ミチルとふたりの使用人1
ミチルは雷に打たれたようにびくついて、反射的に壁の影に引っ込んだ。テルが怪訝そうに声をかけてくる。
『んん? 壁の影に誰かいるな。誰だ?』
壁にしがみついてどうにか立っていたミチルは、とうとう腰を抜かしてへたりこんだ。金の鍵束が袖から滑り落ち、床に落ちる。ミチルは鍵束を胸に抱いて、自分に言い聞かせた。
(大丈夫、大丈夫よ、ミチル。あなたは何も悪いことはしていないじゃないの。真実の愛を得るために、旦那様はあなたをここへ導いたのよ。なにも悪いことは起こらないわ)
テルはこちらを気にしていて、返事を待っている。ミチルがいつまでも返事を返さないので、怪しんでいるようだ。
ちょうどそのとき、はっと息をのんだベティが、勘違いをしてかしましく騒ぎ立てた。
『やだ、あんまり遅いからポリーが文句を言いにきたんじゃ?』
『怠けてないで、ちゃんと仕事しろよ』
テルが気のない軽口を叩くと、ベティはきっとしてテルに噛みついた。
『あんたがちょっかいかけてくるのが悪いんだろ! あたしはあんたと違って忙しいんだ、もう邪魔すんな! ちょっと、ポリー、聞いておくれよ。あたしはちゃんと仕事をしたんだ。今戻るところだったんだけど、テルのバカにつかまっちゃってさ』
ベティが早口で言いわけしながら、ミチルの方へ近づいて来る。それを制したのだろうテルは、尖り声を出すベティを無視して、ミチルを煽るように言った。
『なぁ、ポリー。ベティはこうやってなんでもかんでも俺のせいにするんだ。ひどいと思うだろ? こっちに来て、一緒にベティに説教してやろうぜ』
ベティに話を合わせながら、テルは疑いの刃を後ろ手に隠している。やましいことはないのに、これ以上隠れていても、事態がややこしくなるだけだ。ミチルは覚悟を決めた。笑う膝を叱咤して苦労して立ち上がると、しずしずと姿を現した。
ミチルの姿を見ると、二人の天使は目を丸くした。二人の前に出てから、ミチルは自分が眼帯をかけていないことに気が付いて青くなったが、幸いなことに、乱れた長い前髪が左目の目隠しになっている。ミチルは前髪を撫でつけながら、挙動不審にならないように気持ちを落ち着けると、にっこりとほほ笑んだ。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりなんて無かったのよ。どうしたらいいのか迷っているうちに、結局、盗み聞きをすることになってしまったけれど……」
ミチルはまだ言葉を続けるつもりだったが、テルが身ぶり手ぶりでミチルをとめた。ベティの肩を抱き寄せて、耳うちする。耳語の甲斐なく、ミチルにもはっきりと内容が聞き取れてしまった。
『……おい、ベティ。こちらのレディはどなた?』
『知らないわよ……旦那様のお客様かしら? でも、来客の予定なんてずっと無かった筈なんだけど……』
ベティはテルの腕を払いのけつつ、困惑しきった目はミチルから離せない。テルも戸惑っている。
『お客が西棟に来ること自体、おかしくねぇか? つぅか、鍵かけたのに入って来てるの、なんで?』
『どうせ、あんたがかけ忘れたんでしょ。……待ってよ。じゃあ、まさか……泥棒!? 人型をとって食糧庫に紛れようとしたとか!?』
『かもねぇ……食うに困ってるナリじゃねぇけど』
なんとなく腑に落ちない様子でテルがひとりごちる。
この話の成り行きはまずい。褒められたことではないが、やむにやまれず、ミチルは慌てて口を挟んだ。
「勘違いしないで頂戴ね。わたくしは泥棒じゃなくってよ。ディル様から鍵束をお預かりして、お屋敷を見て回っていたの」
そう言って、金の鍵束を胸の前に吊り下げる。すると、ミチルを見る二人の目が変わった。
『ま、まさか……奥様!?』
『おぉっ、マジかよ! これが噂の青い宝石!?』
二人がほぼ同時に素っ頓狂な声をあげる。唖然としているミチルの前で、ベティがテルの馬脚を蹴った。
『ちょっと、あんた奥様になんて口の利き方をしてんだ! ミセス・ウェンディにぶちのめされるよ!』
『先にお前がぶちのめしてんじゃねぇか!』
この調子だと、二人はまた二人の世界に戻ってしまうだろう。誤解が解けたらしいことで余裕が生まれたミチルは、二人の会話に加わりたくなった。
(まずは、自己紹介ね)
ミチルはドレスの裾をつまむと、ちょこんとカーテシーをして見せた。
「はじめまして、わたくしはミチル・メーテルリンク。あなたたちが察した通り、ディル様の妻よ」
主人の妻から客人のように礼を尽くされて、恐縮したベティがさぁっと青ざめたような気がする。ミチルはベティを安心させようとして出来るだけ柔らかく微笑んだ。短い間に自分のペースを取り戻ししゃあしゃあとしているテルと、すっかり色を失いへどもどしているベティを順に見やる。
「あなたがテル。あなたがベティね」
