかんじ……いってぇ!』
テルはベティの回し蹴りで悶絶する羽目になった。おろおろするミチルの視界からテルが隠れるように立ち位置を変えて、ベティは明るく話をすり替えた。
『ジルってひとは知りませんけど、ミセス・ウェンディならよく知ってますよ。素晴らしい方ですよね。大変な衣食の備えと手配を完璧に管理なさっていて! ご主人さまの味覚を知りつくし、お口に合う料理をお出しする。彼女の働きは完璧です。不足はなく、無駄もない。今は奥様のお世話も任されているけれど、それだって非の打ち所なんてないでしょう? すごい、憧れる』
ベティはウェンディを手放しで褒めちぎると、まるで恋をしているように、うっとりしている。
ミチルは面白くなかったが、膨れ面をつくる前に、確かめたいことがあった。
「ミセス? ウェンディは結婚しているの?」
そうだとしたら、夫がいながら妻のある紳士に色目を使う性悪女ということになるかもしれない。ベティはミチルの声の厳しさを汲み取れずに、能天気に答えた。
『いいえ、奥様。彼女は独身です。けれどみんな、純粋な敬意をこめて、彼女をミセスと呼びます』
『そうです、奥様。ミス・ミセスの男嫌いは筋金入りでしてね。結婚なんて、出来るわけがない。旦那は初夜の寝台にもぐりこんだ瞬間に、細切れにされちまいますぜ』
復活したテルがミチルに耳打ちしてきた。冗談めかしてはいるが、テルがあまりウェンディに好意的ではないことが、その声音と寄せられた眉根から伝わる。
ミチルはもっとテルからウェンディの話を聞き出したかったが、ウェンディに憧れるベティがそれを許さない。テルの尻を蹴飛ばして追い払ってしまうと、ウェンディの称賛を再開した。
「彼女は小間使ですが、家政婦のお役目も兼任しているんです。大変なお仕事ですよ。他の女性使用人たちの指揮に加え、リンネル類や陶器収納戸棚の管理、食糧貯蔵室の監督もしなきゃいけません。食糧の管理と生活必需品を新たに注文する権限は、家政婦が追う重要な責任です。あと、小間使いと保母を除く女性使用人の雇用と解雇に責任もあるんですから、本当、この仕事を全部さばき切れる使用人なんて、そう滅多にいませんって」
「その役割を、ウェンディが担っているの」
ミチルの不機嫌にはいっこうに気付かずに、ウェンディは我が手柄のように誇らしげに胸を張る。
『はい、奥様。家政婦は道義を弁え、その品行は模範的で、家庭内が平和で不安がないように気を配り、かつ家計に十分配慮できる、落ち着いた女性でなければ務まりません。ミセス・ウェンディはうってつけです。流石は旦那様、番狂わせの大抜擢だったそうですけど、素晴らしい人選でした』
『家庭内はミセスのお陰で平和で不安がないんでしょうが、俺たちの毎日は危険で不安がいっぱいなんですがね。ミセスは男にはめちゃくちゃ厳しいんですよ。旦那様にだって、つけつけとものを言うくらいでしょ?』
テルがまぜっかえすが、ベティは歯牙にもかけない。
『あんたが怠け者だから叱られるだけだろ。優秀な家政婦は、主人の為ならば主人にも遠慮をしないもんなのよ』
と切り捨てると、熱心にウェンディの有能さを説き始めた。
『それに、ミセス・ウェンディは素晴らしい技術をもってるんですよ。錬金術の技をつかって、濃いダマスク色の薔薇から薔薇香油を抽出しポプリをつくったり、ラベンダーをドライフラワーにして、リンネル用押入れを良い香りに保ったりできるんです。ここの香りに使われてるやつです。あまり強くありませんから、気にせずにリラックスできますよね。この香りのお陰で、あたしたちはここで仕事が出来ます。香りで誤魔化せなきゃ、お腹が鳴って仕事に集中できませんもん』
この甘い匂いはウェンディお手製のものらしい。ミチルはますますこの香りが嫌いになった。
「ウェンディは小間使いなのでしょう? 本当の家政婦はどうしているの? それともこちらには、家政婦の職はないのかしら?」
本当の家政婦がいれば、ウェンディに大きな顔をさせておかないだろうに。と歯がゆく思って訊ねると、ベティが丸い目をくりくりさせた。
『いいえ、奥様。最大規模の世帯では女性使用人の最上位に家政婦がいる場合がほとんどです。こちらには、ミセス・ジュジュという家政婦がいます。旦那様がご幼少の頃は保母をしていたそうで、ご両親を早くに亡くされた旦那様にとっては、母親のようなひとです。もう結構なお歳ですので、現役は退かれていますけど、旦那様はミセス・ジュジュの他に家政婦を雇われるおつもりはないそうですよ。あっ、因みにミセス・ジュジュも独身です。ミセス・ウェンディに女中らしい振る舞いから仕事のイロハまで、教えたのはこのミセス・ジュジュだそうです』
「まぁ、そんなひとがいたの」
意図せず青い鳥のことを知ることが出来た喜びに声が弾む。テルがひょいと肩を竦めて苦笑した。
『それと、常識と読み書きもね。ウェンディが俺たちの心臓を刺し貫かないのは、一重にミセス・ジュジュの調教の賜物ですよ。ウェンディがここへ連れて来られたばっかりの頃は、手がつけられねぇ暴れん坊でしてねぇ。俺なんて、何度殺されかけたか! 旦那様の顔を引っ掻いたこともあったんです。これには、いつもにこにこ穏やかなミセス・ジュジュも、堪忍袋の緒がぶちギレましたね。ウェンディはミセス・ジュジュにぶちのめされて、やっと大人しくなったんです。あれから、ウェンディの調教……もとい、教育はミセス・ジュジュが全てを担うようになりました。それで、ウェンディは晴れて獣を卒業したってわけです』
「それは、本当なのっ?」
ミチルの声がついつい大きくなる。
(あの完璧なウェンディが、誰かれ構わず牙を剥く、獣じみた野生児だったなんて、誰が信じられるというの? 旦那様のお顔に傷をつけただなんて!)
驚愕するミチルを見て、テルは満足そうににやつく。ベティは苦虫をかみつぶしたような顔つきでテルをねめつけた。