チルチルとミチルの約束2
チルチルは、ミチルに安心感を与える端正な目鼻立ちで、品よく微笑んでいる。
「可愛いミチル。良い子にしていたかな?」
「はい、お兄さま。お兄さまのお言いつけをよく守り、良い子にしていました」
ミチルは、舌ったらずにならないように注意して、ゆっくりと言った。チルチルが「偉いね、良い子だね」と褒めてくれると、体がふわふわと浮かび上がるような心地がする。チルチルに飛びつきたくてうずうずした。格子を越えられないのが、無念だった。
チルチルの、うっすらと生えたうぶ毛につつまれた形のよい耳の裏から、とてもいい匂いがする。そこからつづく、すんなりとした首筋の流麗な線を吸い込む、清潔な白いシャツの襟元からは、濃密な芳香がたちのぼっている。
前々から、いい匂いだと思っていたけれど、最近になって、ますます強まっている気がしていた。ミチルは、強いお酒にあてられたみたいに、くらくらと酩酊したようになってしまう。チルチルは、匂いに敏感なミチルを気遣い、香水はふらないので、これは、チルチルの匂いなのだ。
決して、嫌な臭いではない。むしろ、とても好ましい匂いだ。ミチルの幼い理性を突き崩すような、危険な香りだった。
匂いだけではない。優しい面立ちに理想的な笑顔を浮かべて、ミチルの目の奥の奥まで見詰めてくれるのだから、ミチルの胸は、高鳴った。チルチルが読んでくれる本には、たくさんの素敵な王子様が登場する。どんな華美な詞を措かれていても、ミチルには、チルチルより素敵な紳士が想像できないので、物語の全ての王子様がチルチルの顔をしていた。
チルチルは、小脇に抱えていた鞄を開き、中から本を取り出した。
「良い子には、ご褒美をあげよう」
チルチルは、鉄格子の隙間から、一冊の本を差し入れた。ご主人様に見つかってはいけないので、チルチルは、読み聞かせる本を毎回、持ち込み、持ち帰る。この前の読み聞かせで、ミチルは一冊の物語を読破していた。いま、チルチルが出した本の表紙は、ミチルが初めて見るものだ。
ミチルは、目を輝かせた。
「まぁ! 新しいご本だわ! いま、読んで下さるの!?」
ミチルがぴょんと跳ねると、ドレスの裾が花弁のように翻り、ペチコートどころかドロワーズまでが露わになる。チルチルは、頭髪と同じ、白金色の長くたっぷりとしたまつ毛を伏せて、ゆるゆると頭を振った。
「お行儀が悪いよ、ミチル。メーテルリンクの息女たる者、完璧な淑女でなければならない。淑女に嗜みを、忘れてはいないだろうね? 言ってみようか」
ミチルは、チルチルの言葉で椅子に押し戻された。今すぐに、格子に飛びつきたいのだが、チルチルをがっかりさせたくない一心で、踏みとどまっている。チルチルから、歌うように言い聞かせられてきた教えを、少し尖らせた唇で、早口に唱えた。
「ひとつ、常に美しくあること。ふたつ、常に淑やかであること。みっつ、常に紳士の安らぎであること。よっつ、常に神の目がご覧になっていることを忘れないこと」
そうだね、とチルチルが目許を和ませる。白い手が、ミチルを手招いた。
ミチルは、ふわふわと浮足立ちそうな足を、懸命に床に縫いとめて、ドレスの裾を翻さないように細心の注意を払いながら、しずしずと格子に歩み寄る。
チルチルから本を受け取ると、幼い喜びは、付け焼刃の淑女の真似ごとでは押え切れず、あけっぴろげな喜びが顔じゅうにひろがった。チルチルは、無粋に嗜めることなく、格子の隙間から差し入れた手で、ミチルの右側から、そっとミチルの頭を撫でた。
「最後の一つは、お兄さまとの大切な約束。常に幸福であること、だね」
「はい、お兄さま」
優しく温かい手に撫でられて、ミチルは夢見心地で目をとろんと細めた。チルチルは良い匂いがして、あたたかい。高鳴る鼓動で、幼い胸が痛むほどだ。