ベティはあうあうと意味のない声を出すだけで答えられそうにない。テルはベティの半歩前に出ると、右の掌を見ながら飄々と言った。
『えっと……ちょいとお待ち下さいよ……っと、そうだそうだ。俺のここでの名前はサベゲテル・ラニマーテルです、奥様』
掌から目を上げたテルは、臆面もなく女主人のミチルを見つめる。磨りガラスのような瞳は、何を考えているのか悟らせない。
『奥様はここの出身じゃないでしょ? 俺、ここに落ち着くまで、あちこち転々としましたけど、ここほど住み心地がよくって、ややこしい名前をつける国はありませんでしたね。俺なんか、自分の名前も未だに覚えれてません。俺のことはテルでいいですよ。仕事は毎日ナイフとフォークを洗って、薪を割って、暖炉の燃料として石炭を運びこんで、長靴と短靴を洗って、庭を掃くことです』
テルは図々しくも手まで差しのべてきた。ミチルがまごついていると、我に返ったベティがテルの手をはたき落とす。
『こいつは、下働き(ハウス・ボーイ)です。働きっぷりがふまじめだから、お務めが長いってのに、こんな雑用仕事しか貰えないんです。旦那様はお優し過ぎます。あたしが主人だったらこんな奴、家令に命じてすっぱり首をちょん切ってやりますよ』
ベティはすっかり調子を取り戻し、テルを睨んでからぺこりと頭をさげた。
『あっ、申し遅れました、奥様。あたしはケキーク・ベディグルルです。お好きなようにお呼び下さい。テルはあたしのことベティって呼びますけど、それはこいつが勝手につけた渾名です。因みに、両親にはケキーって呼ばれます』
そう言うと、ベティははにかんで微笑んだ。ペンギンの顔は愛きょうがあってかわいい。使用人として節度を守れているかと聞かれると首を傾げるが、少なくともミチルは気にならない。ミチルは友好的にベティに微笑み返した。
「そうなの。それじゃ、わたくしもベティと呼ばせて貰うわね」
そう言うと、ベティがわかりやすくがっかりした。面食らうミチルに、テルがにやりと笑う。
『でしょ? ケキーってなんか変ですよね? サルの鳴き声みたいで』
同意を求められて、ミチルは当惑した。ミチルがベティという呼び名を選んだのは、ケキーという呼び名が変だったからではなく、先にそちらで認識していたからにすぎない。
ベティはくわっとテルを睨み上げた。
『おい、こら! 愛する両親への侮辱は許さないよ』
ベティの蹴りを今度はひらりとかわし、テルは鼻で笑った。
『お前は今さっき、俺の最愛の俺を侮辱したじゃねぇか。あいこだ、あいこ。奥様、勘違いしちゃ嫌ですよ。ベティは俺のことを能無しの木偶の坊みたいに言いますけどね。祭日にはもっと多くの仕事を命じられます。たとえば、窓や家庭用具真鍮品や暖炉用鉄具を磨く仕事です。離れ屋には石炭を燃やすボイラーが独立して設置されてるんですけど、もう見ました? まだですか、でしたら後で是非。奥様みたいな美人だったら、俺が案内してもいいな。あそこから、屋敷と大きな温室に熱を供給してます。冬場には火を掻き起こしたり、必要なら燃料を補給したりして、このボイラーを適切に管理するんです。俺の働きがなけりゃ、みんな冬眠しちまいますよ』
ミチルはそうなの、と相槌をうちながらあとずさった。テルがどんどん距離を詰めてくるのだ。パーソナルスペースが極端に狭い。さらに、レディへの配慮が極端に欠けている。
ベティはテルの尻尾をつかんで、手綱を操るようにぐいと引きもどす。ぎゃっと叫んだテルを冷ややかに打ち見て、やれやれと頭を振った。
『あんたがやらなくたって、時間さえあれば他の誰にでもできる仕事でしょ。自慢気に語ってんじゃないよ』
その言われように、テルはカチンときたらしい。思いっきり顔をしかめて、千切って投げるように言い捨てた。
『いちいちつっかかってきやがって。可愛くねぇな。そんなんだから、男が出来ねぇんだ』
この悪口はあまり効果がなかったようで、ベティの悪態はつんとそっぽを向くにとどまった。
『ふんだ。あたしは自分を安売りしないだけよ。そもそも、ここの暮らしは出会いがないし。ここで勤めてる独り身の男があんたしかいないってところで、恋愛なんてできっこないじゃない』
『こんないい男が身近にいるのにその気になれないなんて、お前ってやっぱ変わってるな。それじゃ、新しい出会いに期待しとけ。こんな求人広告が出てたぜ。『求む。ポニーと二輪ばねつき軽馬車及び庭を管理し、ナイフと短靴を洗い、幅広い分野で役に立つ、力の強い見苦しくない男子』だと。こいつが二目と見れねぇ見苦しいブ男だったら、お前の御眼鏡に叶うんじゃないか?』
『それ、あんたの後釜の募集じゃないの?』
何だとぉ、と喧嘩腰になったテルと、なによやる気? と受けて立つ気満々のベティの気を逸らそうと、ミチルはやや強引に話をそらした。