チルチルは、ミチルの右目を覗き込んだ。ミチルは、生まれつき、左目が見えない。眼窩に埋まった目玉が、瘡蓋より固く変質している。ものが見えない、役立たずのくせに、膿んだ傷口のように敏感で、自分の手でも触れられないくらいだ。だから、チルチルはミチルに触れるとき、必ず右側からゆっくりと触れてくれる。
チルチルは、羽根で触れるように優しく言った。
「がんばるんだよ、ミチル。何処に出しても恥ずかしくない、完璧な淑女になるんだ。そうすれば、お父様もきっと、ミチルがここから出ることをお許し下さるだろう」
「はい、お兄さま」
チルチルは、ミチルを外に連れ出したいらしい。ところが、ご主人様は、ミチルを外には出したがらないらしい。
ミチルは、チルチルと一緒にいられるなら、何処でもいいと思っている。外に出れば、今よりも、長く一緒にいられるとチルチルが言ったから、外に出られるように、完璧な淑女を目指すようになった。
けれど、ミチルには、気がかりがある。物語られる女の子に必ず訪れる、幸せな結末についてである。ミチルは、チルチルの手を両手でとり、自分の柔らかな頬に導いて、訊ねた。
「お兄さま。ひとつ伺ってもよろしいですか?」
「なんでも訊いておくれ」
「良家の子女が幸せになる為には、幸せな結婚をしなければならないのですよね?」
「そうだね。よくお勉強しているね」
ミチルは、チルチルの乾いた掌に頬ずりしながら、やっぱり、と肩を落とした。不思議そうに瞬きするチルチルの顔から、するりと視線を落として、陰鬱な呟きをその上に落とす。
「わたくしも、完璧な淑女になったら、立派な紳士のもとに嫁ぐことになるのでしょう? お兄さまがいらっしゃらないお宅で、うまくやっていけるのかしら。不安で仕方がありません」
ミチルが悩みの種を詳らかにすると、チルチルは、きょとんとした。困ったような顔で笑う。
「その心配は、ミチルにはまだ早いよ。結婚にはね、適齢期というものがあるんだ。女の子の体から、女性の体になる支度が済んでいなければ、結婚は出来ないんだよ」
「おしたくって、なぁに? 今から始めておかなければいけないこと?」
ミチルがきょろんとした目で見上げると、チルチルは、はっきりと苦笑した。ミチルを戸惑わせないように心を砕き、いつもにこにこしてくれるチルチルが浮かべる、珍しい表情だ。
「さぁ。僕もよくわからないんだ。不甲斐ない兄ですまない」
「お兄さまに、わからないことが、わたくしの体におこるのですか? いやだわ。そんなの、こわいわ」
チルチルは、俯くミチルの顔を、壊れ物を扱うような手つきで上向かせる。格子に額を寄せて、心配しないで、と微笑みかけた。
「そのときが来たら、体が自然と支度を始めるそうだよ。支度が整うのは、はやくても、十代前半じゃないかな。まだまだ、先のことさ。今はただ、心の用意だけ、しておきなさい」
「はい、お兄さま」
ミチルは、素直にうなずいた。チルチルが心配しなくていいというのなら、何も心配はいらないのだろう。それに、まだまだ先のことらしいのだ。まだまだ、結婚をせずに、チルチルと一緒にいられる。
ミチルは、格子から両手を伸ばし、チルチルの体に触れた。格子にぴったりとくっつく。格子は、あまりにも冷たくて、熱いような気もして、とても怖い。けれど、その隙間からチルチルのあたたかい体に触れられるのならば、いくらでも我慢できる。
ミチルは、チルチルの腰に短い手をしっかりと手を回し、うっとりして言った。
「ずっと、おしたくが整わなければいいのに。そうしたら、ずっと一緒にいられるもの」
「そんなことを言ってはいけないよ、ミチル。女の子は女性になって、はじめて、神様から新しい命を授かることが出来るのだから。これは、女性にしかできない、とても尊いお役目だよ」
ミチルをやんわりと嗜めたチルチルは、逆説の言葉を挟むと、一転して、表情を曇らせた。碧眼が愁いをおびて、スコンスの灯りに光っている。
「けれど、ミチルが行ってしまうかと思うと、僕の胸は、さびしさで張り裂けそうだ」
「でしたらわたくしは、どなたの御許へも、嫁ぎません!」
ミチルが固い決意をして発した誓いの言葉を、チルチルは、幼子の戯言だと思ったようだ。小さく含み笑う。
むっとして反駁しかけるミチルの抱擁を柔らかくほどくと、固い床に跪き、ミチルの右の頬に手をあてた。ミチルの顔を、熱心なまなざしで見つめて、チルチルは感嘆のため息をついた。
「そういうわけには、いかないよ。君はいつか、お父様のお許しを得て、晴れて外の世界に出る。社交界にもデビューする。紳士淑女の皆々が、君に夢中になるだろうな。君はお母様によく似て、とても美しい。碧い宝石のようだ」
ミチルは、身をよじってミチルをその場に縫いつけるチルチルの手から逃れると、その胸に飛び込んだ。
「でしたら、お外になんて出さないでください。お兄さまと、はなればなれになるのなら、わたくしはずっと、ここにいます。チルチルお兄さまが、わたくしの目となり、耳となり、お外の世界のことをお知らせくださるもの。ご本の頁にも、お外の世界が詰まっています。わたくしは、それで十分です」
「それは早計だよ、ミチル。君は、外の世界に出たことがないから、そんなことを言う。外の世界の素晴らしさは、僕の口からでは、とても伝えきれない。膨大な魅力の渦だ。君がその体全体で感じなければ、本当の素晴らしさは、わからない。それは、不幸なことだと、思うんだ。僕は、君のこの美しい顔が、陽や月の光に照らされて、きらきら輝く様子が見てみたい」
ミチルは、もう、と頬を膨らませた。こどもじみた、淑女にあるまじき振る舞いだが、やりきれなかった。なんと言ったら、ミチルの想いが通じるのだろうと、ずっと考えていた。
答えは出ずに、ミチルはチルチルの肩を抱き寄せて、額をすりつけた。
「お兄さまのお嫁さんになれたら、素敵なのに」
チルチルが、また苦笑する。
「君は、お父様と僕以外の男を知らないからね」
ミチルは、ぱっと顔を上げた。噛みつくように言う。
「お兄さまみたいな殿方は、他にはいらっしゃいません! 綺羅星のような紳士たちが、それこそ星の数ほどいらっしゃるご本の中にも、お兄さまよりわたくしの心を奪うお方は、いらっしゃらなかったわ! たくさんのご本を読んで頂いたわたくしが言うのですから、絶対なのです!」
むきになってまくしたてて、ミチルは、しょんぼりした。チルチルが真に受けてくれないのは、ミチルがチルチルの半分も生きていないからだろうか。ミチルの努力ではどうともし難いことで、相手にして貰えないのは、悔しい。
チルチルだけが、ミチルを心のあるひととして、扱ってくれる。ミチルの名前を呼んで、すぐ傍に来て、頭を撫でて、抱きしめてくれる。ミチルは、チルチルが大好きだ。チルチルとずっと一緒に居られるなら、綺麗なお部屋も、お洋服も、すべて差し出しても構わない。
チルチルは、ミチルの背に腕をまわした。幼いミチルは、チルチルの腕にすっぽりとおさまる。まるで、そこにおさまるべくして、つくられたみたいに。チルチルは、ミチルの頭と背をぽんぽんと叩いて、笑みを含んだ声で言った。
「ありがとう、ミチル。とてもうれしいよ。僕も、君みたいに愛しい女の子を、他に知らない」
「本当にっ?」
腕におさまったままぴょんぴょん跳ねるミチルを、チルチルは宥めた。本当だ。本当だよ、と。そして、ミチルを有頂天にさせる言葉を紡いだ。
「もし十八歳になるまでに、僕より好きな男が現れなかったら……僕と結婚してくれる?」
「はい、喜んでっ!」
ミチルは嬉しくて、嬉しくて、そこら中を駆け回りたかった。けれど、完璧な淑女となって外に出なければ、結婚がお預けだと思いだす。
躍動する喜びが、発散されたがって体の中を暴れまわり、ミチルはけたけたと、いささか品性に欠ける笑い声をたてた。
チルチルは、ミチルから体をはなすと、くすぐられたように身をよじって笑うミチルの頭の上で、手をぽんぽんと弾ませた。
「まだ、わからないよ。ここから出て、色々なことを知ったら、君の考えが変わるかもしれない」
水を差されて、ミチルはむくれた。視線でチルチルを詰る。
「わかりきっているわ。わたくしの気持ちは、絶対に変わりません。わたくしがお兄さまのお嫁さんになるのは、もう決まったことなのです」
ミチル、とチルチルに名前を呼ばれる。切なそうに寄せた柳眉の下で、チルチルの瞳が熱に浮かされたように濡れていた。
「ありがとう」
チルチルはミチルを抱きしめた。
「君は、僕の「幸せの青い鳥」だ。当たり前にそこにいてくれる幸せが、君なんだ。僕は、気付けてよかった。君が、ここにいることに」
「はい、お兄さま」
ミチルは、はりきって返事をした。チルチルも、ミチルのことが好きなのだ。結婚したいと思っている。それだけがわかれば、幼いミチルが悩むことは、もう何もなかった。
チルチルは、ミチルの肩口で、すん、と鼻をすすった。ミチルがその顔を覗き込むと、チルチルは、はにかんで訊いた。
「結婚したら、お兄様ではなくなってしまうけれど、それでもいい?」
「気にしません。ときどき、間違って呼んでしまうかもしれないけれど、お兄さまも、お気になさらないで」
「きっと、間違うだろうね」
どちらからともなく、ふふっ、と笑う。チルチルは、格子に背を預けるように、ミチルの体を転向させて、絨毯に座らせた。ミチルを背後から抱えるように腕を回し、ミチルの胸の前で本を開く。
新しい本の世界を目の前にして、わくわくしているミチルの耳元で、チルチルは囁いた。
「ミチルは、僕が守るよ。君が、僕を必要としてくれる限り、ずっと一緒だ」
そんな嬉しいことはない。十八歳の誕生日に、ミチルはチルチルと結ばれるのだ。ミチルは、首をめぐらせる。
「本当ですか?」
肩越しに振り返るなんて、とても褒められた振る舞いではなかったが、チルチルは、うるさいことを言わなかった。
「ああ、約束する」
と言ってくれた。
約束という言葉は、思いもよらぬ重さをもって、ミチルの心の中に波紋を投げかけた。
「約束……約束ですね」
「そう、約束だ」
約束。ミチルは、その言葉を何度も舌の上で転がし、心で反芻した。
――チルチルは、ミチルに約束をした。絶対に守らなければならない。チルチルは、ミチルと一緒になければならない。何があっても、ミチルが望む限り、ずっと一緒に居なければならない。決して、約束を違えてはならない。
ミチルは、チルチルの目を真っ直ぐに見詰めた。心の底を見透かそうとして見つめていた。
「約束、ですよ。絶対に、絶対に守ってくださいね」
チルチルは、ミチルの執拗さに失笑した。
「守るったら。約束する。はい。約束した」
と言って、ミチルの旋毛にキスを落とす。ミチルは、くすぐったくて、きゃっ、と悲鳴をあげて首を竦めた。くすくすと笑いだす。
チルチルは、くすりと笑うと、なめらかな声で言った。
「ミチルも、お兄様に約束しておくれ。絶対に幸せになるって」
「はい、お兄さま」
ミチルは、チルチルに約束をした。絶対に守らなければならない。ミチルは、必ず、幸せにならなければならない。約束を、違えてはならない。